第8話 棘(とげ)

 チョビの檻に顔を近づけると、アンモニア臭と、濡れ雑巾のような獣の臭いがした。チョビは巣箱入って寝ているようだった。

 檻の格子の、下から十センチほどの一ヶ所に、真新しい噛み傷を見つけた。黄緑の塗りが剥げ、銀の地金が見えている。なぜその場所を噛んだのかは分からない。   

 しゃがんだまま後ろを見ると、カメラを載せた三脚がある。

 ……確かにここからだと、カメラの電源ライトが見える。しかし、リスがライトの意味を理解できるのか?

 私は立ち上がり、今度は、カメラの位置から檻を見た。

 ……ビデオを撮った三回が三回とも、時間切れになった後で脱走している。それをどう説明する? 家の誰かが、ビデオが切れるのを待って、その後でナスカンを外し、扉を開け、逃がしていると考えるのが順当じゃないのか?

 私は、何かが崩れそうな不安を覚えた。

 ……それはありえない。家の誰にも、そんなことをする理由がない。まず妻がリスを逃がして、家の面倒事を増やしてどうするというのだ。俊樹なら、リスを逃がすくらいなら部屋で筋トレをやっているだろう。満里恵が逃がしたとすれば、あいつはそれを隠すために嘘はつかない。チョビの檻の掃除にまだ慣れなかった頃、うっかり逃がしてしまった満里恵は、隠し立てせず「逃げちゃった」と家族に知らせていたのだ。

 私はカメラから離れ、またチョビの檻に近づいた。そして、等間隔に並んだ縦の格子を、一本一本指でつまみ、前後左右に揺すってみた。横向きの棒と溶接されている部分が、どこか剥がれているのではないかと疑っていた。

 この古い鳥かごは、以前から何か所も溶接が取れていて、全て私がハンダで修理したのだ。ハンダというのは、のりの代わりになる柔らかい金属で、いったん融かして鉄の棒が交わった点に着けると、冷えて固まり、縦横の棒が溶接されたようにくっつく。

 そこが剥がれていれば、縦の棒は補強になる支えを失い、力を加えると左右にたわむようになる。そんな二本の棒の間にリスが鼻先を突っ込めば、棒は両側に広がり、通り抜ける隙間ができるだろう。

 私は何十本もある格子を全て点検した。が、どれからも固い手応えが返ってきた。

 ……まいったな。

 私は下唇を噛んだ。

 ……行き詰まりだ。

 ナスカンのかかった扉を、長い間見つめていた。頭はぼんやりして、何も働いてくれなかった。

 やがて、おや、と思った。さっきから視界の中央にずっと見えていたそれの、おかしさに気づいた。

 檻の出入り口――上下にスライドする扉が檻本体とぶつかる部分、いわば敷居に当たる部分に、棘のようなものが飛び出ている。

 銀色のそれは、昔、ハンダを多く付けすぎて出来た、バラの棘のような突起だ。小さいが、鋭く尖っている。それ自体はずっと前からあったものだ。

 おかしいのは、それがツヤツヤと光っていることだった。

 普通、冷えて固まったハンダは、鈍く曇った銀色になる。私はアイディア商品の試作で何百回もハンダを使っているので、よく知っている。光沢を放っているのはおかしいのだ。

 念のために、他の場所に付いた古いハンダと見比べてみたが、やはりそちらは曇っている。

 どうしてここだけ?

 最初に頭に浮かんだ理由は、リスが出入りする時に、毛が擦れて磨かれたのではないかということだった。

 だが、銀色の棘をよく見ると、一方向だけでなく、表も裏も横も全てがきれいに光っている。リスの毛が擦るのは、せいぜい棘の一側面ではないだろうか? だがその棘は、三百六十度全面が光っていた。

 ……誰かが意図的に磨いた?

 その時、子供部屋から満里恵の泣き声が聞こえた。すぐ満里恵が、涙を拭きながらリビングに入ってきた。

「満里恵、どうした?」

「お父さぁん」

 満里恵は、操り人形のようにスタスタと歩いて来た。私が両手を差し出すと、満里恵は立ち止まり、小さく後ずさりした。

 郁子が当惑した表情で、満里恵の後ろに立っていた。

「満里恵ぇ、どうしたの? 急に泣き出したりして」

 満里恵はめったに泣かない子だった。しかも、さっきまで普段と変わりなく、ソファーで紅茶を飲んでいたのだ。

 妻に視線を向けると、彼女は小さく肩をすくめただけだった。

 満里恵が落ち着くのを待って、私は聞いた。

「どうした、満里恵」

 満里恵はしゃくり上げながら答えた。メガネのレンズの縁に涙がたまっていた。

「……お母さんが、リスなんか飼わなきゃよかった、って……」

「貸してごらん」私は、満里恵のメガネを取り、ティッシュで拭いてやった。

 妻を見ると、彼女は満里恵を冷ややかに睨んでいた。

「ちがうでしょ、そういう意味で言ったんじゃなくて、リスが満里恵の勉強のじゃまになったら困る、って言ったんでしょう」

「じゃまになんか、全然ならないもん」

「でも、逃げるたんびに部屋から出てきて、一緒に追いかけまわしてたんじゃ、いつ勉強するの? 来年は受験なのよ。百合園か純泉に行きたい、って言ったのは満里恵でしょう。お母さんはね、あなたのために言ってるの」

「でも、チョビは私が世話することになってるもん」満里恵は泣くのをこらえ、唇を痙攣させながら言った。

 私は二人に言った。「チョビの世話くらいしながらでも、勉強はできるだろう? 最初からそういう約束だったよなぁ、満里恵」

 二週間前にペットショップでリスを選んだ時、私は満里恵にそう約束させ、指切りしたのだ。

「だからぁ」郁子は苛立ちを隠さずに言った。「世話しちゃいけないなんて言ってないでしょう。チョビが逃げた時のことを言ってるのよ。捕まえるのはお父さんに任せておけばいいから、満里恵はやることをやりなさい」妻は大きなため息をついた。「まさか、こう毎日逃げるとは思ってもなかったわ」

「でも、お父さん、足に怪我してるのに、いつも捕まえる役じゃかわいそう」満里恵が言った。

 私は顔が赤くなるのを感じた。……苦労して隠したのに、バレてたか。

 妻は腕組みをして満里恵を睨み、一文字に閉じた唇をねじ曲げ、私が今までに見たことのない厭味な表情をした。

「まあ、お母さんも満里恵も落ち着けよ。要するに、チョビもニコルも逃げなくなれば、何も問題ないわけだろ? それなら大丈夫だ。お父さんが何とかするから」

 この時、私は、脱走問題をまだ安易に考えていた。

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