水面に映る私をみつけて

みなづきあまね

水面に映る私をみつけて

桜と言えば4月。そんなイメージが一昔前まではあったのに、もうすっかり3月に満開を迎え、4月には葉桜のことが増えた。今日、私は数年間勤めた職場を退職する。朝から晴れ渡った青空を見上げ、職場に至る道の桜を眺め、思い出に心が締め付けられた。


決して楽しいことばかりではなかった。知らないこと、対応できないこと、色々悔しいことも多かったし、何度辞表を書こうかと涙に暮れた日もあった。それでも結局はやりがいを感じたり、楽しいと思わせてくれる仲間のおかげでここまで粘ることができた。そして、夢だった大学院進学への切符を掴み、この春からはまた学生に戻ることになった。


上司は働きながら通うことも提案してくれたが、どちらかをないがしろにすることはプライドが許さなかった。きっとここに戻ってくることはないと思うが、より知識を身につけて、いつかここの仲間とまた同じ業界の人間として交われる日が来ればそれでいいと思っている。


夕刻が迫る。次々に仕事を終えて帰宅する同僚たちは、私に一声かけたり、ハグをしたりして去って行った。私は荷物のほとんどを段ボールに詰めて自宅に郵送したので、すっかりデスクは借り物のパソコンだけになった。上司にも挨拶をしたし、帰ろうと思えばいつでも立ち去れた。しかし、まだ私の視線の先には彼がいるのだ。


なんだかんだで長いこと片思いしてきた。彼はきっと私のことをなんとも思っていないし、望みは薄い。中学生の恋愛でもないし、自分からことを起こして、相手に迷惑をかけることはあまり良いとは思われなかった。だからこそ最後の慰めとして、私は自分が気が済むまで彼のことをみつめていた。まだ帰る気配はない。


その一方で、私は自分のスマホに目を何度も落とした。そこには最終手段があった。彼に思いを告げるか、告げないか。その答えによってはこれを使うことになるだろう・・・。何度もその文字に目を向け、私ははやる心臓の鼓動を聞いていた。


18時になった。これ以上何もしないで座っていることは野暮だ。私は見納めの気持ちを認め、そして周りのまだ仕事をしている同僚に挨拶をした。通りがかりに彼のもとへも立ち寄った。


「あの、短い間でしたがお世話になりました。」

「あ、お帰りですか?こちらこそ色々お世話になったので。4月から頑張ってくださいね?」

「ありがとうございます。では、失礼します。」


私は零れそうな涙を懸命にこらえて笑顔を作った。誰にもその違和感が気づかれていないといいが・・・。


ドアを抜けて一人になった瞬間、私はスマホに表示されていた文章を送信した。長い文章が彼との会話の一部となった。もう取り返しはつかない。


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彼女がドアを閉めた。俺は真面目腐った顔でパソコンを眺めていた。何も見ていなかった。無力感とこれからの生活に色彩を失ったような感覚から逃げようともがいた。すると机の上にあるスマホが振動した。


「大変お世話になりました。業務が被ることは多くはありませんでしたが、様々な折に沢山助けていただき、感謝しています。


何も言わず穏便に去ろうと思ったのですが、どうしても気持ちに切りをつけたく、一方的に話をする失礼を許して下さい。返事は不要です。


結論から言うと、先輩のことが好きでした。いつからかは言えません。ただでさえ非倫理的なことを言っているのに、それに拍車をかけるからです。自分の立場は理解していますし、プライベートに不満などなく、今の生活を変えたいという願望もないです。


誰にも得のない気持ちを表に出すわけにもいかず、馬鹿な考えを消すためになるべく接点をなくしたり、冷たくしようと思いましたが、上手くいったとは思いません。連絡が来れば長く話してしまうし、帰宅が重なればラッキーと思いました。


最初は確かに苦手でしたが、好きになってしまうと次第に接点がなくなることが怖くなりました。こういう浮ついた気持ちが不謹慎なんですけどね。


真面目なあなたのことだから、読みながら嫌悪感を持たれたかと思います。何も言わずにおけば、不快にさせずに済んだのでしょうが、わがままを承知で話すことにしました。ごめんなさい。


何を望むわけでもありません。たしかに1日だけでいいから・・・と今まで思わなかったと言ったら嘘になります。でも、自分の生活はもちろん、先輩の生活や人生を壊したり、汚点を残すことなどはしたくはありません。


今まで本当にお世話になりました。勝手なけじめのつけ方を申し訳なく思いますが、許していただきたいです。直接言う勇気もなければ、おそらく面と向かって言わない方が良いと思った結果です。どうかお忘れください。」


俺は最初の数行を読み、一気に事の重大さに気が付き、体中の血液が波打っているのを感じた。


「あー・・・まじか。」

「どうかしたの?」


俺のつぶやきに斜め前の同僚が反応した。


「いや、別に・・・。ちょっと今日はこれで帰ります。」


俺はできる限りのスピードで荷物をしまい、足早に職場を後にした。外に出ると同時に、電話をかけたが出ない。そりゃそうだろう。


「今どこにいますか?」


俺の言葉にすぐ既読がついた。彼女はまだ俺との連絡手段を断ち切っていない。だがなかなか返事が来ない。


「待ってくれませんか?」


俺はたたみかけるように送った。今ここで手を緩めたら、二度と会えない。スマホを握りしめて速足でひとまず駅前へ歩いた。すると大きな交差点まで来た時、指先に振動を感じた。


「まだ近くにいます。最後だから公園でも寄ろうと思って歩いてました。」

「今行きます。」

「会ってもどうしようもないじゃないですか。」

「見つけるから場所を教えてください。」

「怒ったりしないって約束してくれれば・・・。」

「怒りませんよ。」

「公園の池の近くです。」


俺は一度スマホをスーツのポケットにしまうと、彼女がいるであろう場所に向かって方向転換した。既に日は落ちかけ、夕闇が迫る。


坂道を下り、彼女がいると言っていた場所を目指したが、どのあたりにいるかまでは見当がつかない。彼女が待っている保証はないし、早く見つけないと日没と共に消え去ってしまいそうで焦った。春先なのに額に汗が滲む。


しばらく歩くと、公園にある池の近くにあるベンチが見えた。誰も座っていなかったが、そのすぐそばの木の脇に女性の姿が見えた。まだ寒い季節に合う黒色のショートコートは、闇にまぎれつつあった。その影は池の中を覗いているようだった。


俺は息を整えながら、その物憂げな彼女に近づいた。

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返事をしないで無視すればよかった。何のために言い逃げしてきたのだろう。結局、心のどこかでもう1度彼と話したいという欲がちらついていたことが分かってしまった。今から来るというが、どんな顔をすればいいのかも見当がつかない。


私はじっと水面を見つめた。少しずつ夜が迫るその水は、次第に黒さを帯びて色が白い私の顔をぼんやりと映した。ただでさえ広い公園で、彼は本当に私を見つけるだろうか・・・。


背後に気配を感じた。いつもの、すぐには名前を呼ばず、控えめに少し離れた位置からの低い声が私の名前を呼んだ。


「—さん。」


私の名前は掠れてほぼ聞き取れなかったが、気配だけで私は我慢がならず、振り向いた。そこには神妙な面持ちの彼がいた。笑うべきか、泣くべきか、真顔でいるべきか。私は声も出せず2、3歩手前にいる彼の目をじっと見た。そして目線を前に戻した。


「やっと見つけた。」

「見つかっちゃいましたね。」

「言い逃げするから・・・」

「何も言わないでください。」


彼は急いできたのが分かるくらい肩が上下していたが、努めていつも通りにふるまおうとしているのが分かった。彼が一歩近づいてきた。


意を決し、もう一度彼の目を見た。いつもは逸らすことが多い目は、こちらをきちんと見ていた。私が「何も言わないで」と発し、彼の目を見直すまで数秒だったと思う。既に縮まっていた距離は消え、私の手には彼のダウンジャケットと、斜め掛けされたバッグの紐の感触があり、さっきまで迫っていた闇とは違った黒さが目の前に広がった。


「同じ気持ちだったんです。」

「え・・・?」


私は腰と肩にまわされた彼の腕に力が加わるのと同時に、問い直した。


「自分でも馬鹿だと分かってたんですよ。気になると思った矢先に結婚されて、それでも今更あとにひけなくて、ある程度距離を保ちながらも、接点をなくさないように色々やってたんです・・・仕事のこと聞きに行ったり、帰りの時間揃えてみたり。」


私は返事をせず、彼の言葉を黙って聞いた。


「どちらかが職場を去ればそれで終わりだと俺も思ってました。どうやってもこの状況は変えられないし、それこそ間違った方へ踏み出して傷つけるわけにもいかないじゃないですか。だけど、あんな言い方されたら無理ですよ。」


「じゃあ、何も言わずに去ってれば、何事もなく終われてました?」

「そういうことです。」

「・・・ごめんなさい。」

「いや、俺こそ追いかけなければよかったので。」


ぽちゃん・・・とどこかで魚が跳ねた音がした。沈黙が続く。


「1日だけ立場も何もかも忘れて一緒にいたい、と思いました。何度も。朝が来て、二度と会わない関係になったとしても、その方がよっぽどいいと思ったんです。」


私はさっき送った文章を繰り返すようにつぶやいた。


「このあと、どうしますか?」

「え・・・?」

「朝まで一緒にいたい。」


彼の申し出に思わず上を向いた。彼は私を抱きしめていた腕をゆるめ、私の頬にその手を滑らした。


「一日だけ俺のものになってもらえませんか?」


そう苦し気な顔で問うてきた彼は、そのまま私にキスをした。私は閉じた目の裏で今の情景を思い描いていた。


人生は不思議だ。何も感じなかったのに、急にある日彼が特別に見えた。世界が明るくなり、毎日が楽しみに感じた。それを差し引いても私は人生で一番幸せな時期にあって、他のどこの家庭よりも誇れるパートナーをみつけ、生活を始めた。それなのに、彼への思いは消え去るどころか強くなった。


パートナーとの生活は満点だと思う。すべてが楽しい。自分が悪で、罪を犯していることにうしろめたさもちゃんとある。それなのに彼を求めてやまない。あまりに渇望していることから、1回彼と重なり合えばこの魔法が解けて、何の魅力も感じなくなるのではとさえ思うくらいだ。もしこの仮定が正しいなら、怖かった。だったら彼をここで手放し、綺麗な思い出にして生きていきたい。


逡巡し、私は口を開いた。


「あの・・・」


答えは木々のざわめきにかき消され、聞こえたのは二人だけ。水面に映る私の顔は歪んで見えたが、それは水面のせいなのか、それとも・・・。

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