第2話 三番目の皇子と皇女の幼き日々


 ディーノが王宮を追放されるより前、彼がようやく十歳の誕生日を迎えていた頃。

 王宮の庭園でアウローラが、カッシオとその取り巻きにいじめられていたことがあった。

 アウローラがなにかしたわけではない。彼女は庭園に咲く花を愛でていただけだ。そこにカッシオが通り掛かり、一方的に突っかかってきたのだ。


『妾の、それも庶民の子が! オレの視界に入ってくるな!』

『きゃっ!?』


 カッシオが加減することなくアウローラを突き飛ばす。

 アウローラはこの時六歳の幼子だ。カッシオは十三歳であり、性別や年の差を含めて体格さは大きい。

 いままで見ていた花園の中にアウローラは倒れてしまう。幸いなことに、土が衝撃を和らげたため怪我はなかった。しかし、これが石畳の上であったなら、大怪我をしていたかもしれない。

 だというのに、カッシオに悪びれた様子はなく、不満そうに鼻まで鳴らす。


『オレの歩く先にいるなど不敬だ。身の程を弁えさせてやる!』


 イラついた様子でカッシオが拳を振り上げる。

 突き飛ばされただけでも恐ろしかったアウローラは、恐怖のあまり目をぎゅっと瞑る。

 けれど、来ると思っていた衝撃は訪れず、濡れた瞳を恐る恐る開くと、カッシオを睨み付けている兄、ディーノの姿があった。


『なにしてやがる』

『でぃ、ディーノ』


 鋭い視線に、怒気の込められた声音。

 カッシオのほうが年上であり、身体も大きいのだが、根本的な力関係を身体が察したかのようにカッシオの身体が震え出す。


『……おにいさま』

『アウローラ。……お前らか?』

『だ、だからなんだって言うんだ!? 側室の子の分際で! やれ! ぶっ殺すんだよ!』


 ディーノの瞳に剣呑な光が宿る。それを見て一層震えてしまったカッシオは、怯えてしまった自分自身が恥ずかしいと顔を赤くし、取り巻きをけし掛ける。

 カッシオと同年代であろう二人の取り巻きは、カッシオの指示に従いディーノへと殴り掛かる。

 けれど、結果は呆気なく、逆にディーノが取り巻きたちを殴り飛ばし地に転がす。身体の成長の差すら物ともしない強靭さ。

 返り討ちにした取り巻きの一人を踏みつると、小さく呻き声を上がる。


『邪魔だ。大人しくしてろ』

『なにやってるんだ!? こんな奴に呆気なくやられやが――ひっ!?』


 狂乱したように叫んだカッシオだったが、ディーノが近付いてくると悲鳴を上げて転んでしまう。

 必死に距離を取ろうと後退る。既にアウローラや取り巻きのことに目を向ける余裕はなかった。


『な、なんだ!? お、オレを殴るのか!? 側室の子のくせに! 正統な血を引くオレを! そ、そそそんなことをすれば死刑だぞ!? お前なんて――ぐはっ!?』


 最後まで血筋に縋る愚か者を、ディーノは躊躇なく殴り飛ばした。

 実際、カッシオの言葉通り、この行動は少なからず問題になるだろう。けれど、知ったことではなかった。群れの仲間を護るのは当然だ。なにより、このような弱者にデカい顔をされるのは、我慢ならない。

 強がる余裕もなくなったのか、腫れた頬を抑え、怯えた目をディーノへと向ける。反抗の牙は呆気なく折れた。

 ディーノはカッシオの前髪を掴むと、至近距離で目を合わせる。怪物の瞳を網膜に焼き付けるように。


『次、アウローラに手を上げてみろ。その時は――』


 カッシオの腕を掴み、牙を突き立てる。

 喰い千切らないように加減をし、けれど、血が零れるほどに強く。


『ぎゃぁああああああああああっ!? 離せ止めろ痛い痛い痛いっ!?』

『――喰らってやる』


 腕から牙を抜いて手を離すと、傷付いた腕を庇い、泣きながら逃げて行った。

 歯に付着した血を口内で舐めとる。久々に生きた血を喰らい、本能が掻き立てられる。

 狩りをしたい気分であったが、アウローラを放置するわけにもいかなかった。


『大丈夫か? アウロー……っと』

『~~っ!! おにいさまおにいさまっ!!』


 余程怖かったのだろう。涙腺が壊れたように透明な涙を流し、しばらくの間ディーノへと抱き着いて離れることはなかった。


 ――


『少しは落ち着いたか?』

『……はい』


 あれからアウローラはディーノからしがみ付いて離れず、ディーノは動くことができず庭園に居座ることを余儀なくされた。


 王城ではカッシオが血だらけで帰ってきて大騒ぎになっているだろうな。


 面倒になる確定的な未来を想像して、へっと息を吐き出す。

 どうにか泣き止んだアウローラは、ひっくひっくと身体を揺らしながら、小声でお礼を口にする。


『たすけてくれて、ありがとうございます。おにいさま』

『はっ! あんな雑魚を追い返した程度で気にするな』


 事実、大したことはない。少し灸を据えた程度だ。


『カッシオ様……怖いです』

『あいつは皇帝と正妻の子供というのを誇りにしてるからな。側室の子である俺やアウローラが気に入らないんだろうさ』


 元の性格の悪さもあるが、それに拍車を掛けているのは環境だ。

 意のままに動く皇帝を欲し、カッシオの周りには小さな頃から彼を褒め称えることしかしない貴族が集まっていた。体のいい神輿として担がれているのにも気が付かず、それが当たり前だと思うようになれば性格も歪むだろう。


『ただな、アウローラ。お前もダメなところがある』


 ディーノの言葉に、アウローラの身体がびくりと跳ねる。ぎゅうっとディーノの服を掴む力が強くなる。

 ディーノを見上げる目は、兄に嫌われたくないと必死に訴えかけており、収まったはずの涙がじわりと滲む。


『だめなところ……おにいさまはわたしのことがきらいですか?』

『そういうことじゃねぇよ』


 ディーノとしては泣かせる気はなかった。乱暴ながらも、痛くしないように気を使いながらがしがしと頭を撫でる。


『ただ、弱いというのは、それだけで喰われる側になる。強い奴が喰らうのは、どこの世界でも同じだ』


 まだ六歳だからなどと甘いことは言っていられない。誰も成長を待ってはくれないのだ。弱いままでは喰われる。言い訳に意味はない。


 まあ、この王城では単純な力の強弱だけでは上手くいかんがな。


 面倒だ、とディーノは思う。人の世界は暴力という目に見える力だけでは生きてはいけない。十になるまでどうにかこうにか生きてこれたが、息苦しいことこの上ない。


『強くなれ、アウローラ。いつでも誰かが護ってくれるなんてのは、幻想だ』

『おにいさまも?』


 不安そうにディーノを見つめるアウローラ。優しい兄なら護ってくれるはずだと、可愛い妹が縋ってくる。

 保護欲を誘う、いとけない仕草にディーノの顔が綻ぶ。


『護るさ。たとえ、半分しか血が繋がっていなくても、お前は俺の大切な妹だ。アウローラのためなら、どんな時でもな。ただ、俺とてお前をいつまでも護れるとは限らないからな』


 王城は弱肉強食をことわりとする自然界とは違う。他者を騙し、陥れ、富や権力を手に入れようと後ろ手に短剣を持った狐や狸の巣窟だ。

 力が物を言う場所であれば、ディーノに敵はいない。しかし、力が役に立たない場所では、不覚を取ることもあるだろう。いつまでも、アウローラの傍に居てやれるとは限らない。

 故にこそ、自覚だけはして欲しかったのだが、幼い少女には難し過ぎたようだ。しゅんっと俯いてしまう。


『……わたしには、わかりません。おにいさまとずっといっしょにいたい、です』

『そうか』


 素直な言葉に、ディーノは苦笑する。

 これ以上言っても効果がないと判断したディーノは立ち上がると、アウローラの小さな手を握って連れ立って歩き出す。


『お前を悲しませた詫びと言ってはなんだが、面白いものを見せてやる。地上で最も強い生物を、な』


 ――


 サングエ帝国王城にあるアウローラの寝室。

 アウローラは豪奢な純白の天蓋ベッドで目を覚ますと、ゆっくりと身体を起こした。


「懐かしい夢を、見ました」


 あれから十年。ディーノがいなくなってから五年。

 ずっと兄が傍にいて、護ってくれると無邪気に信じていた幼いアウローラ。

 血の繋がった兄姉の中で、唯一兄と慕うディーノに付いて回り、護られていた幸せな日々。

 妾の子と虐げられることもあったが、アウローラの人生においてあれほど満たされた時間はなかった。


 ――お前をいつまでも護れるとは限らない――


 あの時の言葉を、当時アウローラは理解できなかった。もしかしたら、そんなのは嫌だと考えすらしなかったのかもしれない。縋り、抱き着けばいつでも優しい兄が撫でてくれるはずだ、と。

 しかし、今なら理解できてしまう。理解させられてしまったというのが正しいか。

 この世界は、強くあらねば生きていけない残酷な世界だ、と。


 幸せだった思い出に耽っていると、遠慮のあるノックが耳に届く。

 入室を許可すると、入って来たのはアウローラのお世話係である銀髪メイドのミラーナ・セルジオであった。

 彼女はクラシカルなメイド服を着こなし、品のある所作でアウローラの元へ歩いてくる。


「お目覚めでございますか、アウローラさ――アウローラ様っ!? いかが致しましたかっ! どこかご気分が優れませんか?」

「? 慌てて、どうかしましたか?」


 突然慌て出したミラーナを見て、きょとんと首を傾げる。

 落ち着いた様子のアウローラを見て、平静を取り戻したミラーナは心配そうにハンカチを取り出すと、主の頬を拭った。


「あ……」

「涙で濡れております。夢見が悪うございましたか?」


 ハンカチが頬に触れ、アウローラは初めて自分が泣いていたことに気が付いた。

 目元に触れると、微かに水滴が残っている。


 泣くなどいつぶりでしょうか。お兄様が追放されて以来、覚えがありません。


 ディーノが居た頃は小さなことでよく泣く子供であったが、兄がいなくなってからは涙の一滴すら流していなかった。

 心配そうに覗き込んでくるミラーナに向けて、アウローラは首を横に振る。


「いえ、とても懐かしい夢を見ました。私にとって、大切な思い出です」


 いつまでも泣き虫なままではいられない。

 弱いわたしを護ってくれるお兄様は、もういないのだから。

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