第11話 復讐皇女
ありえないありえない……そんなことがあるはずがない!
カッシオは纏わり付く不安を振り払うように、無我夢中で否定する。
「ば、馬鹿な。お前は五年前、モストロ領域で……いや、オレが差し向けた兵士に殺されたはず」
「あんな雑魚に殺されるほど、俺は弱くねぇ」
剣を振ったこともない、当時15歳の皇子が屈強な兵士を返り討ちにした。
俄かには信じ難い話しであるが、カッシオには否定できなかった。幼き日、取り巻き諸共やられたことを思い出し、無意識に腕を擦った。
生きている可能性はある。けれども、カッシオはその現実を認めたくはなかった。
「な、なんだその姿は!? 死んで化けて出たとでもいうのか!? 下らん下らん下らん! そんな馬鹿な話しがあってたまるものか!」
「殺されてねぇって言ってるだろうが……」
まるで嘆息するように息を吐き出す。人の顔であったら、呆れているのかもしれない。
獲物を前にしているというのに、ディーノと名乗る怪物の瞳には、餌を前にした狂暴性がない。
「正直、お前なんぞに興味はねぇんだ」
「……興味がない、だと?」
このオレに、興味がない……?
心の内を満たしている恐ろしさを塗り替えるほどの怒りが、カッシオの内から湧き上がってくる。
「ディーノ……貴様はいつもそうだ。側室の子でありながら、不遜な態度で、正妻の子であるこのオレですら眼中にない。誰の言葉にも左右されず、皇族の仕来りにすら従いはしない。己が強者であると憚らないその姿勢が、オレは大嫌いだった……っ!!」
王城で、ディーノと初めて出会った時のことをカッシオは覚えていた。
ただ廊下を擦れ違っただけの邂逅。その時には既に皇子としての自意識があったカッシオには、今ほどではないにしろ、称えられることに慣れていた。
それが例え同じ皇子であろうとも意識せずにはいらない、絵物語の英雄や勇者のような存在であると自負していたのだ。
だというのに、ディーノは視線を一瞬向けただけで、声を掛けることすらしてこなかった。それだけではない。まるでカッシオが見下す平民を見るような、意識にも上がらない感情のない瞳を向けてきた。
自尊心の大きかったカッシオは、それが許せなかった。尊敬でも、畏怖でもなく、反抗ですらない。その他大勢の一人としかカッシオを認識しなかったディーノに、言いようもない苛立ちを覚えたのだ。
それからというもの、ディーノに度々嫌がらせをしたカッシオであるが、ディーノがカッシオへと向ける目は変わることはなかった。
そんなディーノを自身の手で葬れたと思っていたのに、実は死んでいなかったなど認められることではない。
カッシオは相手の脅威すら忘れ、沸き上がる感情のままに言葉を吐き出す。
「このオレに跪け! オレはサングエ帝国の次期皇帝カッシオ・クローディアだぞ!? 見ろ! 認識しろ! 感情を向けろよ!? このオレを! 貴様如き罪人がこのオレを憐れむなぁあああああっ!!」
カッシオの心からの叫び。
カッシオ自身ですら意識してはいないが、これは彼なりの抵抗であった。皇子でなければ雑草の如く増える平民となんら変わらない、無価値な存在であると、認めたくないがための拒絶反応。
カッシオの本質を浮き彫りにするディーノの目を、変えたくて仕方がなかった。
「――どうでもいいと、言っただろう?」
けれども、無情にもカッシオの内なる望みは叶わない。
人であれ、恐竜であれ、ディーノがカッシオへと向ける瞳の感情は変わらない。等しく、無感情。
怪物の鼻先がカッシオの前に突き付けられる。
「カッシオ。一つだけ、貴様個人に用があった。昔言ったな? 次、アウローラに手を上げてみろ。その時は――」
怪物の大きな口が開き、カッシオの腕を挟み込む。
牙を突き立てられた肌の感触にカッシオは目を剥く。
「――喰らってやると」
なにかの潰れる音がした。
感覚はない。腕を喰われたという事実だけを理解する。
「あ……」
息を吐き出すように零れた声と同時に、腕を噛み千切られた肩から血が噴き出した。
身体から止めどなく流れ落ちる赤い命を目にした瞬間、熱い熱い激痛がカッシオを襲う。
「あ、あ、あぁあああああああああああああああああっ!? 腕がっ!? オレの腕がぁああああああっ!?」
地に伏せ、涙を流す。
地面を濡らす、透明と赤の雫。
皇子の矜持を保つ余裕はなく、ただただいたいいたいと大声を上げて訴えた。
「喰われた!? いだいいだいいだいっ!? 血、血がぁっ、止まらないぃぃいいいいっ!! 助け、助けてくれ、誰か……っ!」
誰でもいい、助けてくれと救いを求めるカッシオの頭にポタリと雫が落ちる。
恐る恐る見上げれば、口の端から血を滴り落とす怪物の姿があった。そして、またポタリと雫が怪物の口から零れ落ち、カッシオの顔にべちゃりと付着した瞬間、カッシオの精神を保っていた糸が音を立てて切れた。
「嫌だぁあああああああっ!? うぁあああああああああああああああああっ!!」
尊厳も見栄もない。
頭の中は真っ白で、ただ逃げなければならないと血の零れる傷口を残った手で押さえながら、カッシオは泣き叫んで町へと逃げていった。
~~
小さくなっていくカッシオを睥睨し、ディーノは追い掛けようとする。
血の匂いは濃く、地面には紅色の目印が残されている。例え、見失ったとしても追い掛けることは容易かった。
踏み出そうとしたところで、彼を止める声が掛かる。
「お兄様、お疲れ様でした。後のことについては、私にお任せ下さい」
周囲を見渡せば、カッシオが連れてきた兵士たちは戦意を失くし、降伏していた。アウローラの騎士たちによって一人一人捕縛されていっている。
肉食獣の本能として、血の濃い匂いを追い掛けたかったが、アウローラが任せろというのであれば、ディーノに否はない。もともと、アウローラの目的に手を貸しているのだ。そのアウローラの意向を無視しては、なんのために協力したのか分からなくなる。
少々名残惜しみながらも、ディーノは人型に戻る。当然ながら服を纏わないディーノの姿に「きゃっ!」とアウローラが可愛らしい声を上げる。悲鳴と呼ぶには、嬉しそうな響きであったが。
「ディーノ様、こちらを」
「ああ。助かる」
ディーノが戦っている間も、アウローラを護るため彼女の傍に居たミラーナが、すかさず丈の長い外套をディーノに羽織らせる。
口の端に付いた血を拭ったディーノは、どこか残念そうにしているアウローラに告げる。
「わかった。好きにしろ」
「お兄様はゆっくりお休み下さい」
緩んだ頬を引き締め、アウローラは決意の込められた眼差しをディーノへと向けた。
「――ここから先は、私の役目ですので」
~~
無我夢中で町中を走るカッシオ。
血を流し、泣き叫びながら走る姿はとても目に引く。しかし、どれだけ走ろうとも誰一人として住人の姿は見つけられなかった。
そのことに気が付くことすらなく、カッシオはとうとうイニーツオで拠点にしている屋敷にまで辿り着いた。
血を流し過ぎ、今にも息絶えそうな蒼白の表情で、壁を支えにして執務室へと向かう。
血に濡れた手でドアノブをどうにか捻り、倒れ込むように室内へと入った。
「たす、助けてくれ……ロザリア…………ろざりあぁ」
最愛の名を呼ぶが、返事はない。
唯一、心を許したロザリアの姿すら一目見ることも叶わず、カッシオの心は絶望で染まる。
「あぁっ……ぁ……はっ…………あぐ…………」
小さな嗚咽を零しながら、カッシオはすすり泣く。
痛くて。怖くて。なにより、寂しくて。カッシオは幼い子供ように声を殺して泣いた。
「――誰も助けには参りませんよ?」
パタンと、音を立てて扉が閉じる。
声で誰が来たのかをカッシオは悟った。アウローラだ。しかし、カッシオには彼女の顔を見上げる力は残されていない。
嗚咽を繰り返すカッシオは、相手がアウローラであろうと人が来たことに安堵し、必死に声を絞り出して乞う。
「た、助けてくれ……っ! 喰われてしまう、ディーノに、あの化物にっ……。たすけ、たすけてくれ」
「ふふ。そうですね。私がお願いをすれば、お兄様は引き下がってくれるでしょう」
アウローラの声はとても明るかった。顔を見ずとも、笑っているのが分かるほどに。
「な、なら――ッ」
「安心して下さい。お兄様に手出しはさせません」
優しい、慈愛に満ちた声。
カッシオは目をぎゅっと瞑り、ぼろぼろと涙を零す。助かるんだと、そう思うと心が歓喜で震え上がった。
「な、なら……早く手当をしてくれぇ。血がこんなにも流れて……し、死んでしまう…………」
「はい――
――死んで下さい」
カッシオの背に、鋭いなにかが突き刺さった。
それが短剣であるとカッシオは分からなかったが、アウローラがカッシオを殺そうとしていることだけは、朦朧とする意識の中で理解した。
「あ……あがぁっ!? な、なぜ……っ!?」
「決まっているではありませんか」
血が足りず、霞む視界にアウローラの顔が映り込む。
ぼやけた視界で、彼女がにこりと笑ったような気がした。
「――お兄様を虚偽の罪で追放した貴方を、私の手で殺すためです」
視界が暗闇に落ちる最後の瞬間、カッシオが目にしたのは聖女と呼ばれた皇女ではなく、復讐に手を染める狂気を宿した女の姿であったーー
「私の愛するお兄様に謂れもない罪を押し付け! 愚かにも殺そうとした貴方を! 私はこの手で殺したかった!」
「あ……がっ…………や、やべでぇ……」
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度もなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんども――――
カッシオが息絶えようとも、純白のドレスが返り血でどれだけ穢れようとも、アウローラは短剣を突き刺した。
これまでずっと内に溜めてきた憎悪が解放され、アウローラの感情は止まらない。止めたくもない。
「どれだけこの時を待ち望んだか! 頭の中で何度貴方を刺し殺したか! 貴方だけじゃない。お兄様の追放に関わった者も! お兄様を見捨てた皇族も! 私は許しはしない!」
優しき兄と引き裂かれ、どれだけ辛かったことか。
その理由が、下らない政争であると知った時、どれだけ怒りを覚えたか。
アウローラは一度たりとも忘れたことはない。ディーノを追放する瞬間、悦に浸るカッシオの顔を。嘲笑する貴族たちを。欠片も感情を見せない皇帝のことを!
「殺して殺して殺して殺して尽くして上げましょう。お兄様を裏切った皇族を! 皇帝すらも殺してみせます!」
そのためだけにアウローラは五年間耐えてきたのだ。
兄を裏切った者たちに復讐をするため、耐え難き恥辱に塗れた皇女としての生活を受け入れた。
心の内を誰にも悟らせぬよう笑顔の仮面を被り、血の涙を流す憎悪の素顔をひた隠してきた。
しかし、それも今日で終わりだ。
「うふふふふふふ。あはははははははっ! 確かに、私は民を愛しています。それは今でも変わりはしません。けれど、民以上に私がお兄様を愛していただけ。ただ、それだけの話なのです。だからこそ、私はお兄様を裏切り殺そうとした帝国を許しません。私の手によって――――帝国という名を消してみせます」
民を救おう。
大陸を平和にしよう。
けれど、それらは全て愛する兄よりも優先すべきことではない。
アウローラにとってこの世界は、兄が居て初めて成立する場所だ。だからこそ、アウローラは自身の世界を壊そうとした帝国を許しはしない。
これは、サングエ帝国第三皇女アウローラ・クローディアによる、大陸全土を巻き込んだ復讐の物語だ。
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