第33話 母親

 ちゅんちゅんと、外でスズメが一羽鳴いて飛んでいくのが見えた。


 目に染みるような青空が広がる窓の外の景色を、勇士は真っ白なシーツでくるまれた病院のベッドの上で、身体を起こした状態で座ってボンヤリと眺めている。


 今部屋の中には絶賛入院中の勇士以外誰もいない。


 個室部屋のため、開け放った窓から入ってくる風がカーテンレールを揺らすカチャカチャという音以外はとても静かなものだ。


 勇士は目を瞑って何度目かの感傷に浸る。


 ああ、終わったんだよな、と。


 ――警察も救急車も出動するという大きな騒ぎになった男との取っ組み合いの日から、今日ですでに3日が立っていた。




 あの日、勇士は途中で意識を失ってしまったため詳しい話は人づてでしか聞けていなかったのだが、あの騒ぎの後も面倒ごとは続いたらしい。


 まず現場の被害の状況から被疑者がいったい誰なのかが外目で判断がつかず、駆けつけた警察の人がオロオロしていたと、昨日お見舞いに来てくれていたジャスティス団の面々のうちの麻央が言っていて、その隣で篤も疲れたため息を吐いていた。


 大きな怪我を負っていたのは勇士を除くともう1人、くだんの男だ。


 何でもあれだけ蹴り回されていた勇士を超えるほどの全身打撲で、全治1か月強の絶対安静状態だそう。


 篤ときららは軽傷は負ったものの病院で診てもらうほどではなく、口々にお互いの武勇伝を語り合い、時折「麻央の最後の一撃はやばかったな、あまりの速さに手が見えなかったぜ」と秒を追うごとにボロボロになっていく男の様を思い返してか、ブルリとその身を震わせていた。




 ――そうやって笑顔と温かな賑やかさに包まれたこの個室部屋だったが、今日、土曜日の昼前のこの時間帯は一転して静寂そのものだった。


 確か篤たちは今日もお見舞いに来てくれるって言ってたっけ。


 入院生活も今日で4日目、最初は新鮮だった窓の外の眺めもさすがに見慣れてきて少し飽きてきた頃だった。


 だからそうして暇を持て余していた勇士の耳に突然、個室のスライドドアがガラっと開く音が聞こえて、もしや篤たちかと少しの期待を胸にして勇士は振り向く。


 そして目の前に立っていたその人を見て、勇士の時間が凍った。


「母――さん」


 開け放ったドアへとできた風の通り道、窓から一陣の風が室内へと吹き込み白いレースのカーテンをバサリバサリと揺らして、そして首筋に浮き上がった冷や汗を冷たく撫でる。


 勇士が入院してからというものの、これまで決して病室まではやって来なかった母親がそこにはいた。


 彼女はベッドの上で身体を起こす勇士を認めると、ツカツカとヒールを鳴らして歩み寄るとベッド脇へと立ち、勇士を見下ろした。


 必然的に勇士はその姿を見上げる形になったが、勇士はその母親の顔に驚いた。


 ――それは恐ろしい表情で、かつて勇士の見たことの無い母の一面だった。


 警察からの呼び出しに聴取、それに伴う仕事への影響、さらには家の後片付けなどもろもろが大きなストレスになっているのだろう、彼女は目の下に大きな隈を作っていて、寝不足に血走る目が酷い形相を作っている。


 しかしそれだけではない。


 勇士にとって本当に恐ろしかったのは母の顔などではない、眼だ。


 今までまるで関心の光を見せなかった母のその瞳には、今や勇士がありありと映されているのがわかる。


「勇士、アンタ……」


 何年振りかの母親の口から発せられる自分の名前に、勇士の身体が揺れた。


 しかしそれは決して感動に打ち震えて、などでは決してない。


 母親の眼からは確かに無関心さは感じなかった、しかしそれよりももっと酷い。


「……アンタ、何をしてくれてんのよ……ッ」


 ガコンッ! と母親の足がベッド脇の木棚を蹴飛ばして、鈍い音を病室内へと響かせる。


「アンタのせいで、康弘さんが逮捕されるわ、職場に警察から電話がくるわ……!! もう、最悪……ッ!!」


 そして敵意をあらわにした鋭い視線で勇士を睨むと唾を飛ばしてまくし立てる。


「何なんだよ、お前はッ!! 私に何かの恨みでもあるのかッ!! いつもいつも私の邪魔ばっかりしてッ!! お前がこれまで生きてこれてんのが誰のおかげかわかってんのかッ!? なぁッ!?」


 ヒステリックに叫んだ勇士の母親は、ただただその様子を圧倒されたように自身を見上げるだけだった勇士を見て、今度は金切り声を上げたかと思うと勇士の髪の毛を鷲掴みにして力任せに自分の方へと引き寄せた。


「私が誰と付き合おうが勝手だろうがッ! お前が何を警察に吹き込んだか知らねーがイチイチイチイチうるさい奴らだクソどもめ……ッ!! 貢ぎ? 特殊詐欺? そんなもの知ったことじゃねーんだよクソがッ!!」


 髪の毛を引っ張って勇士の頭を前後に揺さぶる母親に対して痛みを噛み殺していた勇士だったが、しかしそんな母親はそんな様子も気に障るのか「うるせぇッ!」と1人で加熱するばかりだ。


「お前が認めなきゃ私は彼氏も作れないってかッ!? ハッ!! ふざけてんじゃねーよッ!! 何様だお前はッ!! たかだか私の子供なだけだろうがッ!! 私の人生を邪魔する権利がお前にあんのか!? ないだろうがッ!!」


「お、俺は……! 母さんが騙されて、幸せになれないと思ったから……!」


 白熱する母親に対して、あの男がどうしようもない悪者だと説明しようと声を上げるも「黙れぇッ!!」と一殺にされる。


 まったく聞く耳を持たない母親に、それでもなんとか伝えたいのだと掴まれる頭を横にひねってその顔を見上げ――勇士は息を吞んだ。


「幸せだと……ッ!? 私の『幸せ』だと……ッ!?」


 ――母親のその瞳には理不尽への涙が溜まり、そして憎悪に満ちた黒い炎がメラメラと燃え上がっている。


「それをお前に決められてたまるかよッ!! 康弘さんが私を騙すッ!? そうかもなッ!! でもそれでもあの人は私を愛してくれていたッ!! 1人の女として愛してくれていたッ!! お前みたいなが居てもだッ!!」


「――ッ!!」


「お前は私に何をしたッ!? 何をしてくれたッ!? 私の人生の邪魔をして、たった1つの幸せさえ打ち砕いてッ!! それ以外の何をしたよッ!? 私ばっかり、なんでいつも損しなきゃならねーんだよッ! おかしいだろッ!! ふざけんなよっ、ふざけんなよッ!! ――――うぅっ…………ふぐっ、うぅ…………ッ!!」


 勇士へ向けられた言葉の数々は途中から嗚咽おえつに変わり、そして勇士の頭から髪の毛を掴んでいた手が離れる。


 勇士がおそるおそる顔を上げると、目前にはしゃがみ込んで、そして両手で顔を覆うようにして肩を震わせる母の姿があった。


「か、母さ――――」


「呼ぶな……ッ!!」


 勇士の声は、涙でガラガラに枯れた母親の叫びによって遮られる。


「ウザいんだよ……ッ!! 私のことを……『母』と呼ぶな……ッ!!」


「……っ!」


 その声は、喉が裂けてともに血も吐き出されているのではないかと思えるほど傷だらけなもので、勇士はそれ以上何も言うことができない。


 いや、少し違った。できないのではなく『言うことが叶わない』。


 『母さん』と呼びかけることすら封じられた今、その憎々しげな声で、そして恨みの込められた目で勇士を見つめる母親に対して、勇士は掛ける言葉を失う。


(……ああ、そっか――)


 どうしようもなく自分がいたたまれなくなって、勇士は目を伏せる。


 母親が貢いでいた相手、康弘とかいう男を引き離すことで母親を守れると思った。


 そしてそれこそが正義の行いでもあるのだと、ただひたすらに信じてきた。

 

 あわよくば助けた自分に対して、これからは少しは関心を向けてくれるようになるんじゃないかと思ったりもして。


 でも結局そんなのはただの自己満足の域を出てはいなかったのだと、勇士は気がついてしまう。


(俺と2人きりの変化のない生活に戻るくらいなら、たとえ騙されていたって母さんにとってはあの男と過ごす一瞬が幸せだったんだ……それを、俺は……)


 ふふっと、何に対してなのかわからない笑い声が出て、虚無感が身体の内を占めた。


 再び自分を見下ろすような気配を感じた勇士が伏していた目を上げると、いつの間にか再び母親が勇士のすぐ側に立って、涙でぐちゃぐちゃな顔で勇士を睨みつけている。


「――全部、ぜんぶぜんぶお前のせいだ……ッ!!」


 その両手が、やけにゆっくりと勇士へと伸びる。


 そして――


「――んグッ!!」


「死ね、死ね、死ねッ、死ねェッ!!」


 勇士の喉元に母親の両の手が喰らいつき、そして万力のような力で締め上げる。


 反射的に勇士はその手を振りほどこうと母親の手に自分の手を掛けるが、しかし。


「お前なんか、お前なんか……ッ! 生むんじゃなかったッ! いや、生まれたその日にこうしておくんだったッ!!」


 その震える声を聞いて、勇士は自身の手をパタリと、途中で力を抜いてベッドへと自由落下させる。


(――たった1人の血の繋がった家族にさえ死を願われて、どうして俺が死なずにいられるか……)


 血流が止まって、顔が痺れて熱くなっていく。


「死ねッ!! 死ねッ!! 死ねッ!!」


 意識がボンヤリとしてきて、死ねという言葉が薄い膜越しに聞こえるような錯覚に自身の死を悟り、勇士はその運命をわらった。


 ――麻央、お前の予知夢は正しかった。


 学校を休んでそれから、俺はもう二度とあの学校のあの教室へと姿を見せることはない。


 俺が死ぬのは学校を休んだ当日じゃなくて、今日、この日だったんだ……――


 そうして、意識を手放そうと思ったその時だった。


「――あぅっ!?」


 バチンッ! という音とともに短い悲鳴が聞こえたかと思うと、唐突に勇士の喉の苦しさは掻き消えた。


「ゴホッ! がはっ、ゲホッ!」


 そうすると今まで圧迫されていた喉を急に空気が通るものだから、その感覚に勇士は思わず咳き込み、涙ぐんだ。


「――まったく、危なっかしくて目も離せやしない」


 母親ではない女性の声がして、咳き込みながらも勇士は前を向き、そしてその目を見開いた。


「みんなお前を待ってるんだ。ここで死なれでは困るぞ、勇士」


 そこには床に倒れ込む勇士の母親を前に立ちはだかった麻央が、不敵な笑みを勇士へと向けていた。

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