第4話 代償は片足
自宅のマンションに戻り、玄関を入ると、満里恵が廊下の奥から走り出て来た。捕虫網を肩に担いでいる。小学校六年になったばかりの満里恵は、大人用の捕虫網に、逆に振り回されているようだった。
「お父さん、早く閉めて! チョビが逃げる」
私は反射的に足元を見たがリスはいない。
玄関扉を素早く閉めた。
「どこにいる?」
私は、回れ右した満里恵の捕虫網が顔をかすめるのを避け、娘の肩を軽く押しながらリビングへ入った。
ほら、あそこ! という郁子の声がした。
エプロン姿の郁子が、ベランダに面したサッシ窓を指している。そちらに足を忍ばせて近づいているのは、Tシャツに、だぶだぶの短パンという格好をした俊樹だった。
見ると、カーテンレールの上を、一匹がチョロチョロ歩いていた。チョビかニコルかは見分けがつかない。
「窓は全部閉めたか?」
私は郁子に言いながら、満里恵から捕虫網を受け取リ、窓に近づいた。
「ほら、あそこ。早く」郁子は命令口調で言った。
言われなくてもわかってる。
「母さん、これ、ニコルだよ」と俊樹が言った。
ニコルは、カーテンレールの中程にちょいと腰を据え、まるで顔を洗うように、せわしなく両手を動かしていた。そこに向かって、俊樹は、丸めた手のひらを差し出した。中にはヒマワリの種がひとつまみ入っている。ヒマワリの種はリスの好物なので、差し出されると手に乗り移ってくるのだ。この方法で俊樹はこれまで二回、チョビを捕まえた実績がある。
「チョビの方は見つかったのか?」私はまた郁子に聞いた。
「さっき台所の方で見たわよ」
郁子は顎の先で台所を指す。私に見てこい、ということだ。
「満里恵、檻、開けろよ」俊樹は、ニコルを手に乗せたまま檻のそばに来ていた。
近くにいた私が扉を開けてやろうとした。見ると、思った通り、ニコルの檻もナスカンがかかったままだ。それを外して扉を上げると、ニコルは、俊樹の手から檻の中へ跳んで入った。
チョビの檻を見ると、やはりナスカンはかかっている。はめ込み式の餌箱と水差しの背板もぴったり閉じていた。屋根を持ち上げても上がらず、他に逃げ出した痕跡も見当たらない。
「お父さん、はやく台所の方、探してみてよ」
妻の苛立つ声がした。
私はそれを無視し、三脚にセットしてあるビデオカメラをチェックした。窓さえ閉め切ってあれば、外へ逃げ出す心配はない。
カメラの電源は切れていた。操作して調べると、やはり五時間の録画時間を使い切っていた。二匹が逃げたという妻からの電話があった時から逆算して、おそらく今回も決定的瞬間は写っていないだろう。
家の誰かが逃がしたに決まってんじゃん……とマコは言った。
私は、さりげなく家族の顔を見渡した。俊樹はチョビを見つけようと、真剣な目であたりを見回している。満里恵は床に四つん這いになって、ソファーの下を確かめている。郁子は台所を見に行った。
誰かが逃がしたとしても、何のためにだ? 逃したものをまた捕まえて、何の得があるのか?
「あ、いたよ」
満里恵が声を上げ、ピョンピョンと飛び跳ねた。
見ると、リビングのカーペットの上をものすごい速さで横切ったものがあり、それはテレビの裏に消えた。満里恵は、顔を上気させてテレビにかけよった。
「あ、いるいる。チョビ、チョビ、出ておいで」
チョビは追いかけられて興奮したのか、すぐにテレビの裏から出てきて、カーペットを横断し、反対の物陰へ一直線に走り込み、また出てきては別の物陰へ走った。
お父さんそっち! という妻の声が聞こえた時には、チョビは私に向かって突進していた。
私は横に跳び退きながら、捕虫網でチョビの行く手を塞いだ。跳び退いたはずみに、応接セットのテーブルの縁に、向こう脛を思いきりぶつけた。
私は叫び声を押し殺し、捕虫網を握りしめたまましゃがみ込んだ。脂汗が出るほど痛かったが、一家の主として、転げ回るわけにはいかなかった。
「お父さん、すごーい」
満里恵の無邪気な声が聞こえた。
涙で霞む私の目に、捕虫網の中でヒクヒク鼻を動かすチョビの姿が映った。
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