第二話
山を降りると、大きな道路が少女たちの前に広がった。しかし、それは山道以上に縦横無尽にうねった複雑な形をしていた。上や下、右や左、迷路のように入り組んだ道路が、過去では当たり前のように使われていたとは到底信じがたかった。
「高速道路って言われてたらしいよ」
ニオは不思議そうな顔をするヤコに説明する。
「その『車』ってのがあれば楽だろうな。こんな歩かなくていいんだろう?」
「車があっても、私たちのやることは変わらない」
不満げにすぼめた口をミナは無視して、アスファルトの山岳地帯を歩いていく。木の代わりにそびえる防音壁は道路に沿ってどこまでも伸びていた。防音壁がなければ周りの景色に変化はあったかもしれない、しかし、道がうねるだけで景色はたいして変わらない。
路面は時々大きく抉れ、下に閉じ込められていた雑草が、太陽の光を浴びようと必死に手を伸ばしているようだった。その傍らでは、大木のように朽ち倒れた照明灯が、ペンキのはがれた錆びた茶色い表面を晒している。
そんな悪路を少女たちはひたすら歩いていた、
一人は不安げに辺りを見ながら、
一人は陽気に歌を歌いながら、
一人は見えない気配を探りながら。
「うえーをむーいて、あーるこー」
ピッチが若干ずれている上に、装備のガチャガチャとぶつかり合う音に合わさって、絶妙な不協和音が奏でられる中、ミナの左眉は微かに動いただけだった。
「ヤコちゃん、それなんて歌なの?」
「分からないけど、こないだの街でこの曲が流れてた」
「そうだったけ?」
ニオは首を傾げる。その様子にやれやれとヤコは首を振る。
「ニオはいっつも本に夢中なんだから」
「い、いいでしょ! 珍しい本を探すくらい−−」
「その探し物の最中のお店の中でずっと流れてたよ。まったくさぁ、一つのことに固執するとすーぐに周りが見えなくなるんだから」
ぷぅとほっぺを膨らませ、睨みつけるようにニオはヤコを見る。が、ヤコはそっぽを向いて、また同じフレーズを繰り返す。
途中歌詞が分からず、ヤコは慌てるようにハミングで誤魔化すも、そもそも覚え切れていないメロディーでは五十歩百歩の違いにすぎない。
「そこは『ひ、とーりぼーっちのよるー』だ」
「さすがミナ、詳しいね」
「別に。無駄に長生きしているだけ」
「無駄じゃないよ! 立派に生きているんでしょ!」
「どうだか。その分辛いことのほうが多い気がする」
ミナの言葉に、ヤコもニオも口を閉じて、黙って果てしない旅路を歩き続けた。自分の発言に責任を持った訳ではないが、ミナはどことなく極まりが悪い気がした。彼女が口にできるのは紛いもない正論だが、それが時に簡単に人を傷つけることを、彼女は理解していなかった。
そんな気まずさを紛らわすかのように、ヤコが口笛で先とは異なる曲を吹かす。ヒューヒューと締まらない不安定な音色はお世辞にも上手とは言えなかったが、どこか懐かしさを感じさせる。
ミナの脳裏に一人の女の子の姿が過る。
黒髪のポニーテールで自分の背格好に酷似しており、灰色のぶかぶかのトレンチコートを羽織り、いつも口紅みたいに真っ赤なヘッドホンで音楽を聴いていた。上機嫌な時は目をつぶって、鼻歌を歌いながらリズミカルにスキップしていた。
『なんの曲を聴いている?』
知らず知らずのうちに、ミナはその背中に質問を投げかけていた。だが、その少女はまるで周りの音が何も聞こえていないかのように、軽やかな歩みを続けるだけだった。そんな彼女の前に大きな黒い影が現れる。やせっぽちだが、少女の数倍はある大きな姿には大きな二つの鎌がついていた。
『おい、止まれ! そっちは――』
ミナが言葉を終えることはなく、少女の体は大鎌に吸い込まれるが如く消えた。それは蝋燭の炎が突風にかき消されてしまうのに似て、あまりにも一瞬で、あまりにも無慈悲だった。
「ミヨ!」
虚像の少女の名前を叫ぶとともに、ミナはがばりと起き上がった。先ほどまで、昼の山道を歩いていたような気がしていたが、あたりはいつの間にか暗く、自分がコートをかけ布団代わりにした簡素な寝床にいることを、ミナはすぐに認識した。ふと思い出せば、自分たちが寂れたサービスエリアの一角を使って休憩を取ることを決めていたはずだった。
しかし、どこまでが夢でどこまでが現実なのか分からないあやふやな感覚は胸に何か詰まったような気持ち悪さを残しつつ、目の裏に焼きついた残像は鉛球を詰められたような頭痛を起こす。
首元に流れる生暖かい汗の感触に、シャツを湿らせるほどの大量の汗を自分自身が掻いていることに気づかされた。なんだこれは、とミナが考えようとしたとき、誰かの気配に気がついた。
半開きのガラスの扉から首だけを出しているニオに思わず目が合う。
「ミナちゃん、どうかした? 声が聞こえたから来たけど……」
咄嗟に「いや、な、なんでもない……」となぜかミナの口は勝手に嘘を吐く。
「そう。じゃあ私は持ち場に戻るね」
ニオがパタパタと駆けていくのを後目に、ミナはしばらくぼんやりとシャツに浮かぶ大きな水玉を見ていた。だが、ハッと何かを感づると、慌てて着替えて外へと飛び出した。
ニオの場所はすぐに発見できた。春になったとはいえ、まだ肌寒い夜空の下で焚火に当たりながら、座って夜空を眺める人影は間違いようもない。駆け足でも引っ掴んできたコートに腕を通しながら「ニオ」と短く呼ぶ。
「……ミナちゃん?」
ニオは半分不思議そうに、半分怪訝そうにミナを見つめていた。少し息を乱しながら、ミナは口を開いた。
「なぁ、ニオは『夢』を見るか?」
ニオは最初呆気に取られたようにミナを見上げていたが、やがてミナの真剣な眼差しに気づいて、思考するように俯いた。そして、再び顔を上げたとき、ニオは「夢って、眠ってみる方の夢だよね?」と質問返しをする。
「当然だ」
「念のため、だってミナちゃんは言葉が少なすぎるんだもん。最近願い事の話をしたでしょ?」
ゔゔんと不機嫌そうに喉奥で唸るミナを、ニオはクスリと笑う。
「ふふ、ごめんね。さっきの答えだけど、私は見ないよ」
「……やっぱり」
「そもそも、私たちは寝る必要がないように作られてると思うんだよね。でも、夢を見ることがあるとすれば……」
「すれば……?」
一瞬ニオはミナと視線を合わせた。ミナの意思に関係なく、腕にざわりと鳥肌が立つ。知るにはそれ相応の覚悟を用意しろと、ニオの目が、しかしニオではない別の誰かが、そう言っているようだった。
ふぅと短い溜息を吐き、ニオは重々しく口を開ける。
「まず、どうして人が夢を見るのか知ってる?」
ミナの首を横に振る動作を見て、ニオは言葉を続けた。
「メカニズムとして、夢を見るのは記憶の整理のためなの」
「ふん」と興味深そうにミナは鼻の奥で返事をした。彼女の目はニオの口元に釘づけだった。
「人は常に、五感で情報を得続けている。そうした情報はたくさんあるでしょ? それらの大量の情報は睡眠中に再構築される。その過程の中で零れ落ちた情報が夢になるの。もちろん私たちも理論上はおなじ」
「理論上?」
「ええ、さっきも言ったけど、私たちは睡眠を取らなくてもいいようにできているはず。でも、結局のところ、根本的な部分は人と変わらないから夢を見ても不思議じゃない」
「でも、ニオは見ないのだろう?」
「うん。そこなんだよ」
ニオは鼻の上の眼鏡をわざとらしく直す。
「私の想像だけど、私たちが夢を見る理由は多分人と異なっている。ある種の進化なのかな? いや、もしかしたら退化かもしれない。睡眠がそもそも人の心身のバランス調整であったとするならば、その機能を排除したことによって、私たちは身体的、精神的なストレスへの対処を失っているともいえるね。心的外傷後ストレス障害の発症は私たちに観測されたことはないけど、その『夢』という現象がストレスの緩和剤を果たしているというのならば――」
「細かいことはいいから、理由は?」
自分が喋りすぎたことに気づき、ニオはわざとらしく咳払いをして端的に結論を述べた。
「……何かを強烈に忘れたい、だと思う」
「忘れたい、か」
頭の中の重しがさらに重たくなるような気がして、ミナはめまいを起こしているような錯覚を覚えた。
「大丈夫?」
「あ、ああ……」
「座った方がいいよ、あんまり顔色がよくないから」
「うん」
ニオに促されるまま、ミナは冷えたコンクリートの上に気だるげに腰かける。まるで、頭の中の鉛が溶けて、血管を通って全身に流れているようだ。ハァと肺から出た空気も重力に引っ張られている。
しばらく、少女たちは黙って、白い月明かりを反射するアスファルトの野原を眺めていた。
乗り捨てられた車のタイヤは既に液状化し、傷だらけの車体からは新しい命があちらこちらに根や枝を伸ばしていた。昔はこれに乗って移動していたというから驚きだ。それも、歩くより数十倍速いスピードだったというからなおさらだ。もちろん直して使うことができるものもあるだろうが、ミナには電気工学の知識はさっぱりだった。
こうやって人間たちが作ったテクノロジーが忘れ去られていくように、自分の記憶も勝手に消えてしまうのだろうか。
忘れたくないという純粋な想いは、これまでの自分の生き方に反しているようで、ミナは胸の中で燻る矛盾に戸惑っていた。そんなミナに「ねぇ」と横からが優しい声がかかる。
「ミナちゃんがよければなんだけど、夢の内容、聞いてもいい?」
ミナはニオのほうを少し向いて表情を伺う。しかし、ニオは目の端でわずかに視線を合わせただけで、また正面の遺物に視線を戻してしまう。
「ミヨの夢だった」
「ミヨちゃんの……」
こくりとミナが頷く。
「ミヨがやられたときを……見た気がする」
「それは……悲しいね……」
暗くなったニオの声にミナはまた頷いただけだった。
自分の意思に関わらず、それは忘れたいことなのだろうか。本当に忘れてしまっていいものだろうか? コートの袖を握るミナの手はキュッと締まった。月の光に反射したそのコートは灰色だった。
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