第15話 最後の世界で B

街をひたすらに走り続け、既に三十分は経過していた。蓄積されていく疲労が全身の重荷になる。肺も潰れそうだった。

対してあの巨躯は、疲労を一切感じさせなかった。

邪魔だと言わんばかりに通行人や露店を大剣で切りつけていく。

しかし妙だ。その切りつけたはずの物や人が瞬時に元通りとなり、何事も無かったように動いている。天使に世界を変えることはできない――とかだろうか。理由はわからないが、いつもでもこうして追いかけっこを続けている場合ではない。時間の猶予はあまり無いのだから。

周りを見渡し、機を伺う。

――ここだ。

思い切り体を捻らせ、前から九十度横へ。

しかしその隙を天使は見逃さない。右手がしなる。前までの露払いの振りなどではなく、純粋に殺すための攻撃。想像を絶するスピードに俺は目を疑った。

そしてその剣は、俺の右足を捉えた。一閃。銀色が赤に染まる。

「――痛ってええッ!!」

千切れてこそいなかったが。足に浅くはない傷を受けた。痛みで視界が揺れる。ドクドクと血が絶え間なく流れていく。

その場で倒れむ。俺は天使を睨み付ける。苦痛と恐怖で歪む信念を何とか保つための抵抗だった。

途端、天使は大剣を真上に振り上げた。一直線に刻むつもりのようだ。

動けと体に鞭を打つが、痛みに燃える脚が言うことを聞かない。無理だ。このままでは斬られる――。

衝撃。地を削る一撃が放たれた。

俺はいつの間にか小屋の中にいた。自らの意思ではない。誰かに引きずり込まれたのだ。

「息を止めろ」

 そう告げられ指示通りにする。天使は辺りを見渡した後、その場を後にした。危機は脱した。

「ありがとう」

「ほっほっほ、気にするでない」

 その声には聞き覚えがあった。老人だ。天使に囲まれ、その窮地を助けてくれたあの老人だった。俺の二つ分の命の恩人である。

「怪我してるようじゃな」

 老人は包帯を取り出し、慣れた手付きで俺の脚に巻いていく。

「あの、どうしてこの世界に?」

 こうして俺を偶然にも、いや偶然じゃなかったとしても、あの世界と今いる世界は別物である。老人がこの世界にいることさえおかしな話のはずだ。まさかカギを所有しているのだろうか。

「まあ、野暮用での。やらねばならんことがあるんじゃよ。君も、そうなんじゃろ」

「は、はい」

 はぐら返され、また心を覗かれたように言う老人に動揺しなかったと言えば嘘になる。一体、何者であるろいうのか。

「よしっ、これでいいじゃろ」

 老人は包帯を切り、立ち上がる。未だ脚に痛みはあるが、何もしないよりはマシなはずだ。多少動くには十分だ。

「あの、あなたは――」

 そう尋ねて、顔を上げれば、その姿はもう無かった。

 少しだけ、見覚えのある優しさ、いやお節介だったが、真相はわからない。

 ともかく自分は、動く他ない。


 街を歩き続けること数分して、辿り着いたのは切り立った崖だった。下を覗けば、落ちればとても無事ではいられない程の高さが目に入る。

「終わりだな、罪人」

振り返ると、そこには先ほどとは違う天使がいた。気配は一切せず、一瞬で背後に現れたかのようだった。

「諦めろ。もう逃げることもできまい」

「……どうだか」

 じりと下がると、石が崖を落ちていく。

「――理解ができないな。どうしてお前らはそう誰かにこだわる。あの女狐にしてもそうだ」

「シエラさんのことか」

「お前らは総じて愚かだ。下らないことに拘り、その脆い命を落とす」

「下らないっていうのが誰かを助けるってことなら、それはお門違いだ」

「ほう?」

「俺達は支え合わなきゃ生きてけない。そんな風に運命を作ったのはあんたらだ」

 俺は天使に指を向けた。

「せいぜい高みの見物してろよ。絶対に俺がシエラの運命を変えてみせるからさ」

 胸に唐突に衝撃が走った。ナイフだった。ナイフが俺の胸を貫いていた。

「だがここでお前は終わる。愚かなまま終わるのだ」

 俺の体が崩れていく。

 そのまま宙を舞って、落ちていく。


俺は崖の岩の壁に手を伸ばす。勢いを殺せるわけもなく腕を何度も弾かれるが、それでも俺は壁に手をあてる。

そしてその手は遂に何かを掴んだ。洞穴だ。

崖の壁には洞穴の抜け道がある。これはシエラの父が昔に作ったものだ。家から出るところを目撃されないよう、この道を通り街へと出るようにしていた。それがこの崖の場所だった。

体を何とか洞穴へと持っていく。

俺は胸に刺さったナイフを引き抜いた。あまり深くは刺さってないのが幸いだった。後ろを向いてもどうやら追ってはこないようだった。

もう日が暮れている。時間はない。僕は体を引きずるようにして、洞穴を進んでいった。


 *


「カギを盗み出したのは貴様だな」

「なんのことやら」

「とぼけるな」

カギが自分の手の内から奪われた今でもこの女は飄々としている。

「このカギを痕跡一つ残さず盗んだのは誉めてやろう。しかしカギを握ったまま部屋で立ち尽くしていれば、天使が駆けつけるのも当然というもの。貴様はそれすらわからなかったのか」

カギが何者かに盗まれた。そうなれば監視は強固になるというもの。それが予見できなかったわけではないだろう。

「……まあ少し迷ったのさ。自分のために使うのか、あるいは」

女はチラと紙をみた。次の魂の情報が載った紙だ。

「彼のために使うのかってね」

「その迷いが今貴様を死の淵に立たせている。愚かだと思わないのか」

「愚かも愚かさ。所詮人間だしね。高尚な神様や天使様には人間の道理は理解できませんよねー」

この女、裁きを待たずここで殺してくれようか。

「そんな天使様に一つ提案があるんだけどさ」

「何だ」

「協力しない?」

「人間風情に貸してやる手などない」

「上手いこと運べば――神を欺くチャンスだよ」

私はそこ言葉に身を固めた。

「大天使様は日々神にこき使われ憤りを感じている。この情報に狂いはないみたいだね」

「貴様……」

 確かに神の傲慢さには腹立たしく感じていた。欺けるものならこの手で実行している所だ。しかしそれは敵わない。神は全ての生命の頂点。反旗を企てることすら無意味だろう。

「そして叶うことなら神に報復をしようと企んでいる。これは果たしてガセなのかな」

私はその瞬間女を押し倒した。首元に剣を突き付けて。

「怖い怖いねー。でもいいのかな。私を殺せば、君は目的を果たせないままだよ」

「……」

私はゆっくりと女から離れていった。

「どんな手段を使うのだ。力では奴らには勝てんぞ」

「自分の主君を奴ら呼ばわりかい。――方法は単純。運命を拗らすんだよ」

「運命を?」

「うん、この真人って少年がいるんだけどさ」

女は紙をその手に持って私に見せる。

「この子がきっと運命を変える。神は運命の辻褄合わせに奔走することになる。どうだい?悪いものではないだろう」

「可能なのか?」

「もちろん!」

そう言って女は笑った。癪ではあるが、これもまた一興と考えた。


だが、私は失望した。

「あんな男に運命を変えれるものか」

何とも情けない。運命を変える。その動機が惚れた女を笑わせるだと? 下らない。

「あの女狐の狂言にのった私も愚かということか」

「ほほほ、そんなことはないぞ」

しわがれた老人の声がする。振り返ると深くローブを被った老人が髭をなぞっていた。

「何だ貴様は」

「なに、その女狐とらやの協力者じゃよ。君とお仲間じゃ」

確かに話に寄れば仲間が一人居るとも聞いていた。それがこの男か。

「愚かではない。彼を逃がしてくれたのは英断じゃよ。彼は、運命を変えて見せる」

「どうだろうかな」

「時期にわかるじゃろう」

老人はまた一たび笑い声を上げながら去っていった。

「……さて」

私の役目はもうない。天界へ戻るとしよう。

どこまで足掻くのか、見せてもらおうじゃないか。


 *


壁に耳を当てる。声が僅かに聞こえてくる。シエラの声はしない。男が少なくとも三人というところか。

腰の銃を探る。ハンターのアジトから奪ってきたものだ。――行こう。

心臓が煩く波打つ。全身に血が巡り、熱が体に宿る。

その壁を打ち開けた。

「なんだ?」

ここは吹き抜けた広間だ。広間に二人、二階に一人。ちょうど射線が通る。

俺は体目がけ引き金を引いた。

爆音。凄まじい勢いに腕が後方に持っていかれる。自分こそ方に弾丸を当てられたようだ。

「ぐおおっっ、あのガキ!」

「こっちにこい! おいカバーしろ!」

「はいよ」

太った男の腹に弾は命中したようだ。初めてにしては上出来ではないか。

太った男は帽子を被った男に引っ張られ、壁へと隠れこむ。それに合わせ二階の細身の男が発砲してくる。

俺は咄嗟に後方へと下がる。あの場所へ立ったままだと、絶対に死んでいた。

「誰かは知らないが」

帽子を被った男が話しかけてくる。

「それは俺らの銃だ。どうしてそんなもん握ってる?」

「……」

「やめとけ。見たとこ人を殺したことのない青坊主だろ」

「お前らは俺の大切な人を殺す。動機ならこれで十分だろ」

「へっ、そういうことかよ」

帽子の男が駆けてくる。俺は顔を出し狙おうとするも、細身の男に発砲され、身を引く他できない。

気づけば手を伸ばせば届く距離まで接近を許していた。

「残念だったな」

しなるような脚で簡単に俺の手が弾かれる。衝撃で銃を手放してしまう。

「へへっ、あばよ」

銃口がこちらに向いている。火薬の匂いを仄かに感じる。

まだだ。まだ終われない。

俺は夢中で紙を投げつけた。男は顔を逸らさざるを得ない。ここだ。今しかない。

銃が二発放たれる。一発は右足に、もう一方は腹を撃ち抜かれた。でも、俺の脚は止まらない。止まるわけにはいかない。

俺は腰からナイフを抜き取る。天使に刺されたあのナイフだ。男はナイフを隠し持っていることに気づかず、虚を突かれた様子だった。

そして、刺突。男の腹部へめがけたナイフは深く突き刺さった。

「ぐっ……」

肘うちで僕の背中を打撃するが、その力は弱い。

俺は男と共に床に倒れこみ、何度も何度もナイフを刺していく。赤黒いものが溢れ止めどない。抵抗する力も徐々に失っていく。

これでお仕舞だと言わんばかりに、俺は心臓へとナイフを刺した。

それきり男はピタリと動かなくなった。

終わった。あとは二人だ。

そうして、顔を上げたとき、その男たちの姿は無かった。逃げたのだろうか。

でもその代わりに眼前には彼女が居た。シエラだった。赤い目を丸めこちらを見ている。

「シエラ……!」

本来ならシエラはここで死んでいたはずだった。でも今こうして生きている。

運命に、勝ったのだ。


男が立っている。血だらけになって立ち尽くしている。その床に倒れているのは、彼だった。

彼は激しく痙攣し、腹部に刺さったナイフに手を伸ばそうとするが、いずれ力が抜けて潰えたのがわかった。

何故彼がここに居るのか。何故こんなことになっているのか。そんなことはどうでもい。考えるべきは、彼があの立っている男に殺されたということ。動くべきは、今すぐあの男を殺すべきだということ。

そう思うと自然と力が湧いてくるような感覚がした。血が滾るような、そんな感覚。自分の中に眠っていた力が自分の身を突き破るかのように溢れ出てくる。

私は脚に力を込め、男へと飛んだ。反動で床が割れたのがわかる。

吸血鬼のハーフである私には、こんな力があったのだろう。父さん、母さん。ごめんなさい。私は吸血鬼の血を持って、人を殺します。


シエラの姿が変貌した。爪や歯が尖り、体が一回り大きくなる。眼光は僕を見つめて光る。その中に現れたのは憎悪と殺意だ。僕を間違いなく、殺そうという意思だ。

シエラが飛び上がる。腕が伸び、僕の首を締める。抵抗の余地もなく壁に叩きつけえられる。

首が締め上げられる。体が地面から離れていく。

そうか。そりゃ、そうだよな。シエラにとって大切だったのは、吸血鬼ハンターの男だったのだ。僕が救いたかったシエラを虚ろにしたのはあの男であったのに、今のシエラを虚ろにしようとしているのは、他でもない僕なのだ。

これが運命だというのか。血を流し、命を燃やした僕を、あざ笑っていたのか。

もう――いい。もう十分だ。

僕に救えるものなど、一つとして無かったのだ。シエラも、姉さんも。

悔いが全く残らなかったといえば嘘だ。だがそれが運命なのだろう?ならば――これでいいのだ。

息ができない。力が抜けていくのがわかる。意識が遠のいていく。

僕はゆっくりと、目を閉じた。


男が目を閉じた。男がずっしりと重くなった。自重を支えていないことがわかった。死んだ。この手ではっきりとわかった。

手を離す。地面にその体が落ちていく。

殺した。殺してしまった。だけどこれでいいんだ。

彼を見た。彼ももう息絶えていた。そこで気づいた。手元に何かが落ちている。銀色に光る何か。これは――。

突然扉が開け放たれる。青いローブを着た老人が見回して入ってくる。

私は自分の力が抑えきれなかった。殺したい。そんな欲求だけが頭を埋めている。

老人の元へ駆けていく。その手が老人に伸び――私の体が宙に浮いていた。

何が起こったのだろう。狙いが逸れた?

もう一度飛びかかかる。しかしまたその手は空を切る。

往なされている。力を全く使わず、代わりに私の力を利用して往なしている。

強い。直感でわかる。三度攻めようとした時、老人の手が私の肩に伸びた。

私の体が弾かれたように飛ぶ。肩が焼けるように痛い。それだけじゃない。右手首と左脚にも同じ痛みがある。一瞬で私の体を三回も撃ち込んだのだった。

動けない。鉄にでもなったように四肢が言うことを聞かない。

「しばし待っておれ」

老人があの男の元まで歩いていく。膝をつき、ローブをめくった。

「――ごめんね、真人」

そう呟いた。

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