第5話 家庭崩壊とチョビ

 その日、夕食が終わってから、私はリビングのテレビでビデオを確認した。

 早送り再生で見続けたが、チョビはずっと檻の中で動き回っているだけだった。

「三回も逃げておいて、一回も写ってないとはチョビも運のいいやつだな」

 私は満里恵に言った。満里恵だけでなく、俊樹もいつの間にかそばに来て、ビデオを一緒に見ていた。意外なことだった。普段私がテレビを見ていても、二人とも寄って来もしないのに。

 満里恵に目をやると、視線が合った。満里恵はすぐ目を逸らしたが、その瞬間、「しまった!」という表情が現れた。それまで満里恵は、私の顔を横から注視していたのだ。チョビのビデオより私の顔の方が面白い、なんてことはあるはずない。

「ちがうよ、運がいいんじゃなくて、カメラがオンになってるのが分かるんだよ」俊樹は、テレビ画面を指した。「だって、ほら、さっきも、カメラの方をじっと見てたじゃないか」

 確かに、チョビは動きを止め、檻の縦棒を小さな両手で掴み、カメラの方をじっと見ている時がある。

 郁子が食後の紅茶を運んで来た。私たちが見ているテレビ画面を遮るのも構わず、こちらに巨大な尻を向け、応接テーブルにカップを置いた。私と子供二人は、体を斜めに倒して画面を見続けた。郁子はそれにまったく気づかない。

「じゃあチョビは、電源のランプを見て、それが消えてから脱走してるってわけか? まさかぁ……」私は言った。

「でもでも」と満里恵。「人間のわかることなら、リスだってわかるんだよ。リスは頭がいいんだ、って、ペットショップのおばさんも言ってたじゃない」満里恵は、クッションの上に膝立ちになって、体を上下に揺らした。そのせいでメガネが半分ずり落ちた。

「満里恵! もう六年生になるんだから、飛び跳ねるのやめなさい」と妻。

「まだ五年生だもーん」

「お父さん」郁子は私を睨んだ。「やっぱりちゃんとした檻に買い替えたら? こう度々逃げられたんじゃぁ、満里恵が勉強に集中できないじゃない。それに今度はニコルもでしょ」

「そりゃあ当然だよ」俊樹は誇らしげに言った。「チョビばっかり逃げるのはおかしい、って前から僕が言ってるじゃないか」

 俊樹はこれまでそう言い続けていた。妹が飼っているリスの方が芸があり、自分のリスは凡庸なことに不満を感じていたのだろう。今回ニコルが逃げたことは、俊樹にとって嬉しいことのはずだ。

「あっ」満里恵が突拍子もない声を上げた。そうやって皆の注目を集めておいて、一息吸ってから続きを言った。「ニコルは、チョビが逃げ出すのを見ていて、やり方を覚えたのよ。そうよ、そうよ、きっとそうだよ」

 そう言うと、またソファーの上で膝立ちになり、飛び跳ねた。

 私もその可能性は考えていた。一匹の猿が海水に芋を浸して、塩味をつけて食べることをおぼえると、その習慣はあっという間に群れ全体に広がる。動物といえども、仲間の行動を見て真似することがある、と何かで読んだ。しかし……リスと猿は知能が違い過ぎる。

 ただ、それでも、ひどく単純な動作なら、リス同士で真似することができるかもしれない。仮にそうだとすれば、ニコルが真似したチョビの脱走法は、極端にシンプル、ということになる。

 そんなに単純な方法なのか?

 私は、ますますその方法が知りたくなった。

「どうやって逃げたか考えるのもいいけど」郁子が刺々しく言った。「いつまでもリスと追っかけっこしてるわけにもいかないでしょう。これからは満里恵にとって大事な時期なんだし」妻は私を見据えていた。

 満里恵は、来年、百合園学院か純泉女子学園の中等部を受験しようとしている。今年一年は勉強の勝負どころなのだ。

「わたしは平気だもん」と満里恵。

「平気だもん、じゃないの。春休みの宿題だって、まだ全然やってないくせに」

「だって、まだ春休みになったばっかりだし」

「何言ってるの、もうあと一週間しかないのよ。わかってる? ずっとチョビにかかりっきりで……ちゃんと世話するのはいいことだけど、そればっかりじゃ困るのよ」

 満里恵を見る妻の目が、重く、真剣になってきた。

 私はそっとソファーから立ち、俊樹の前を抜けてトイレに行った。俊樹は両膝を上げて私が通れる隙間をつくり、私が通り抜ける間、ずっと私を睨んでいたようだったが、私がチラと見るとそっぽを向いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る