第11話 氷点下の言葉
さっきまで鏡台に向かってあれこれやっていた妻だったが、今は、向こう側の布団に入り、腹這いの姿勢で文庫本を読んでいた。
「どう、って?」妻は読みながら言った。
「いや、べつに……でもなあ、あんまり無理に勉強させてもなぁ……」
妻は素早くこちらに一瞥をくれたが、何も言わずに本の続きに戻った。
「……だって……たじゃない」妻は言った。
「え? 何だって?」
妻は答えずに、ゆっくりとページをめくった。
「おれが、何に賛成したって?」と私。
「……聞いてなかったの?」
「聞いてたよ。でも……わざとモゴモゴ言うから……」
「わざとモゴモゴなんか言っていないけど」妻は平板につぶやいてから、本のページをめくった。「お父さんだって、満里恵の受験に賛成したじゃない、って言ったの、聞こえなかった」
私はウイスキーを一口飲んだ。
「ところで今日、あいつ、何で急に泣き出したんだ? あれが泣くなんて珍しいじゃないか」
「珍しいこともないでしょ。あなたの前では、いい子にしてるだけよ」
「おまえ、何か厳しいこと言ったんじゃないのか?」
妻の顔が固くなった。
「私はただ、リスなんかより勉強に集中しなさいと言ったまでです。あの子のためには、誰かが厳しく言わなきゃいけないんだから。誰かさんは、子供のご機嫌ばっかりとっているでしょ?」
「誰が子供のご機嫌をとってるって言うんだ?」
「さあ……別に思い当たることがなければ、いいんじゃない」
妻は本を閉じ、枕元のスタンドを消した。
「おやすみなさい」
「ところで、チョビの脱走だけどさ……」私は、妻が目を閉じて寝ようとしているのに気づかないふりをし、会話を続けた。「あれ、どう思う? 本当にリスが自力で逃げたと思うか?」
返事はない。
「おまえ、何か見なかったか?」
一分ほど経ってから、妻は体をもぞもぞ動かし、片目だけ開いてこちらを見た。
「何か、って、何よ?」
「うん……子供たちが逃がしてる所とか、檻に細工してる所とか……ビデオのスイッチをいじっているところとか」
妻はまた目を閉じ、天井に向いて小さなため息を吐き、いきなり両目をパチリと開いた。「お父さん、何もかも分かってるって、このまえ言ったじゃない」
「あ、ああ……」何もかも、などとは言ってない。
「なにか知りたいなら、あの子たちに直接聞いたらいいじゃないの」
「それもそうだ」
「わたし、明日、あそこのペットショップに行って、新しい檻を買ってきます。いいでしょう?」
「まあ待てよ」
「もう春休み中ずっとよ? あなたは面白いと思うのかもしれないけど、もう……」妻はそこまで言うと、寝返りを打って背中を向けた。「電気、消してください」
薄い布団に浮き出た妻の体が、不動の山のように見えた。
私は上半身を起こして電気の紐に手を伸ばした。
その時、金属が触れあうような音が、リビングから聞こえた。しばらくすると、また聞こえた。
檻が揺れる音だ。
リスが反復横跳びをしている時に立てる音と同じ。だが、夜寝ているリスは、反復横跳びはしない。
「変な音しないか?」
妻の答えはない。
襖を少し開け、薄暗いリビングを覗いた。子供部屋に通じる廊下の明かりが点いていた。リスの檻の前に、誰かがかがみこんでいた。
俊樹だ。
影はゆっくりと立ち上がり、廊下へ出て行った。
やがて廊下の電気が消え、子供部屋の扉が閉まる音がした。
私は襖を開け、和室から漏れる明かりを頼りに二つの檻を見た。特に変わったところはない。檻の扉も閉まっている。
だが私は、俊樹が手に握り締めていたものが気になった。それはハサミだった。
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