第13話 血族による黙示

 朝食の後、私は事務所へ行く時間を少し遅らせ、書斎でザリ太を眺めながら、ひょっとしたら満里恵が来るのではないかと思って待っていた。

 満里恵が泣きながら部屋へ戻った後、妻は、私に、満里恵が泣き出した理由を目で問いかけてきた。視線を送ってよこす。口は開かない。それがいつもの妻のやりかただった。もちろん私には分からない。トーストを齧ってから再び妻を見た時には、妻の視線は私を責めるものに変わっていた。

 廊下で扉の開く音がした。

 満里恵だろうか?

 ザリ太の水槽の前にしゃがんでいた私は、首を回して笑顔をつくり、書斎の扉が開くのを待った。

 だが、廊下の足音はリビングへ消えた。重い足音は俊樹だった。朝食を食べに行ったのだ。

 春休みに入ってから、俊樹は朝食を遅くに食べている。さっきも私は、檻のテープのことを話題にしようと俊樹を待っていたのだが、ついに現れなかった。

 ふと、疑問が頭をよぎった。……私を避ける理由でもあるのだろうか?

 だが、あのくらいの年頃は、何かにつけて父親がうとましく感じられるものだ。

 11時になっても満里恵は来なかったので、私はあきらめて、仕事に行くことにした。廊下に出て、満里恵の部屋の扉を見た時、こちらから行ってみようか思った。だが、怖かった。今の満里恵に下手に触れると、全てを壊してしまいそうに思えた。

 隣の俊樹の部屋の扉が半開きになっていて、ガンズ・アンド・ローゼスの曲が聞こえていた。私はなぜかほっとしてそこに近づき、覗き込んだ。

 すり切れたTシャツに、黒い短パンをはいた俊樹が部屋の中央に立ち。鉄アレイを持ち上げていた。

「ちょっといいか?」

 俊樹は一瞬驚いたが、すぐまた鉄アレイを動かしはじめた。

「なんだ、父さんか」

「なんだはないだろう、なんだは。ところで、ニコルの檻にテープ貼ったの、お前だろ?」

「そうだけど?」

「逃げないようにしたのか?」

 俊樹は黙って鉄アレイを動かし続けた。答える気がないのか、と思える頃にやっと言った。「……まあね」

 私はしばらく俊樹の運動を見ていたが、息子に止める気配はない。

 私はなんとなく部屋を見回した。部屋の隅にまとめて置かれたトレーニングの道具は、どれも意味のわからない形をしていて、現代芸術のオブジェのようだった。知らない間に、ずいぶんと買い集めたものだ。

 本棚と机の位置は昔と変わっていなかった。考えてみれば、息子の部屋に入ったことなど、この数年来なかったことだ。

 机の上に目をやって、ドキリとした。

 アイスピックを部屋に持ってきている?

 だが、それはアイスピックでなく、書類を綴じる穴を開ける、錐のような道具だった。長さ二十センチほどの金属の針に、えんじ色の握りがついている。

「チョビのにも貼ってやればよかったのに」私はテープのことを言った。

「チョビは満里恵のじゃないか。……そんなに言うなら、父さん、やってやったら? ……っていうか、新しい檻、買えばいいじゃないか。ビデオ仕掛けたりなんかしてないで、もっとちゃんと考えればいいのにって、母さんが言ってたよ。母さんがそのことで、相当苛立ってること、知ってるの?」

「うん、まあ、ちょっとイライラしてるようだな」

「ちょっとなんかじゃないよ。父さんは何も分かってない。母さんはね、父さんのこと、好きなことばっかり夢中になって、嫌なことには目をつぶるお気楽人間だ、って言ってたよ。チョビのことだって、ビデオ撮ったりしてふざけ半分だ、って……。母さんは、もうあきらめてるから何にも言わない、って。でも、イライラの迷惑はこっちが被るんだからさぁ……」

「母さんがそう言ったのか?」

「言ったよ」

「ニコルの檻を塞いだのも、そのせいか?」

 息子は答えなかった。

「まあ……」瞼をかたく閉じ、大きく見開き、それを何度か繰り返した。「新しい檻のことはそのうち考えるとして……」最後まで言わずに後ずさりし、部屋を出ようとした。

「もうひとつ、母さんが言ってたよ……」息子は手を止め、こちらをまっすぐ見た。だが、そこから先を言い出さなかった。

「なんだ?」

 俊樹は目を逸らした。

「言えないのか?」

「父さんが浮気してる、って、言ってたよ。 再び私を見た俊樹の目には、軽蔑があった。

 私は呆然とした。

「それとさ」俊樹はしゃべり続けた。「逃がしてるのは満里恵だよ。そうじゃないとおかしいよ。ニコルが逃げないでチョビだけ逃げるのはおかしい、って言ったら、その次からニコルも逃げたのは、変だよ」

 私は上の空で聞いていた。

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