3

 顔を向けた彼女は、不思議な方角を見た。

 直視しているのに、なぜか、私を見ていないような気がした。私の、ずっと奥の背景でも見ているかのような。


「うん。普通……」


「だよね。学力で言えば湘南と変わらないわけだし、わざわざ私立でこっちに来る人なんか、バンド目当てだよね」


「目当て……。……か」


 不思議な陰鬱顔でボヤキ、顔を逸らし、それ以後、彼女は何も話さなかった。

 お昼を誘おうかと思ったが、完全に無視されていた。

 机に数学の問題用紙があったので、勝手に見た。

 汚い解答用紙で、雑然と数式が書きなぐられている。おそらく最後の大問は不正解だが、それ以外は数問基礎的な演算ミスがある程度で、合格ラインだろう。この程度できるのなら、他の教科も問題ないはずだ。


 そもそも、今回の最後の大問は、中学生が解ける問題ではない。


「Tan1は、有理数か?」


 知っていれば簡単だが、知らなければ解答できるはずがない。日本で一番有名な、京大入試の問題だ。

 ここで問われているのは、数学、ではなく大学受験への心構えだ。既に大学受験を目標にしている生徒ならば、この問題は知っているはず。私のような数学マニアも当然知っている。そんな生徒をあぶり出す為だけのお試し問題であり、配点は少ないはずだ。私の見立てでは100点満点で8点あれば多いくらい。大問の3、4が良問だっただけに、あちらが本命の高配点である事は間違いなく、この大問5を解けなくても合否には影響しないようになっている。


 でも、気になった。


 この生徒は、いちいち私の琴線に触れてくる。

 この生徒、背理法を使わずに解こうとしていた。全く辿り着く気配は無かったのに、なぜか、√3の証明をしようと試みていた。そのどちらもできてはいなかったが、私の心にはまた、印象が刺さった。


 おそらく、この方法で解いたのは私だけだったはずだ。


 なぜなら、この方法はネットには転がっていない。模範解答でも無い。取り合えず知っておくにしてはマニアックな解き方なのだ。


 この時はそれだけだった。


 特に会話も交さず、電車も別のものになるよう調整した。

 これ以上、見ない方が良いと思っていた。

 どうせ、直ぐに毎日会うようになってしまうだろう。あの解答ならきっと合格するし、バンドが目当てなら他所に入学するとも思えない。


 この根拠があるのだから、私は別の学校に入学すれば良かったのだ。


 私は、勉強だけがしたかった。

 人間関係とか、そんな煩わしいものに付き合いたくも無いし、青春なんて汗臭い異臭も嗅ぎたくない。


 都内私立への願書はバークリード女学院だけだったが、まだ間に合う有名私立は幾らかあった。それをせずにして、四月の春、金色のブレザーを纏い、バークリード女学院へ向かったのは、きっと、魔女に魅せられてしまったからなのだ。

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