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 その受験日は、早朝から雪が降っていた。


 市内は例年多くは積もらないのだが、朝方の道路では解凍されておらず、黄色の点字ブロックや鉄網(グレーチング)に足を滑らしそうになりながら、かじかんだ手を擦りながら駅へと向かった。


 朝の六時の日の出付近だというのに、意外と人は大勢いて、日本のサラリーマンはなんて真面目なんだと手を合わせたくなる。

 そんな、当たり前にある、当たり前の金曜日だった。


 私は、電車が来るまでの五分、少しでも勉強をしておこうと教科書を開いた。「集合・位相入門」。そろそろ、憧れのリーマンゼータ関数に手を付けようかと思っていた私には、基礎的でありながら記号という物の見方を再認識させてくれる良本だ。新宿に着くまで一時間そこそこ。一つの文言を解析するには具合の良い時間経過である。


 教科書にかぶりつこうとした私だったが、この時、世界に異変が起きていた。


 私の横に、学生服がチラついた。深い紺色の制服で、襟元に白い線。スカートも同じ紺色で無地。

 どこにでもありそうな制服だったが、襟元のバッジが長方形だった事から、私は舌打ちをした。


 同じ中学だ。


 こんな時期、時間、服装で駅のホームに居るのだから、受験か家出かのどちらかだろう。受験の可能性が極めて高い。

 そもそも同じ学校の他生徒の事など何も知らないが、都内に行く生徒は調べたはずだ。数人いたが、全て男子生徒だったはず。


 私のことだから、見たって顔も名前も知らないのだろうが、一応確認しておこいと思い、教科書から目線を上げた。


 髪が、肩元まである。毛先が三日月のように隆線を帯びている。柔和な首筋。けっして太くも無いが、痩せすぎていない、柔らかそうな肌。血色のよいピンク色の唇。


 目。


「あ」


 心臓が唸った。


 可愛い。


 違う。そうじゃない。


 異様にはっきりとした二重で、とんでもなく目が強調されている。これだけ強調されたら、バランスが悪くて気持ち悪い部類に入るのだろうが、そうなってはいない。顔が全体的に面長。でも口や鼻は比較的大きく作られている。でも耳は小さくて、小奇麗にまとまっている。胴体が寸胴なせいなのか、同い年なのにかなり若く……俗に言うロリっぽく見える。


 パーツ一つ一つを見れば、主張しすぎている。そんなものが纏めて一つの顔に入っていれば、アンバランスで崩壊する。


 なのに、可愛い。


 加えて、彼女がふと横を向くと、うなじ方向から見える横顔がとてつもなく美人である。


 個の確度では、美人になった。


 私の脳裏に「オイラーの等式」が過った。

 eiπ+1=0


 最も美しいとされる数式だが、私は「魔女の数式」と呼んでいる。

 この美しさの原因は、「不可解な可能性」。まるで違う分野の記号が一同に揃った時、1という数学上最も重要な数字が表れ、これを変換すると0という数学上二番目に重要な数字が浮かび上がる。しかもそれを構成するのが、ネイピア数、虚数、円周率という、数式界のスーパービッグネーム、歴戦の王。王達が帰る場所は、0。では、この1とは何か?


 魔女だ。


 まるで魔法の如く、王達は傾国の魔女により、亡き者となる。


 そんな話ではない事は百も承知だが、私も女だ。ロマンを語りたい。


 この数式と出会い、理解した時、私の頭はそれで一杯になった。まるで神を拝顔したかのような静謐さ、清らかさ、広大な奥行きを感じた。

 それと同等、もしくはそれ以上に、私は彼女から目が離せなかった。


 人間として目立てる範囲はどの程度か?


 そんな証明問題を出されたら、私はきっと、彼女を差し出す。


 見れば分かる。


 理由は簡単で、確かにここ厚木から朝五時台に電車に乗る人数は多くない。多くはないが、それなりに居る。これは前述した通り。しかも新宿に向かうに連れ、倍々計算で人は増える。下北沢辺りまで行くと、おしくら饅頭状態だ。この人痴漢です! と手を上げるスペースすらない。


 なのに、新宿で下車した途端、またも彼女が目に入る。


 否応が無しに、彼女は私の目に入る。


 不思議な造形。バランスの完全敗北。


 不思議な造形なのに一度見てしまえば、神秘的なバランスに思えてくる。

 数万人がごった返す朝八時の新宿で、何度も彼女が目に入るのだ。

 ただ、目に入った理由には別の論理も存在していた。


 目的地が同じだった。


 同じ道を歩いていた。


 そして受験会場も同じ部屋で、私の隣だった。


 厚木から、このバークリード女学院に受験する生徒は珍しい。

 ……いや、そういう理由か?

 ふと、この学校のアビリティを思いだした。

 ボソっと彼女に訊ねた。


「貴女、バンドやってるの?」

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