第35話 正義

「勇士、私はな――――お前を愛していたのだよ」


 麻央の明確な『愛』という言葉に、勇士は今度こそ口をあんぐりと開けてフリーズした。


「ふふっ。声が出ないか。それもそうだろうな、突然のことだ」


「い、いいい、いやっ!? 嘘つけッ!! そ、そんなわけ……!!」


 有り得ないと手を左右にパタパタと動かしあたふたと取り乱す勇士に対して、しかし麻央はゆっくりとかぶりを振る。


「立場は違えども、お前の瞳は正義に満ちていた。私が幾度となく困難の道に落とそうとも這い上がり、愛する王国や友のために命を賭してめげることなく立ち向かうレイシアという女に、いつの間にか私は惚れていたのさ」


 そして麻央は自然な動きで勇士の手を取り、言葉を続ける。


「最後の一騎討ち、私は必ず勝つつもりだった。私の前に膝を着いたお前を、私が愛したお前のまま、美しい正義を抱かせたままに殺そうと思っていたのだが……お前は私の予知すら超えた『愛』を見せたな」


 麻央はおかしそうにフフッと笑うと、取った勇士の片方の手の甲を自身の胸へとあてがった。


 そこはちょうど心臓の辺り、トクンという鼓動が温かな麻央の体温とともに、手先を通じて勇士に伝わってくる。


「死の間際、私が倒れれば魔王軍は崩壊すると悟っていたにもかかわらず、何とも言えぬ痛快な気持ちだったよ。それは私の愛はやはり間違っていなかったと証明されたような、そんな気持ちだ。死してなお、私はレイシアに惚れ直したんだ」


 言葉と鼓動を通じて、麻央の偽りない想いが胸へと流れ込んでくる、そんな錯覚さえ勇士は抱いた。


 トットットッと小刻みに、勇士の薄い胸板を内側から叩く音がする。


「だから勇士、この世界でお前が愛されることがないと嘆くのであれば――私が愛そう」


 麻央は自身の胸に当てていた勇士の手を、左右の手で包み込んで言葉を紡ぐ。


「だから、どうかこの世界に絶望しないでくれ。あの時レイシアとして心に抱いた愛を、レイシアとして受けた愛を忘れないでくれ。きっと幸せだったろうお前の過去を見捨てないでくれ。そしてその記憶を胸に、この世界でも幸せに生きよう」


「お、俺は……」


 勇士は麻央に包まれていないもう片方の手で、今や高鳴る自身の胸をギュッと掴んで逸る気持ちを抑えつけると、言葉をこぼす。


「それで、いいのかな……。そこに、正義はあるのかな……?」


 そして逡巡しゅんじゅんしながら、目の前で勇士を見つめる麻央に問った。


「俺を産み落とした母さんから目を背けて歩く俺の人生に、本当に正義はあるのかな……?」


 この世に唯一の肉親である母親とともに幸せを見つけることを放棄して、自分だけがその愛に縋ることは正しいことだろうかと、勇士は迷う。

 

 しかし麻央はそんな悩みを軽いものだと言わんばかりにフフッと笑った。


「生きていればこれからいくらでも正義はできるさ。どうしても今すぐ必要だと言うのであれば……そうだな、この私を愛せばいい」


「――……はっ!?」


 予想外のその言葉に勇士は目を点にするが、麻央はそんな反応が期待通りだったのか押し殺したように笑うと話を続ける。


「一度昔語りをして話したことがあったな。『正義なんてこの世にはない。それは立場によって異なるものだから。だが、それでも絶対不変の正義は1つだけある』と。それが――『愛』だ」


「あ、『愛』が『正義』……?」


「そうだ。愛する者を守るために立ち上がる心は正義だ。それがどんな立場にいる者だろうと、『愛』に報いようとする行為は必ず『正義』になる。例えばそれが全世界の人々を敵に回すような行為でも、それが自身の愛するもののための行いならば、それはその人にとっての唯一絶対の『正義』だ。」


 麻央はふざけるような笑みを消して、真摯な表情で勇士へと語る。


「一般的な『正義』の尺度で自分の判断の是非を計るなとは言わない。しかし、それが絶対だと思うのは良くないぞ。最後は自分が胸に抱く愛のためには何が一番の選択になるかを問うんだ」


「愛のために……問う……」


「そうだ」


 深く頷いて一呼吸の間を空けて、麻央が言う。


「だから勇士、人を愛せ。私を愛せというのはほんの冗談みたいなものだがな。それでも『人を愛する』ということ、それがきっとお前の『正義』のしるべになる」


「……!」


 その言葉を聞いて、スゥッと勇士の胸に爽快な風が通り過ぎた気がした。


 正義とは法的に、そして一般的に正しいとされることを貫き通すことばかりだとそう思ってきて、だからこそ実の母親を置いてきぼりにすることが許されることじゃないと、そう勇士は考えていた。


 でも、そうじゃない。


 自分自身の愛情に嘘を吐かずに貫き通すこともまた『正義』だと知って、実の親よりもクラリスや篤たち、それに麻央への強い想いを優先させてもいいのだと悟った。


 瞬間、心がフッと軽くなる。


 それが自分の気持ちを縛り続けていた『家族だから』という鎖が断ち切られたからなのだと、勇士にはわかった。


 穏やかな微笑みを勇士が浮かべると、麻央もまた同じような表情で応える。


 温かな雰囲気で満ちたそんな空間を、しかし。


「――――あっはっはっはっはッ!!!」


 切り裂いたのは床で座り込んで高笑いする勇士の母――涼音だった。


「くだらない、くだらないんだよ」


 ドロドロと濁った眼を2人へと向けて、涼音は重ねて言う。


「くっだらねぇ……そんなままごとみたいな愛なん――!?」


 が、しかし。再びその言葉は最後まで口に出されることはない。

 

 それは3度目のビンタによってではない、涼音はガチガチと歯を鳴らして、床へと座り込んだまま後ずさっていた。


「黙っていろと言ったし、それにお前、私の話を聞いていたか……?」


 針の刺すような気配が病室へと立ち込めている。


 ――それは、麻央のものだ。


 そしてその麻央の眼光は涼音を縫い付けるように貫いて、涼音が自分から視線を逸らすことすら許さない。


「それとも私の胸の内の『正義』がまだ見えないか……? 私はにここまで来たのだ。これ以上勇士の前で腐った言葉を吐いて苦しめようとするのであれば、この『愛』ゆえに、私はいつでもお前を殺す準備ができているぞ……?」


 そこに込められていたのは圧倒的な殺気。


 オブラートにすら包まれない、勇士を袋叩きにした男のものとはまるで比べ物にならない気迫が明確に向けられて、そのために涼音はどんな二の句も継げなかった。


「――――ひぃぃぃいぃいっ!!!」


 立たない腰をそのままに、四つん這いで病室の外へと駆け出していく母親を、勇士と麻央はただただ見送る他ない。


「フンッ」


 麻央はその後姿に不機嫌そうに鼻を鳴らすと、それから「はぁ……」とため息を吐いて勇士に向き直る。


「これはもう見舞う雰囲気でもなくなったな……今日は私もこれで帰るぞ」


「あっ……えっ?」


 麻央はそう言うと、これまで大したことなど何も起こってはいないといったように背を向けて病室の入り口へと向かって歩いて行く。


「勇士、これからはあんな母親の気まぐれに付き合って自分の命を粗末にするんじゃないぞ? じゃあ、それではな」


 途中で振り向いてそう言葉を残すと躊躇ちゅうちょなく戸に手を掛ける。


「えっ? ちょっと、待てよ……」


 だから、勇士は思わずそう呼び止めてしまった。


「ん? なんだ……?」


 振り返る麻央に対して、しかし勇士は次にかける言葉を用意できていない。


 色々と聞きたいこと、話したいことはたくさんあった。


 そして咄嗟に、高鳴りっぱなしの鼓動に押されて勇士の口から出たのは。


「つ、つまりさ……麻央は俺のこと、のことも好きなの……?」


「……………………」


 そんな、問いだった。


 そしてその瞬間に室内へと無音がキーンと響く静寂が広がった。


「い、いや、その……前世でレイシアとして俺をその……あ、愛してくれてたっていうし、それにこの世界の俺のことも、あ、ああ愛してくれるっていうことはさ……、つまりそれって…………?」


 ――あれ、おかしい。


 それはきっと聞きたいと思って、数ある疑問の中から一番に聞きたいと思ってこぼれた言葉のはずなのに、勇士の視線はいつの間にか天井へと向いていた。

 

 焦ってか、段々と顔が熱くなる。


 途切れ途切れにボソボソとしか出ない言葉が鬱陶しく、最後に半音上がったような疑問形の言葉が、我ながら堪らなく感じる。


 ――意気地ない……? そうだ、意気地ないのだ。


 だってもう、きっと俺にはわかっている。


 この気持ちの意味を、高鳴る鼓動の原因を、ちゃんと理解しているんだ。


 しかしそんな自分の気持ちにどう素直になればいいのかわからずに、勇士が額に汗をかいて頭を悩ませていると、麻央がくるりとこちらに向き直る。


 ドキリとした。


 そして表情を変えぬままにツカツカと歩み寄り、熱暴走中のコンピューターのような状態の勇士の目の横に再び立つ。


「……そういえば見舞い品を持ってきたのに渡すのを忘れてたな」


 そう言って麻央は肩にかけていた少し大きめのポーチをガサゴソとして、そして取り出した何かを勇士の布団の上、太ももの辺りに乱暴に置く。


「フ、フンッ! 精々早く元気になることだっ!!」


 麻央は怒ったような口調でそれだけ言うと、すぐにくるりと背中を向けて足早に病室から出て行った。


 そうして部屋には勇士だけが残される。


「…………えっ? 結局どうなのさ、これ……?」


 唖然となっていた状態から復活した勇士は、誰もいなくなった病室の入り口に向けて、そう呟いた。


 それから遅れること数秒、ハッとなる。


(俺はその答えを聞けたとして、どうするつもりなんだ……?)


 何も考えずに発していた問いに、勇士は今さら困惑を隠せなかった。


 ――ひとまず、これで良かったのかもしれない。


 これでもし答えが返ってきていたら、自分の中で持て余される感情にきっと振り回されて疲れてしまうに違いないと自分を納得させることにする。


 勇士はそうやって気持ちを切り替えると、最後に麻央が勇士に渡して帰っていったものに視線を落とした。


 それは近所のスーパーで買ったものなのだろう、どこかで見かけたような店名のロゴの入ったビニール袋に包まれている。


 勇士はその中身を取り出して、息を吞んだ。


「これって……!」


 透明なカップから透けて見えるのは鮮やかな黄色の中身。


 そしてデフォルメされたヒヨコのイラストが描かれたビニールの蓋に、白抜きで書かれた商品名は――『タマゴプリン』。


 それは前世のあまり明るくない食糧事情の中、反攻軍の食堂で稀に出てくる唯一のスイーツであり、そしてレイシアが一番好きだった甘味だった。


 勇士はペリッとその蓋を開けて、袋に一緒に入っていたプラスチックスプーンでそれを口に運ぶ。


 素朴な素材の甘さ。


 懐かしさと、そしてもっと別の感情に胸が温かくなる。


 もはやその感情に自分自身を誤魔化す気はなくなっていた。


 だから気になるのは麻央が結局今の勇士をどう思っているか、それだけだ。


 麻央に出会った当初は、その少女の胸の内にどれだけの企みがあるのかがわからなくて、頭を悩ませる謎ばかりだったいうのに。


「――フフッ」


 その落差に勇士は1人で噴き出した。


 なんて清々しい気分なんだろう、今日という日は。


 しかし、それにしてもだ。


「――俺を『救うために来た』って。やっぱりお前、あの時嘘を吐いてたんじゃないか……」


 窓の外を眺めて、勇士は麻央との転校初日のやり取りを思い返した。


 見慣れて飽きたはずの景色がなんだかこれまで以上に色づいて見える。


 その季節外れにも夏の訪れを感じさせるような近くて澄み切った青空と、そして緑鮮やかな木々が輝かしい今日のこの風景を、決して忘れたくないと、勇士はいつまでもその目に焼きつけていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る