第10話 9話の次は10話

 それから三十分後、私はまだチョビの檻の前に座っていた。妻は風呂から上がり、リビングと続きになった六畳の和室で、寝る準備をしている。

 私は、満里恵のメガネの縁に溜まった涙を思い出していた。めったに泣かないあの娘が、突然泣き出したのには驚いた。だがそれより、私が手を伸ばした時、私になついているはずの満里恵が、後ずさりしたことが気になった。

 犯人は満里恵なのだろうか?

 妻が言った通り、チョビを逃がせばその度に家中が騒ぎになり、満里恵は勉強しないですむ。しかし……

 娘は勉強が好きなのだ。学校の成績もいい。小細工をしてまで勉強をサボる必要はないはずだった。

 しかし……

 いくら好きでも、限界というものはある。

 そう考えたとき、私の心臓がドクンと鳴った。大事なものをどこかに忘れてきたような気がしたからだ。

 そういえば、満里恵の親指の爪は、ここ最近、先端が引きちぎられたようにギザギザになっている。自分で噛んでいるのは分かっている。

 ……受験のプレッシャー、か。

 中学受験させようと妻が言い出したのは、去年の夏頃だった。近所の奥様連中の娘たちが、揃ってお嬢様学校に行っていたので、妻にも競争心が出た。私は、満里恵が獣医になりたがっているのを知っていたので、賛成できなかった。もちろん、妻は、満里恵が獣医志望なのを知らない。

 満里恵は、獣医学生を主人公にした漫画にハマっていて、リスにつけた「チョビ」という名前も、その漫画に出てくる犬の名前から取っているのだが、それも妻は知らない。妻の考えているのは、その漫画本を捨てさせることと、百合園か純泉に合格させることだけなのだ。

 妻が中学受験のことを満里恵に持ちかけたとき、満里恵は興味を示した。そして、「受けてみる」とはっきり言った。だから私は反対しなかった。そして満里恵は塾に通い始め、妻は受験用の問題集や参考書を山のように買い集め、おまけに近々、家庭教師がつくことになっている。

 ……それがプレッシャーだったか?

 爪を噛むのは、満里恵の心が悲鳴をあげている証拠ではないか? 家族に偽って、何度もリスを逃がすのも、満里恵のフラストレーションの表れではないのか?

 私は布団に寝そべり、片ひじをついて妻の方を見ながら言った。

「満里恵の勉強のことだけど……最近……どうなんだい?」

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