第14話 ああ不倫

 妻の郁子と結婚したのは今から十七年前になる。その頃、印刷会社で働いていた私は、得意先の広告代理店にいた郁子と親しくなった。郁子の容姿は十人並みだったが、白い肌とパッチリした目が男の心を引いた。私自身が痩せぎすで、ハンサムでもなかったので、妻の容姿は私にとって十分過ぎるほどだった。私は妻に猛烈にアタックした。年上の郁子が持っている落ち着きと、保守的なものの考え方に、私は安心感を覚えた。一方、郁子は、私の夢見がちなところや、ひとつのことにのめり込む「少年のような」ところが気に入ったと言った。

 結婚してすぐ、俊樹が生まれた。その大変な時期に、会社を辞めて独立するという私の暴挙にも、郁子は異議をとなえなかった。その後、一千万近くの借金を抱えることになっても、妻は文句も言わず仕事を手伝ってくれた。

 その当時、私には、浮気など考えられなかった。お金がなかった、ということも理由の一つだが、それは小さなことだ。この頃は、経済的に最悪だったが、夫婦仲は一番良かった。二人がピッタリと寄り添って、厳しい社会を生き抜いていた。そのうちに、私が考案したいくつかのアイディア商品が意匠登録に成功し、会社が上向きになった。すると、私と妻の関係も変わってきた。お金がない時は何でも我慢するしかなかったが、使えるお金が増えると、その使い方で、夫婦の意見が食い違ってきた。郁子は自己主張が強くなり、家でも会社でも、私のやり方に口を出すようになった。その頃生まれた満里恵の育て方についても意見が衝突した。そして、成功した起業家として私の写真がビジネス雑誌に大きく載った年、私は、雇っていたアルバイトの女の子に手をつけた。もちろん、絶対にバレない自信があった。

 家の外に女をつくることは……道徳観に捕われずに言えば……家庭にいい効果をもたらした。妻の口うるささが気にならなくなり、私は、いちいち反論せずに、にこにこしていられるようになった。夫婦の口論が減った。やがて妻も、重箱の隅をつつくような批判をしなくなった。マコとつき合いはじめたのは二年前だが、その頃には、私と妻の関係は、心地よく安定していた。

 ……だが、マコとの関係がバレていた?

 私は事務所の隅の作業台で、ハンダごてを持ったまま考えにふけっていた。試作品のUSB扇風機をハンダづけしている最中だった。松やにが焦げる臭いが鼻をついた。

 しかし……どこからバレたのか?

 ボロを出すようなことはやっていないはずだ。妻は細かいことによく気がつくが、私は、それ以上に細心の注意を払って来た。

 マコが密告したのか?

 ……それはないだろう。マコは、こちらががっかりするほど嫉妬心に欠けている。妻に嫉妬したり、自分の存在を主張するために私との関係をバラしたりはしない。

 妻が電話の盗聴でもしない限り……

 その時、ふと思い当たった。いつもマコと話している時、なぜか妻からのキャッチホンが入る。

 ……まさかな。

 私は、350℃のハンダごてでハンダを溶かし、金属の滴をプリント基盤にくっつけてから、ふーふーと息を吹きかけて冷ました。固まったハンダは、鈍い銀色になった。

 ……やっぱりそうだよな。磨かないと、ピカピカにはならない。

 指の先でそこに触れた。曇りが拭き取れるかどうかやってみようと思った。

「熱っ!」

 固まったばかりのハンダは、冷めたといっても100℃以上はある。私は洗面所に走り、指先を水で冷やした。

 ……しかし、お気楽人間、かよ。

 俊樹の口振りだと、妻は、子供たちの前でけっこうオレの悪口を言っているようだ。

 作業台に戻り、後片付けを終えると、マコと話したくなった。マコを相手に言いたいことを言い合っていると、複雑な問題から解放され、気が楽になるのだ。

 電話の受話器を上げかけて、手を止めた。

 ……まさか、妻がいやがらせをしているんじゃあるまいな。

 マコとの電話を盗聴した妻が、邪魔をするために同じ時にキャッチホンを入れてくる。事務所にわざわざ電話してくる口実は、いつもリスの脱走だ。妻が口実を作るために、自分でリスを逃がしている……と考えるのは飛躍しすぎだろうか?

 郁子はそういうウジウジした策略を使う女じゃないはずだ。

 いや……

 単に、私が気づかなかっただけなのかも知れない。

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