第七話

「散開!」とミナの声に、ヒトミはハッと我に返る。ミナとヤコはすでにライフルを構えながら蜘蛛の前に踊り出ており、残っている複眼を狙って乱射していた。蜘蛛は前脚を乱暴に振り回しながら、この世のものとは思えないおぞましい咆哮を上げた。周囲の空気の振動を通じて、ヒトミは自分の体がビリビリと震えるのが分かった。


「ヒトミちゃん、下がって!」


 ニオのかけ声に引かれながら、ヒトミは必死に砂の山を駆け上った。ふと振り返ると、ミナとヤコが蜘蛛のいくつもの脚を潜り抜けながら、蜘蛛の体に弾丸を撃ち込む様子が見える。


「すごい……」とヒトミの口からは感嘆の声が漏れた。

 ミナとヤコは息のあった動きで攻撃と離脱を繰り返していた。片方が囮となって蜘蛛の脚の隙間を掻い潜りながら、もう片方が攻撃を行う。蜘蛛が攻撃する方にターゲットを替えたならば、すぐさま役割を交代し、囮役が攻撃役となり、攻撃役が囮となる。


 こうしてはいられないと、砂の山を登りきり、ヒトミもライフルを構える。ニオに「目と足のつけ根を狙って」と言われた通り、ヒトミは照準器の中央に表示される点を蜘蛛の脚部に合わせる。

 蜘蛛の地団駄で照準器の視界は激しく揺れ動いたが、指導してもらった通り、ゆっくりと息を吐きながらトリガーを呼吸のスピードに合わせて引く。

 弾丸は空気を掻き切る音とともに蜘蛛の前脚の一本に吸い込まれるように命中した。

『当たった』と少し嬉しくなる気持ちを抑えつつ、同じように第二弾を放つ。狙った脚ではないものの、別の脚からは緑色の汁が噴水の如く噴き出す。


 このまま撃つだけであればどれほど楽な作業であっただろうか。だが、突然、蜘蛛は標的をニオとヒトミに定めると、残像が見えるほどの恐ろしい疾さで二人に迫ってきた。


「分かれて逃げるよ」

「はい!」


 ニオとヒトミは左右にそれぞれ走り出した。蜘蛛は一瞬立ち止まってどちらを追うか迷っていたが、ヒトミの方を向くと同時に八つの脚部を同時に動かしながらその背中を追いかけ始めた。あっという間に追いつかれそうになるも、突如現れたミナが蜘蛛の左端の目を潰す。蜘蛛は雄叫びを上げながらミナに振り上げた前脚を叩きつけようとするが、ミナは紙一重でそれを避けて、蜘蛛の胴体に弾丸を数発浴びさせる。


「目玉を狙え! じゃないとあいつの動きは止められない!」

「り、了解!」


 ヒトミはある程度後退し、今度は目を狙う。しかし、激しく動き回る蜘蛛の頭部はなかなか狙いが定まらず、トリガーに指をかけたままヒトミは銃口を優柔不断に上下させる。ミナが「撃て! 何をしている!」と怒鳴る声に「動きが激しくて目に当たりません!」とヒトミは叫び返す。


「なら、連射しろ! 少しの弾丸をケチるな!」


 無茶苦茶だと思いながら、ヒトミは指に力を込める。フルオートで発射される弾丸は狙いから外れたバラバラの場所に着弾する。そのほとんどが蜘蛛の肥大に膨らんだ腹部に当たったものの、何事もなかったように動き続ける蜘蛛はまるでダメージを受けていないようだ。

「ちゃんと狙え!」と怒り気味な声音にヒトミは首筋にツゥと流れる脂汗を感じつつ蜘蛛の残る二つの目玉に向かって撃ち続けた。

 ヒトミの数十メートル手前で挑発を続けていたミナに、蜘蛛が方向転換し、それが幸を奏して弾丸は蜘蛛の残っていた目玉を二つとも叩き潰した。激昂の恫喝か、それとも劇痛の慟哭なのか、何れにせよ、蜘蛛は鼓膜を破らんばかりの叫声とともに爆速で辺りを走り回った。


 砂が一帯に舞い上がり、まるで煙幕と言わんばかりに蜘蛛は砂塵の中でその姿を晦ましてしまう。砂が気道に入り込み、咳き込みながらヒトミは目を細く開けて蜘蛛の居場所を探った。腕で顔を覆いながら限られた視界の中で敵の影を探すが、貧弱な月明かりと大量の砂は人間の視界から巨大な蜘蛛を隠すことができた。だからこそ、ヒトミは背後に迫っていた物陰に気付いていなかった。

 ミナは自身の腕が掴まれたのを理解した。慌てて踠いて振り払おうとするが、それは強引にヒトミを砂塵の外へと連れ出した。首を振って砂を顔から払い落としながら、ヒトミは自分の腕を掴んでいたのがヤコであることに気がついた。


「あん中に居続けると死ぬぞ」


 ヤコは厳しい口調で言ったものの、その顔にはどことなく安心したような雰囲気があった。


「ご、ごめんなさい」


 ヒトミはヤコとは視線を合わせるのがどことなくバツが悪い気がして、思わず顔を伏せて、礼を言った。


「まぁ、いい。とりあえず、あんま動くなよ? あいつはあたしたちを狙ってる」


 蜘蛛が空中に舞い上げた砂はまるで壁のようにヒトミたちの前を漂っていた。しかし、重力が演劇の緞帳のように、その壁を徐々に下ろしていく。

 そして、消えた砂の壁が開幕を知らせる。少女たちは演目の役者を探すが、文字通り蜘蛛は煙に巻かれて消えてしまった。

「いない!?」とヒトミは驚きを隠せない。隣のヤコも神妙な顔つきで目の前の光景を見ていた。


「ヤバいな、また地面に潜ったか……」


 ヤコの言葉にヒトミは心臓を鷲掴みにされたような気がした。


「一体どうすれば……」

「とりあえず、できるだけ音を立てないほうが良さそう。地面の中であたしたちを探しているはずだから」

「つまり、このままってことですか?」

「うん、そういうこと」


 そう言ってヤコは案山子のようにピタリと動きを止めて、相手の出方を待った。ヒトミもそれに従おうと、息をできるだけ押し殺そうとした。しかし、どこから来るのか分からないという恐怖感が和らぐことはなく、ヒトミの鼓動のテンポは速まるばかりだった。


 どれほどの時間が立ったのかは分からない。一分、それとも一時間なのか。それくらい時間感覚を失ってしまうほどの緊張と恐怖がヒトミを包んでいた。銃を握る手は次第に重さを訴えるように痺れ始め、頬を流れる汗は止まる気配を見せない。

 流れた汗が顎の下に集まり、一つの水滴と化す。それが地面に落下し、ポツンと極小の音を鳴らす。その瞬間、地面は大きく盛り上がり、ヒトミは蜘蛛が近づいてくることを本能的に察した。

「避けてください!」と絶叫しながら、ヒトミは地面へダイブする。直後に土砂降りの雨のような砂がヒトミに降り注いだ。

「まだ来るぞ!」とヤコの声にヒトミは咄嗟に地面の上をローリングしながら回避を試みる。しかし、蜘蛛の攻撃から完全に逃れることは出来ず、先ほどのように宙へ吹き飛ばされてしまう。


 ヤコが大声で自分の名前を呼ぶのを知覚しながら、ヒトミは地面に激突する。高度があまりなかったのが幸いし、左肩から落ちたものの、転がって勢いを消すことには成功した。

 しかし、少し離れたところで蜘蛛が再び地上に顕現しているのを見て、ヒトミは焦りながらも立ち上がろうと地面に手を触れた。


 それがいけなかった。


 細い糸がヒトミの腕に絡まり、動きを奪う。しまったと、もがけばもがくほど、糸の締めつけは強くなっていく。


「いつの間にこんな糸を――」


 ヒトミは息を呑んだ。砂を巻き上げたのは隠れるためではなく、視力が低下している状態でも戦えるようにするためだったのではないか。知性すら感じさせる蜘蛛の行動に、ヒトミは全身に鳥肌がざわりと立つ感触を覚える。


 そして、蜘蛛は尻から出ている糸の振動で獲物を捕らえたことに気づき、今にもヒトミに飛びかかろうとしていた。


 スローモーションにすら見える蜘蛛の口の動きがニオの言葉を喋っているように錯覚した。


「一歩間違えれば、簡単に死んでしまうもの」


 ああ、私は死ぬんだ。ヒトミは目をそっと閉じて自分の最後を待った。


 ぐしゃり、ぱしゃ。

 肉が裂かれて、血が跳ねる。

 顔にかかった鮮血の熱を感じる。きっと冷めるのにそう時間はかかるまい。

 食われたのだ、とヒトミは考えていた。

 だが、いつまでも到来しない痛みにヒトミは疑問を呈した。

 恐る恐るヒトミが目を開ける。


 そこには――



 血塗れのヤコが蜘蛛の牙を受けている信じがたい光景があった。

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