第34話 愛

 不敵に佇む麻央、床へと倒れ込む母親、その光景を目前にして勇士は絞められたことで痛む喉を押さえながらも麻央へと疑問をぶつける。


「麻央……お前確か、篤たちと昼過ぎに来るって……」


「フン。探し物をしてから来ようと思ったのだが、それが予想外に早く見つかってしまってな。彼らをただ待っているというのも手持ち無沙汰だったから、先に来てしまおうと思ったまでだよ」


 何でもないようにそう答えた麻央は、それから目の前で頬を押さえながらむくりと起き上がる勇士の母親へと目を向けた。


「自分の息子の首を絞めるとは、救えない母親だな。貴様は」


 年相応の話し方を捨てた勇士に向けるようなその口調はしかし、勇士に対してのものとは決定的に違った『敵意』というものが明確に含まれていて、母親はその圧力に「ぐっ……」とたじろいだ。


 恐らくビンタだろう一撃をもらった頬の痛みに、それだけで力の差があることを思い知った母親は心臓を突き刺すような負の感情に拳を握り締めた。


 ――相手は小学生、それも男子じゃなくて女子なのに。


 それなのにも関わらず自分はそんな子供に張り倒された挙句、怯えているのだという事実がどうしようもなく母親を悔しさが責め立てて、それが言葉となってこぼれ落ちる。


「――ズルいのよ、お前たちばっかり……!」


 一度言葉にすると、それは心のせきを切って口から溢れ出す。


「子供だからって何の責任も持たずに、タダで飯を食って寝て、昼間は遊んで……! なのに親の私は、やりたくもない仕事をしてお金を稼いで、それでお前たち子供を養う義務があって! それが嫌で逃げれば罪になって、だからその中で自分の幸せを追い求めようと思えば今度は邪魔されて……!」


「……ッ」


 勇士の母親は、こちらを見据えたままポタポタと大粒の涙を拭いもせず頬に伝わせる。


 顎から床へと次々にしたたるそれを止める者は誰もいない。


 勇士は自分の手元に視線を落としてグッと唇を噛み締める。


 そのあまりにも痛ましい光景は、自身が母親に求めてしまっていたものとは全く正反対の哀れな姿で、勇士にとって直視に耐えられるものではなかった。


「それじゃあ私の人生ってなんなのよっ!?」


 母親は声を涸らして叫ぶ。


「もう終わりなのッ!? お前を生んだからもう終わりなのかッ!! そんなのってない、そんなのってないよォッ!!! 誰もそんなこと私に言ってくれなかった!! 教えてくれなかったッ!!」


 初め勇士たちに向けていた言葉はいつの間にか誰に対してのものなのかまるでわからない、当てのない悲鳴のような怨み言へと変わっていて、しかしそれでも勇士の心に大きな衝撃を打ち付けていた。


 それはやはり自分が生んだことがすべての間違いの始まりだという後悔を、血の繋がった唯一の家族に突き付けられていることに他ならなかったからだ。


「私が……私が悪いんじゃない、私だけが悪いんじゃないッ!!! だって、こんなことになるなんて知っていれば、そうだと知ってれば最初から、」


「――もういい、ちょっと黙っていろ」


 しかし、そのどれだけだって続きそうな悲痛の叫びを麻央は有無を言わせぬ一言ですげなく止めてしまう。


 冷たく突き放すようなその言葉に一瞬母親は激情を起こしかけたが、しかし麻央の鋭い眼光がそれを許さずに母親は項垂うなだれて口をつぐまざるを得ない。


 そして麻央は未だ視線を手元に落として戻せない勇士へ向き直ると、とても淡々とした口調でなんでもないように言う。


「こんな親ならば、お前から捨ててしまえよ、勇士」


「なっ――」


 そのあまりにも直接的な言葉に勇士は息を吞む。


「お、俺に、たった1人の肉親を……たった1人の血の繋がった母親を捨てろって言うのか……?」


「そうだ」


「む、無理に決まってるだろ……そんなこと」


「なぜだ? お前を殺そうとさえする親が、そんなに大事なものか?」


 淡々と、一抹の疑問さえ感じないようにキョトンと訊ねる麻央に、勇士は唖然としつつ当然だとばかりに応じる。


「だってお前……! 家族っていうのは大切なものだろう! 麻央だって誕生日パーティーのあの日、父親と母親と一緒に楽しそうに、幸せそうにしていたじゃないかッ!!」


 麻央は自分を引き合いに出されたことに一瞬驚きはしたものの、先週の自身の誕生日パーティーの光景を思い返して「ああ、それでか……」と納得したように言葉をこぼした。


「あの日お前が私たち家族を眺めていたのはそういうことだったんだな……」


「そうだよ……ッ! あんなに温かで幸福な家庭で、羨ましいと思った! 俺の家もそう在れたらどんなに良いかって、どれだけ考えた事か……っ!」


 シーツをギュッ! と握り締めて、勇士はそのかつての願いを苦しそうに吐き出し、そして麻央へと問いかける。


「麻央、そんな幸せな家庭に身を置いていたお前ならわかるだろう!? 家族とは愛すべきものなんだって。お互いに愛を与えて生きていくものなんだって。それをお前は、そんなに冷たく『捨てろ』って言うのかよ……ッ!?」


「――わからないな」


「えっ……?」


 勇士の渾身の問いを、しかし麻央は一言で切り伏せる。


 それは肯定以外を許さないもののはずだった。


 幸福に身を置いて愛を満喫する恵まれた立場の麻央に、勇士が家族へと抱く希望を捨てろなんて言えるはずもないとそう思っていたのに、だ。


「親と子が『お互いに愛を与えて生きていく』……? それは違うぞ、勇士」


「な、何が違うって言うんだよ……」


「親子の愛は、子供にとって『受ける』ものだ。親へと『与える』ものじゃない」


 その言葉に勇士は声を失う。


 麻央は勇士の目を覗き込んで、視線を放さない。


「その愛とは力があって初めて人に与えることのできる強さだ。力には色々とある。決して腕力だけじゃない。社会的・経済的な力を含めて、相手を多くの障害から守ることのできる力だ。だからそれは決して子供がその親に与えることのできるものじゃない」


 勇士に向けてそこまで一息に話した麻央から、勇士は逃げるように視線を背けて、そして室内にいるもう1人へと移す。


 そこには未だ憎々しげに勇士と麻央の姿を眺める自身の母親の姿があった。


 ――子供にとって愛は『受ける』もの?


 力のない子供には、親へと愛を与えることができない?


(そんなこと、全部、全部わかってたさ……)


 自分が横にいることが母親の幸せにも慰めにもならないことくらい、喜ばせることや守ってあげることができないことくらい、これまでにいくらだって痛感してきた。


 それでも――


「――だったら、だったらどうしろっていうんだよ! 」


 勇士は再び麻央へと目を向け直したかと思うと、そう叫んでいた。


「家族がいるのに、親がいるのに『受ける』愛がない俺はッ!? 『与える』ことのできない俺はッ!?」


 それが唯一絶対の正義だと信じてきた親を守ること――『親へと愛を与える』こと、それすらも否定されて、それじゃあ自分はこれからいったい何をしるべにしたらいい?


 あれほど家族に焦がれたにも関わらず、遂に得ることのできなかった前世の自分レイシアに、今の自身の親を愛することもできない勇士がどうして顔向けできる?


「――こっちから願い下げだ……ッ!!」


 その時、勇士と麻央の間へ、甲高かんだかい声が飛んで割って入る。


 勇士の母親が未だ床に座り込んだ状態で、しかし荒げた声を勇士へと向ける。


「お前なんかに愛される? ごめんだよッ!! お前なんかとっとと――ゥッ!?」


 しかしバチンッ! という強烈な音とともにその声は全て言い切られる前に途切れ、母親は再び床へと伏せっていた。


「黙っていろと言ったハズだ」


 どんなフットワークをしているのか、いつの間にか勇士の母親の真正面へと移動した麻央が再び容赦の無いビンタでもって、無理やりに黙らせたのだ。


「お、おい……」


 さすがに行き過ぎだと訴えかけようと麻央へ声を掛けるが、しかし「フンッ」と鼻を鳴らした麻央によってそれも遮られる。


「こいつは関係ない、第三者だ。私はこいつに向けて話しているのではない、勇士と話しているんだ」


 そうやってまるで無関心そうに床に倒れた母親を一度見やると、それから勇士に向き直る。


「勇士、私はな――に、必ずしも自分の心を、そして幸せの在り方を預けなければならないだなんて思っていないんだ」


「それは……どういうことだ……? だってお前、あんなに……!」


 麻央の言葉が、彼女の家族との温かな関係を見た勇士には信じられず、思わずそう問い返す。


 すると勇士の困惑に合点がいったのか、麻央が補足しつつ言葉を続けた。


「もちろん、私は今の両親のことを大切に思っているさ。ただしかつての魔王には家族はいなかったが、しかしそれでも充実した一生だったのだ。そこに後悔はない。それはレイシアおまえもそうだったのだと思っていたのだが、違うのか?」


「それは……」


 勇士は自分の胸に問う。


 かつての人生はいったいどのようなものだったろうかと。


 レイシアは家族こそいなかったものの、それでも精一杯に毎日を過ごし、そして使命感に心を燃やして生きていた。


 確かに麻央の言う通り、その生き方には今も過去も、勇士は後悔なんて1つも感じてはいない。


「なぜ後悔なく、充実した日々を送れたか……その理由はれっきとした『愛』があったからだと、私は思う」


「『愛』が、俺に……?」


「そうだ。レイシアは王国を愛し、その民を愛し、反攻軍の同僚を愛して、それを自身の正義の力にして我々に立ち向かってきたじゃないか」


「……!」


 勇士は思い返す。


 レイシアは家族の愛に恵まれず不幸だったのだろうか。


 ――いや、違う。決して不幸ではなかった。


 自分を無条件で温かく包んでくれるような家族がいないことを悲しんだことは確かにある、しかしだからといって決して1つの報いもない人生だったとは思えない。


 私は王国の、自分の両の手が届く限りの多くの人々の幸せを願って、力を振るっていた。


 そんな私を王国の民は励まして、反攻軍の同僚たちは全幅の信頼を寄せてくれて、クラリスは親友として常に私に寄り添ってくれた。


 それは親子の愛と形は違えど、それでもやっぱり自分を想う愛には変わりない。


 ――それはとても、幸せな人生だったじゃないか…………!


「だからな、勇士。家族のものであろうとなかろうと、人とは愛さえあれば前を向いて生きていけるんだと私は思う」


「そうだ、な……」


 かつての自身の人生を省みて、勇士はその言葉に深く頷いた。


「俺は、みんなに愛を受けていたんだな……」


「きっとそうさ」


 麻央の言葉とともに、開け放していた窓から病室に新しい風が舞い込んで室内の空気を入れ換えていく。


 家族への愛という名の鎖に縛られて、勇士は大事なものを見落としてしまっていたことに気がつくことができた。


(そうだよな……。幸せの形はいくつもあったんだ)


 家族から愛されなければ、家族を愛さなければ幸せになれないなんてことはなかったと、勇士は前世の記憶の自分とその周囲の人々へと想いを馳せる。


 自分も人々も笑い合って時には泣いて、そしてお互いを励まし合って、とても充実した日々が確かにそこにはあったのだ。


 そんな中で麻央がゆっくりと、吹き込む風に髪をたなびかせながら勇士の元へと歩み寄り、そして口を開く。


「――勇士。王国の人々を愛し愛されたレイシアの側には、魔王の愛もまた共に在ったのだよ」


「ああ、そうだな――って、えっ?」


 穏やかに言い聞かせるような麻央の口調へと反射的に頷きかけた勇士だったが、その内容が頭に入った瞬間、勇士は我が耳を疑った。


「い、今……なんて…………?」


 有り得ない言葉を聞いた気がして、それが聞き間違いではないかと、勇士は目を見張って麻央を見た。


 そんな勇士に麻央はいつものように薄く笑ってそれに応える。


「勇士、私はな――――お前を愛していたのだよ」

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