第12話 魔性の娘

 翌朝、檻を見た時、まず目に入ったのは、いつものように元気良く動き回っているチョビだった。ニコルも元気だった。だが、ニコルの檻のあちこちに、透明ビニールの荷造りテープが貼ってあった。

 よく見ると、まず、上下にスライドする扉がテープで固定されている。ナスカンとテープの二つで、扉はまったく開けられない状態だ。そして、外から取り外しできる餌箱と水差の背板にも、目貼りするようにテープが貼ってある。さらに、引き出し式の床板もテープで封印され、引き出せないようになっていた。

 それはニコルの檻だけで、チョビの檻は何の変わりもない。

 私は、自然に笑みが浮かんでくるのを感じた。

 ……ははあ、俊樹のやつ、自分が面倒をみているニコルだけでも逃げないように、対策を立てたな。

 ダイニングテーブルについた私の前に、妻がコーヒーと目玉焼きとサラダの皿を置いた。昨夜のむっつりした表情はすっかり消えていた。どうやら、ニコルの檻のテープには、まだ気づいていないようだった。私は、家の中がまた順調に動き始めたのを感じ、満足してコーヒーを飲んだ。

 ……つまり、俊樹は犯人でない、というこだ。

 新聞を読んでいると、顔を洗ったばかりの満里恵がやって来て、私の隣に座った。小学五年にしては背の小さい満里恵は、いつもピョンと飛び跳ねるようにして座るのだが、今日はお尻をずりあげるようにして座った。「おはよう」と私が言うと、「おはよう」と答えたが元気がなかった。

 ……となると、満里恵が犯人か。

 娘は大きなマグカップを小さな手で持ち、メガネを曇らせながら熱いココアを一口飲み、「ハァー」と無邪気に息をついた。

 それを見た私の心に、一瞬、陽がさした。が、すぐに、冷ややかな空虚感が訪れた。

 ……どこで嘘つくことを覚えて来た?

 数日前のことを思い出していた。満里恵はチョビの脱走方法を本当に考えているような、まことしやかな顔でこう言った。「やっぱり、ナスカンを自分で外しちゃったんじゃない?」

 「馬鹿」その時、たたみかけるように言ったのは俊樹だった。「なら、何で逃げた後も、元通りについてるんだよ。リスが自分でナスカンを戻せるわけないだろ」

「えー、わかんないよー。そのくらいできるかもしんないじゃん」と満里恵は反論し続けたのだ。

「そうだよな」と私は助け舟を出した。「ヒマワリの種だって、あんなに器用に剥くんだから、ひょっとしてナスカンくらい、かけちゃうかもしんないなぁ」もちろんそんなはずがないのは分かっていたが……。

「それより、餌箱の裏っ側の外れるようになってる所だよ。きっと、どうにかすると、うまく外れるんじゃないか?」俊樹はその部分を指先で押したり引いたりした。

 いつもは、家の中の何事に対してもしらけた顔をしている俊樹が、脱走の謎解きには積極的なことが私には意外だった。

「そうかなぁ……わたしは、入り口の隙間からだと思うな」満里恵は眉をひそめ、本当にそう思っているかのような眼差しで、檻の扉を見た。「だってそれしかないもん。ねえ、お父さん」そう言って満里恵は私をまっすぐ見つめてきた。

 あれも演技だったのか?

「そういえば」と妻が言った。「フェレットなんか、体がすごく柔らかくて、信じられないほど狭い隙間から逃げちゃうって話を聞かない?」

「あ、それ知ってる」と満里恵は賛同した。「チョビも柔らかいよ。だって、椅子の後ろのこんな狭い所に入って行っちゃったんだもん」

 満里恵は今、私の隣でトーストをかじっている。

「春休みの勉強は、順調に進んでるか? 満里恵?」私は柔らかく言った。

 満里恵は下を向いたまま「うん」と、気のない返事をした。

 私は、広げた新聞で妻の視線を遮り、「後で、一緒に、ザリ太にエサをやらないか?」と小声で言った。

 ザリ太は私が書斎の水槽で飼っているザリガニで、それを手にのせて遊ぶのが、満里恵は好きだった。妻は、汚いと言っていい顔をしないので、私は隠れて言ったのだ。

 満里恵は目を輝かせた。「いいの?」

「後でちゃんと手を洗うんだぞ」

「うん」

 ……これで満里恵とゆっくり話ができる。

 その時、「ま、り、え」という妻の重い声がした。

 新聞をどけると、いつのまにか目の前に座った妻が、コーヒーカップを口元でとめたまま、満里恵を睨んでいた。

 満里恵はまた下を向いてトーストを齧りはじめた。鼻をすする音が聞こえ始めたので、驚いて見ると、満里恵は立ち上がり、小走りに自分の部屋へ駆けて行った。

 妻はあっけにとられて私を見た。

 満里恵の皿には、食べかけのトーストが放り出され、涙でふやけたパン屑が、いくつもの輪になってへばりついていた。

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