第3話 夫人との出会い
緊張がほぐれないままの時間を過していると、店の前に自転車が止められた。ガッチャンチリチリ、、。
カラカラカラ、、「こんばんは。入れます?」「どうぞ、お好きな席へ」 店主に了解をもらったその女性は僕にチラッと会釈をして僕の後を通り過ぎ隣に座った。
座るとメニューをじっと見て、ちょうど水のグラスをすっと差し出す店主に、
「ねー、この檸檬っていうのはおかしくない?」と話しかけた。「檸檬ですか。それがですね、合うんですよ」ニコニコと笑う店主に「え〜だって酸っぱいじゃないの?」と顔をしかめる。横からちらっと見ただけだけど、面白い表情をする女の人だった。
きっと僕より10ほどは年上だろう。
その人は「じゃあ、それ飲んでみる」ときっぱり言うと外を、、いやこちらを見てきた。
「常連さんですか?」
「ぇぁは、初めてです」
「ほ〜、よくこの入りづらい店に!」
「あ、はい。少し前から気になっていたもので」
「私もです。気になって、気になって、この扉の前に立つまでに1ヶ月ぐらい悩みましたアハハ」
僕もその人も一応気遣って小声で会話をしているのだけれど、当然この距離、店主にまる聞こえである。珈琲豆をミルにかける前に振り向いて店主も笑っていた。
「よく来られるんですか?」と聞くと、「ぅぅん。私もまださん、、4回目だ」
「こんな場所にこんな店があるとは知りませんでした」
「ほんと。これだけのオシャレカフェが何故この場所に?って感じよね。井の頭公園裏ならありそうだけどね、フフフ」
「オシャレな小金井マダムが集う店なんですかねぇ」
「ん〜。でもね、この店のルールでいくと、、集えないんじゃないかしら。ワハハ。
しかも、この緊張感ね。ハハハ」
「緊張? 緊張してますぅ?」
「してるわよ。こんなに静かな空間に、お腹の音がなったらどうしようと、おばさんは黙っていられないほど緊張するのよ。」
「あはは、なるほど。」
「それに私は小金井マダムではなくて、武蔵野市在住なので、武蔵野夫人ですから。おホホ」
「ああ、武蔵野夫人。そういえば、ありますよね。そこの連雀通りを向こうに行ったところに大岡昇平が武蔵野夫人を書くために滞在していたとかいう家が」
「へ〜、そうなの? 私、武蔵野夫人読んだ事ないんだけどワハハ、どんな話しだったっけ?」
「んと、たしか、、お金持ちの夫人が、夫の裏切りで財産を無くし、服毒自殺してしまう、、みたいな話しじゃなかったかな」
そこへ「お待たせしました」と幅の広いカウンターの向こうから婦人の前に三日月形にカットされたレモンが添えられた白いデミタスカップが運ばれた。
「なにこのオサレな感じは。ビビるんですけどぉ」「その、レモンをカップの縁に軽くこするようにしてからお飲みください」「ほ。ほお。やってみる」
婦人は店主に見守られながら緊張気味にその儀式を終えて「こんでいいのかな…」と言いながらカップを口につけた。
「…、…、ほんとだ。ナニコレ、意外。、」
目を丸くして店主にたどたどしく感想を伝えている。
僕は横からそのくるくると変わる顔を見ながら、席を立つタイミングを計っていた。
「ねーマスター。このレモンの珈琲を、アイスで飲んでみたいと思うんだけど」と婦人が店主に声をかけ、店主は穏やかに「実は僕もそう思って、いろいろ試しているんですけど、なかなかコレというような仕上がりにならないんですよ。でも、そう思っていただけたら嬉しいです。もし完成したら是非に」と答えていた。
さてと、では僕はお先に。と店主にお会計をお願いすると値段が書かれた薄紙がそっとテーブルに置かれた。僕は千円札を渡してお釣りを受け取ると、婦人に「お先に、、」と会釈をして靴を履いた。
「え、帰るの?」とこちらを向いた婦人に何故か「また」と僕らしくない挨拶をして店を後にした。
店主が店の外まで出て「ありがとうございました」と見送ってくれた。
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