第32話 食欲が淫れる


 聞けば遊子は、朝から何も食べていないのだという。


 例の『しぼりたてジュース』も飲まなかったんだとか。


「とにかく! 帰りに何か買って帰るぞ!」


「う、うん……」


 ジムからの帰り道でのやりとりだった。


「本当は、何か食べたいものがあるんだろう? 言ってくれよ!」


「ええ……でもぉ♡」


 気を使っているのか何なのか、遊子の態度がモジモジとはっきりしない。


 お腹は空いてて食欲はあるはずなのだが、美容とダイエットへの意志がそれを拒んでいるのだろう……。


「拒食症って悪化するとマジでヤバいらしいぞ! 女は女で、色々と複雑なんだろうけど、男に関して言えばな、少しくらいポチャったって何ともない……むしろ、そっちのほうが……か、かか……可愛い……んじゃないか? と、とにかく! 健康に勝るものはないんだ! だからさ、今はとにかく食べよう!」


 と俺は、最大限に気を利かせて言ってみるが。


「べ、別に太るのを気にしているんじゃないよ……。私が気にしているのはね……ハルキのことなんだから」


「えっ? 俺のこと?」


 意外すぎる反論がきた。


 俺がなにかしたせいで、遊子は拒食症になってしまったというのか!?


「お、俺の何がいけなかったんだ!? 言ってくれ! 遊子の拒食症が治るならなんでもする!」


「な、なんでも……!?」


 すると遊子は、顔を赤くして驚く。


 一体、何を考えいるんだろう……。


「本当になんでも……してくれるの?」


「ああ、本当だ! 本当に何でもする!」


 ぶっちゃけ、俺はボッチである。


 遊子という幼馴染がいなかったら、本当に誇るものがなにもない青春を送ることになっただろう。


 だから俺にとって遊子はとても大切な…………幼馴染なのだ!


 そんな幼馴染がトラブルを抱えているんだから、何が何でも解決してやりたいだろうさ!


「じゃ、じゃあ……私が今から言うことを信じてくれる?」


「え? 信じる?」


 ただそれだけで、遊子の拒食症が治るというのか?


 よくわからないが……遊子がそう言うのならそうなのだろう。


「あ、ああ……! わかった! どんなことでも信じる!」


「う、うん……じゃあ、言うね?」


 俺は、固唾をのんで遊子の言葉に耳を傾けた。


「前から言っているけどね、私、本当にサキュバスなの……」


「お、おう……」


 わかった、ここはひとまず『信じるふり』をしようじゃないか!


「そうだったんだな、すげーな……」


「そうなの……すごいの。それでね、サキュバスっていうのは、男の人の精力を食べて生きる魔物だから……わかる?」


「え、えーと……」


 俺もマンガとか読んでいるから、ある程度の知識はある。


 確か、夢の中に出てきて男を夢精させたりするんだろう?


「はっ……!」


 そういや遊子って、しょちゅう俺の夢の中にでてくるよな。


 そしてそんな夜は決まってアレがきて……。


「わかった?」


「あ、ああ……何となくな」


「うん……だからね……いっつもハルキを夢精させていたのは、私なの……」


 と言って、恥ずかしそうに顔を背ける遊子。


 まるで本物のサキュバスみたいだ……。


「……そ、そうだったのか」


 本当だとしたら、驚愕の事実なんだが……。


 しかし、現実的に考えてそんなことはありえない。


 遊子は、俺に夢精癖があることを知っていて、それを自分の仕業だということにして俺をからかっているのかもしれない。


 だとしたら、ちょっとは腹が立つ……のだが、もしそうだったらどんなに良いだろうかと、思ったりするところもあったりするのだった。


 もし、遊子が本気で自分のことを『サキュバス』だと思いこんでいるのなら、それは拒食症よりもヤバい病気……何らかの『心の病気』の可能性さえあるのだから。


「他にもね……わざとハルキのことを性的にからかって、ムラムラさせて……少しずつハルキの精を頂いていたの……知らなかった?」


「い、いや……知らなかった。そんな理由があったのか……」


 ヤバい。


 良くない意味でドキドキしてきた。


 話の内容がひどく具体的だ。


 やっぱり遊子は、深刻な妄想癖を患っているのかもしれない……。


「でも、そうやって私が精を奪っちゃうと、ハルキの生命エネルギーが損なわれて、トレーニングの効果が出づらくなっちゃう……だから私、しばらくはハルキの精を吸わないようにしようって、決めたの……。今はとにかく……ハルキにはムキムキになってもらわないとイケないから……」


「な、なるほど……それで今朝は飯抜きだったのか」


 きっと、俺が今朝は漏らさなかったことさえお見通しなのだろう。


 その時間は、遊子は寝ていたはずだが、一体どうやって見抜いたんだろうな。


 匂いとかでわかるんだろうか……?


「じゃ、じゃあ……これからどうするんだよ? お、俺以外の男の精でも吸っちゃうのか……?」


 とにかく今は、遊子の話に言葉を合わせる。


 俺の精を食べられないということは、別のとこから栄養素を奪ってこなくちゃならないだろう?


「し、しないよ! そんなこと!」


 すると遊子は、顔を真っ赤にして怒ってきた。


「え……なんでだよ?」


「な、なんでって!」


 さらにその場で立ち止まり、肩を震わせながら俺を睨んでくる。


「そ、それを言わせるの!? バカなの!? 鈍感にも程があるわよ!」


「えっ!?」


「このバカちん! バカバカちんちんーっ!!」


「う、うわわ!」


 さらに遊子は、ポカスカと俺の胸元を殴ってきた。


 なんだなんだ。


 俺は一体、どんな地雷を踏んだというのだ?


 まさか遊子……俺のことが好きなのか?


 だとしたら話の辻褄は合いそうだが……。


(い、いかん! 目を覚ませ俺!)


 そんな甘い夢を見てはダメだ!


 こんな可愛い幼馴染が、俺の嫁になるはずがない!


 妄想の甘さを上回る痛みに、いずれ必ず、打ちのめされてしまうだろう……。


「うあっ……」


「遊子っ!?」


 そのような妄想にふけっていると、またもや遊子がふらりとよろけた。


 俺はすかさず、その体を抱きとめる。


「あ……♡」


 まったく……腹ペコでプンスカするからだ。


「と、とにかく何か食べるんだ! 頼むから教えてくれ! お前の言ったこと、全部信じるから! だから、今お前が『一番食べたいもの』を教えてくれよ!」


「い、一番……食べたいもの?♡」


 その瞬間、遊子の目つきがさらに怪しいものになった。


 まるで、夢の世界に旅立ってしまったかのような……儚げな瞳。


 完全なる栄養失調だ――。


 今が昼間じゃなかったら、すぐにでも担ぎ上げて、ダッシュで家に連れて帰るところなのだが……。


「そ、そんなの決まっているじゃない……い、言わないとわからないの?」


「あ、ああ……! すまん! 俺ってお前の言う通り鈍感だから……はっきり言ってくれないとわからないんだよっ!」


 複雑な乙女心とかわかんないんだよー!


 しかも拒食症と妄想癖を多重発症しているともなれば……尚更だ!


「じゃ、じゃあ言うよ……? 一世一代の大告白なんだからね?」


「あ、ああ! 耳の穴かっぽじってよーく聞くよ!」


「2度も言わないんだからね!? 女の子に『それだけのこと♡』を言わせるんだから、覚悟して聞いて頂戴ね!?」


「ああ! わかった! わかったから!」


 さあ遊子、教えてくれ!


 お前は一体、今何を食べたいんだ!


「わ、私が今一番に……『食・べ・た・い♡』ものは……」


 ごくり――!


 俺は、幼馴染の唇の動きに、全神経を集中する!


「わたし……ハルキの『白子♡』が食べたい!」


「!?」


 まさかの魚介類であった……。


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