二、伝えたくない
もう僕に教えられる事は何もないな。
完成した彼女の絵を見て、僕はそう思う他になかった。 だけど……確かに本当に美しい絵なのだけどどこか物足りない。
「どうですか」
絵を見たまま固まってしまった僕に痺れを切らせたらしい彼女が僕を急かした。
「うん……。 すごいよこの絵は。 君が絵が好きなんだって事が伝わってくる。 すごく綺麗な絵だ」
僕は自分の素直な気持ちを答えたつもりだ。 だけど彼女にはその答えが気に入らないらしかった。
何も言わずに僕をじっと見つめる彼女の顔には、僕に対する不満がありありと見て取れる。
きっと絵にすればいい作品になるだろうななんて現実逃避気味に考えてしまうくらいに鋭い表情だった。
「な、何か気になる事が、あるのかな?」
彼女と目を合わせようとしてそのあまりの圧に諦める。 視線を反らした先の鏡の中で、女子高生に睨まれて漫画みたいにうろたえたるもじゃもじゃ頭の男が滑稽だった。
僕は自分の事を無表情な男だとばかり思っていたけど、意外と表情豊かな人間だったらしい。
「本当にそう思ってます?」
「ほ、本当だよ」
それは本当だ。 彼女の絵を美しいと思うのは本当なのだ。
だけど、本当に美しいと思う反面、絵の裏にぽっかりと穴が開いている様な奇妙な虚無観も感じてしまうのだ。
そうある種批判的に考えてしまうのには、たった一年で僕の絵描き人生をひょいっと飛び越えてしまった彼女への嫉妬もあるには違いなかった。
だが絵画はただ美しいだけの物ではないと僕は思う。
文章には書けない原初の心を描き、写真では切り取れないこの世の揺らめきを切り取る。 そういう物だと僕は確信していた。
それは他の様々な芸術と同じ様に思いを綴るツールだ。
だが、それを彼女に伝えるべきかどうかと言えば……。
「君は、やっぱりプロになるつもりは」
「……ないです」
彼女は申し訳なさそうな顔をする。 ほんの少し下がった視線は、僕の身勝手な期待に耐えかねたのだろうか?
「いや、そういうつもりで言った訳じゃないんだ」
プロだからと言って必ずしもカンバスにメッセージを残さなければならない訳ではない。 それどころか今のままだって彼女の絵は売れるだろう。 だからこの質問に意味はない。
ただ、君が本当に僕の未熟な芸術観を必要としているのか? どうにかしてそれが知りたかった。
「お茶にしようか」
僕がそう誤魔化すと、彼女は小さく頷いた。
茶葉をティーポットに入れてお湯を注ぐと、蓋をしてキッチンタイマーで二分半を計る。
それからクッキーを皿に乗せて、祖父から受け継いだ絵の具汚れの目立つ一枚板のテーブルに置いた。
彼女は早くクッキーが食べたいのか身じろぎするが、紅茶がまだ出来ていないのだから待って貰わなければ困る。
僕が紅茶を初めて美味しいと思ったのはいつ頃だっただろうか。 あれは確か美大を卒業して暫く経ってからの事だった様に思う。 ふと思いついて茶葉を初めて蒸らしてみたのだ。
それまで僕は紅茶とは苦くて渋い物だとばかり思っていたけど、それは間違いだと思い知った。
僕が絵という表現に新たな境地を見いだしはじめたのもその頃だった。
パブロ・ピカソを再発見したのだ。 そして思い知った。
芸術は美しい物などではなかった。 切り花や宝石の様に愛でられる対象でもなければ、人の目を楽しませる為の物では決してない。 もっと牙を剥く様に攻撃的で積極的な何かだったんだ。
僕はそれを目の当たりにした時の、自分の作品に感じた心細さと頼りなさ、空虚さを決して忘れないだろう。
「先生? 鳴ってますけど」
彼女の声にハッなった。 それからようやく手にしたタイマーの低い音が耳に届いた。
「あっ、ごめん」
「いえ」
慌てて紅茶を彼女のティーカップに注ぐと、彼女の前にそれを置いた。
「いただきます」
彼女が僕が愛用のマグカップにお茶を注ぐのを待ってそう答える。
この子はいつもお菓子は一息に食べてしまう。 それからお茶を少しづつ飲んだ。
僕はクッキーを少しづつ食べながら紅茶を飲んだ方が美味しいと思うんだけどその事を伝えたりしない。
以前彼女にもっと美味しくお茶を楽しんで貰いたくてそれを伝えた時は、彼女の機嫌を損ねてしまってお茶を楽しむどころではなくなってしまった。
人は各々にスタイルがある。 例え善意だったとしてもそれを自由に出来る人などいない。
あるいは善意こそが最も恐ろしい悪の正体なのかもしれないとも思った。
「君は確か大学受験は……」
「○○大学です」
国公立。 それも全国でも知らない人のいない所だ。
「すごいな。 勉強してるんだ」
「成績が悪いと絵も描かせて貰えないので、結構死に物狂いでやってます」
感心する僕に、彼女が少しはにかむ。
少し黙って彼女はテーブルの向こう。 僕の書きはじめたばかりの影だけの絵と、彼女が完成させたあの、日の当たるマンションの絵へと目を向けた。
ふと物憂げな表情が浮かび上がる。
「私の絵。 嫌いですか?」
その瞬間、僕の心の氷付く音がきとお彼女にも聞こえただろう。 それは誤解でもあったし、事実でもあった。
「っ……いや実はさっき君の絵を見た時、もう何も教える事はないななんて思っちゃったんだ。 先生がこんな事言っちゃいけないとは思うんだけど。 それくらい君の絵が凄くて」
僕の口からは彼女の疑いを押し流そうと、濁流の様に言葉が流れ出す。
しかしそれはは、彼女がティーカップを置く小さな音にせき止められて消えた。
「すみません。 私、気分が悪いので帰ります」
「ああ……わかったよ」
馬鹿にしていると思う。 彼女がじゃない。 僕が彼女の事をだ。
僕は嘘つきだ。 いや、もっと酷い詐欺師だ。
自分の心を守る為に彼女を傷つけているんだ。 彼女を傷つけない様にして傷つけているんだ。
絵筆を取れば次第に構成が固まってゆく。
絵描きとしての本能がこの心をカンバスに閉じ込めろと喚き散らす。
僕は昼に描きかけた絵も忘れて、新しい着想の影を付ける事に夢中になった。
絵筆に纏わり付いた焦りを、憎しみを、そして後悔をカンバスになすり付ける様に荒々しく彼女は描いててゆく。
何故認めてくれないのだと彼女の絵が、その美しい風景の裏から僕の心を突き刺した。
絵筆の乱れを反映したその絵は、美しさを保ちながらも鋭く尖ったメッセージを見る人に突きつける。
それは皮肉にも僕の目指す絵に近づきつつあった。 だがそれが彼女の意図する所でなく、また彼女を混乱に陥れる最大の理由の一つであろう事は彼女のやつれた顔が物語っている。
制作のペースも普段の倍以上だった。
彼女にとっては駄作だろうな。
クロード・モネの影響を強く受けたであろう明るい庭園の風景に、そう確信する。
「そろそろ休憩しない?」
彼女が魂をすり減らす姿を見ていられない。 いやそれ以上に僕がこの絵を見ていられなかった。
僕の提案にしかし彼女は首を振って答える。
「まだ描きます」
頑なに彼女は絵筆を手放そうとはしない。
気がつけば僕はトイレに引きこもっていた。 彼女になんて言ってここまで来たのか、それすら思い出せない。 きっと何も言っていないだろう。
伝えなきゃいけない。 トイレでうずくまる僕に、冷静なのかどうかもよく分からない心が僕に囁いた。
例えそれが彼女のスタイルを否定する単なる僕のエゴイズムだとしても。
僕の、君の絵画へのエゴイズム 伊藤 経 @kyo126621
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