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 今尚余韻だけが蔓延しているこの空間で、彼女の今しがたの演奏を打ち消すという、そんな技術が私に備わっているのか懐疑的です。

 いっそ、ピアノでも弾けば良いかもしれません。幼女は完全なクラシックでしたので、都合よくショパンのノクターンですし、思いきりジャズアレンジにでもすればお茶くらいは濁せるでしょう。

 

 それ以外だと……。


「あ、誰もやらないなら、私がやろっかな」


 真横に居た生徒が、挙手をしました。呑気な口調ですので、きっと、今の演奏の凄まじさが分かっていないのでしょう。

 と、私の肩に手が置かれた。


「この子とやるよ」


 瞬間、部室中の生徒が声を上げた。廊下の外の二重ガラス越しにも大量の生徒が見物に来ていて、そのガヤ達も驚きに声を上げているようです。


 これはこれで、異常事態宣言が発令されたと直様にでも理解できました。


 肩に置かれた手は、すっとそのまま下方へ降り、私の手を握り、力強く前方に引きました。見える背中は異常に肌が白く、純正と思わしき柔和な金髪が腰まで伸びています。


 背中しか見えないのに、美女だと納得させられました。

 この人なら、アレの次はできるのだろうと根拠の無い確信も持てました。


 何が凄い人なのか不明でしたので、その凄みたるものを見られるのかぁ、なんて気軽に考えていたりもしていました。


 この状況を飲み込むには時間が掛かって、結露したガラスの梅雨が私の眼球から少しだけ取れたのは、「んん、こんな音がいいの?」と彼女がブラウンの瞳を向けてきた時でした。


 その時既に水色のフェンダー・ムスタングがお腹の前にあり、足元にはエフェクターがいくつか並んでいて、それを金髪美女が調整しているのです。

 ふと顔を横向けると、他の生徒達が全員こちらを向いていて、私よりも一段低い場所に居ます。


 あれ?


 私は、ステージに立っていました。


 この子とやる、と言った「この子」は、私だったのです。


 まるで映画のカットが切り替わったかのように目の前の背景が変わりましたが、私は子供の頃から頭の中で考えていると周囲が見えなくなる癖があり、別段不思議でもありませんでしたし、驚く事もありませんでした。


 そもそも、私は緊張という感覚が馬鹿になってしまっているようで、もう随分と前から人前で上がった事が無いのです。


 とはいえ、状況が芳しくないのは明白でしたし、何かをしようにもアイディアが浮かんできませんでした。


 どんな思考も浮かばないという状況は初めてで、動くにも動けない……。


 と、思った瞬間、ふっと目の前に霞が掛かりました。霞掛かった世界で、音だけが聞こえました。ディストーションが強めにかかり、でも音の粒に尖りがあって細かい。ストラトキャスター特有の音質。しっかりブリッジミュートで音を潰し、更に切れを強調する。ほぼ同時に歌いだした声は、やや喉の奥で押しつぶし、高音域に丸みを持たせている。


 あ、私の声だ。


 視界が晴れると、私の前方に千歳が居ました。顔を斜め上の天井に向けて突き出し、足も広げ、前傾姿勢なのに背筋をしっかり伸ばしている、不良男子みたいな歌い方です。


 曲を聴いて、理由ははっきりとしました。


 グリーン・デイ「バスケットケース」。


 金髪はドラムにこそこそ歩き、いつの間にか居たベースの先輩もニヤニヤとベースを担ぎはじめます。


 それはそうと、前方の千歳に舞台を丸投げしたのは久しぶりです。子供の頃はステージが面倒だと思う日が多々あり、その度に任せていたものですが、演技を覚えるにつれ彼女の出番は少なくなって行きました。彼女は技量としては申し分無いのですが、如何せん、演技に幅が無いのです。だって、人形だから。


 初めの独奏パートが終わった瞬間、満を持したドラムとベースが参戦してきました。

 ドン! っと床が揺れました。

 ベースの先輩がいきなりジャンプして演奏を開始し、その着地に故意にドラムがバスドラを合わせていました。間隔の取り方が絶妙で、演奏を一気にトップギアまで加速させていきます。

 

 これは、マズイかもしれません。

 

 先ほどから、背中がシンクロを初めています。ぶるぶると震えているますし、汗のべた付きまで伝わってきます。前方の千歳の危険信号です。

 

 理由は、聴けば分かります。この二人、かなり上手いです。特に、ベースの先輩。潜在能力(ポテンシャル)というより、技量を演出と組み合わせていくのが上手いのです。

 体を激しく振っていますが、その挙動に合わせて音をドライブさせてきますし、私の見せ所では隙間を埋めたり、あえて空白を作ってみたりと、決して主役にはならないのにグルーブ感を底上げしてきます。

 この人も物凄い美人で、たぶん雑誌かテレビかどこかで見ている気がするので、例の「BIG3」のうちの誰かでしょう。

 

 それとは逆に、ドラムは想像以上にパワフルでした。女神の様な見た目からは想像できない程音が前に出てきて、というか、走り過ぎている気がします。緊張しているようには見えなかったですし、音自体も緊張が見られません。

 技量がこの上なく高く、こんなレベルの人間が走りすぎているというのが、どうにも気持ち悪いのです。


 ベースの人は兎も角、ドラムの美女は、明白に私を誘っているようなのです。なぜ、私を挑発するのでしょうか?


 前方の千歳の夥しい背中の汗は、技量的に追いつかないという私への信号とは別に、生命の危機を私に伝えている気がしてなりません。


 彼女はなぜ、ここでは無名であるはずの私を、このステージに誘ったのでしょう?


 なぜ彼女は、私への挑発を繰り返すのでしょう?

 私の何を、彼女は知っているのでしょう?

 胸がドクドクと疼き始めていました。これは、マズイ。


 千歳が、持たない。


 背中から、心臓から、どんどん私に感覚が戻されていくのが分かります。かつて一度だけ、それでも私は前方の千歳と交代しない事がありました。実験のつもりでした。


 その時彼女は、狂い叫んで壊れたのです。


 曲は一番が終わったばかりですし、出番も久しぶりでしたし、最後までは持たないでしょう。こんな入学式の初日から醜態を晒すわけには行きません。如何せん、カメラが向けられた世界ネットの御前なのですから、私の事などたちまちに探られてしまうのです。


 幸い、演奏プランはドラムの人が作ってくれていましたから、今から出ても大丈夫でしょう。


 嫌な門出です。一千万回再生に向かうのではなく、私に背を向ける事からこの青春が始まってしまうのです。


 高校に行けば、全く新しい私でスタートできると思っていたに……。

 

 間奏をつなぎ目にして、私は体に溶け込みました。

 

 入った瞬間、マグマが全身から溢れ出すようでした。これは、ギリギリだったかもしれません。後一番だけ、などと俯瞰していたら手遅れだったはずです。


 まずはこれを急冷却しなければ、私の体力が持ちません。


 方法は知っています。

 別の方向からの演技プランを、今より過大に持ち込むのです。

 

 私はここまで小刻みにストロークしていた演奏スタイルを変え、ジャーンと鳴らし歌を重視する方向へシフトしました。

 同時に、声質も変更します。不良パンク少年のような太くしゃがれた声質から、高音部までを細く尖らせ、最後の部分だけ虹を描くように伸ばす、少々ニヒルで余裕ぶった映画女優のように歌い上げます。

 たまに髪をかき上げたり、微笑を含ませたりもします。

 

 このプランは正解でした。

 私が笑窪を作って微笑むと、会場の観客である生徒達の顔からも緊張が取れ初め、所々でリラックスした笑みが零れ始めます。

 

 こうして空間を支配してしまえば、ドラマーもツツキを続ける分けにもいかないようで、私に合わせて優雅にドラムを叩き始めました。


 と、表面上はプラン変更に成功したのですが、私は体を冷やす事に必死でした。思っていた以上に人形の動揺が激しかったようで、体力がほぼゼロに近かったのです。

 優雅な演奏に見せかけたのも、そもそも、あのまま走った演奏を弾ききるには力が残っていなかったと言えます。

 

 体力を戻す方法はいくらかありますが、このライブは一曲限りで、その一曲すらももう終わってしまいます。


 仕方がない。このまま天井を抜けてしまいましょう。


 最後のサビを前に、一気にギターを加速、顔を前へ、体も前へ!


 この日最高潮のテンションで熱烈に歌い上げる。


 その名も、火事場の糞力方式。


 現代的に言えば「アドレナリン方式」でしょうか。強制的に限界を超えさせる。

 母親などは「そんな事ができるのは若いうちだけよ」と言いますので、これは若人の特権みたいな方法なのでしょう。

 

 特に私はやり過ぎる傾向があるらしく、これを使った場合、往々にしてお客さんが引いてしまいます。

 

 この時もそうでした。

 

 アドレナリンモードに入った瞬間から、再度観客の顔は強張りました。演奏が終わっているのに、みんな拍手もくれません。

 ようやく声が上がったのは、私がギターストラップを肩から外し、ギターを降ろし、アンプの音量を落としてシールドを外した後でした。


 でも、私は意外と、この瞬間(モード)が好きなのです。


 このモードを使うと初めこそ静かなのですが、ほら……。

 

 割れんばかりの歓声が、私の背中の方から聞こえてくるのです。

 これがあるから、私は限界を超えられるのです。


 いつもなら、ここで振り返って笑窪でも作るのですが、今日は流石にヘトヘトになっていて、ギターを片付けるのにも精一杯でした。直ぐにしゃがみ込んで、エフェクターを片付けるフリをして休憩をとりました。


 顔を俯け、なるべくこの状態を見せないように振舞う私に、後頭部のずっと上の方から声が聞こえました。


 雷のような声でした。


「55点かな」

「え」


 あれほど熱くなっていた体は、一瞬のうちに冷え切りました。寒くて、寒くて、体中の毛穴が逆立ちました。

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