第15話 沈黙の羊
帰宅した私は、ザリ太を見に来なかった満里恵のことが心配で、すぐリビングへ行った。
ソファーにだらしなく座った俊樹が、テレビを見ていた。私に気づいたはずだが、こちらを向こうともしなかった。
……まあいいか。こいつも、今朝のようにちゃんと話せば、話が通じる奴なんだ。多少は大目に見よう。
満里恵の姿はなかった。いつもは俊樹と並んで、テレビを見ているはずだが。
キッチンに立つ妻の背中に「ただいま」と言い、反応を待った。
「おかえりなさい」
そう言ってチラと後ろを見た妻の横顔に、薄笑いがあったように見えた。
「満里恵は部屋かな?」
「そこにいないんなら、そうなんじゃない」
私は満里恵の部屋の扉をノックしながら開けた。
「満里恵、勉強中か?」
勉強机に向かっていた満里恵は、私が扉を開けた瞬間にノートを閉じた。
「ちょっと入るけど、いいか?」
満里恵は閉じたノートの上に片手を置いたままこちらを見た。
「今朝はザリ太と遊びたかったのに、残念だったなぁ」
「……うん」
「今日は、チョビ、逃げなかったな。さすがに四回連続となると、チョビも疲れたかな」
満里恵は機械的にうなずいた。
「お兄ちゃんが、ニコルの檻にテープ貼ったの、見たかい?」
「……かわいそう」
「ニコルが、か?」
「うん」
「満里恵はやさしいな。昔から動物が好きだったしな」
満里恵はこれまで、怪我したスズメや死にかけたネズミを、何度となく家に持って帰ってきて介抱してやっていた。その度に、妻が金切り声を上げたものだった。
「勉強、だいぶ頑張ってるみたいだな」
本棚には、受験用の問題集や参考書が並んでいる。その横に、満里恵の好きな獣医学生の漫画本も全巻並んでいた。
「この漫画、好きかい? お父さんは大好きだな」
内容は、若い獣医学生たちのドタバタ劇だった。最初は満里恵が読んでいるのを、横から一緒に読んでいただけだったが、結局、私もハマりこみ、全巻読破してしまった。
私は、満里恵の頭越しに、さっき満里恵が隠したノートを見た。普通の学習帳だった。表紙の上に置かれた手を見ると、爪の先がどれも噛みちぎられていた。噛みすぎて血の固まりがついている指もあった。
……前よりもひどいな。
満里恵はさりげなく手を握り、爪を隠した。
「満里恵は……受験して、純泉や百合園みたいな学校に、本当に行きたいのかい?」
娘は私を見上げ、しばらく考えてから、「うん」と言った。
「でも、満里恵は、獣医さんになりたいんだろう?」
「うん」
「ひょっとして、受験するの、嫌なんじゃないかい? 本当のことを言っていいんだぞ。お父さんは、満里恵がいやいや勉強してるんじゃないかと、心配なんだ。別に、無理して塾に行く必要もないし、獣医さんになりたいんなら、百合園学園じゃなくたっていいんだよ」
「ううん、嫌じゃない。わたし、百合園に行きたいもん」
百合園のようなお嬢様学校が、獣医になるためのコースでないことが、満里恵にはまだわかっていない。だいたい、小学校五年で自分の道を決められるはずもない。それなのに、早々とお嬢様学校へ入れてしまうのが、いいことなのか。きっと満里恵は、妻に言われるまま、その気になっているだけではないか……
「じゃあ、受験勉強するのは、嫌じゃないんだな?」
「嫌じゃないよ」
「そうか……それならいいんだが」
私は満里恵の部屋を出た。
どうやら、受験のプレッシャーから逃げるために満里恵がリスを逃がしている、という予想ははずれていたようだ。だが、あの爪は何なのだろう? 最近、満里恵が情緒不安定なのは確かだ。
それに、慌てて閉じた学習帳も気になった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます