第30話 ぶち壊し
アルミの階段を踏み鳴らす音が段々と近づい来ることに部屋の中の勇士は気がついて、大きく深呼吸をして覚悟を決めた。
直後、鍵を差し解錠される音がすると、ドアが大きく引かれてその男がまるで自分の家にでも帰ってきたかのように断りもなく入ってくる。
「オイ! 来たぞ!」
しかし部屋の中からはその言葉に対して返る声はない。
男は1つ舌打ちをすると乱雑に靴を脱ぎ棄てて部屋の中に足を踏み入れ、そしてすぐに驚いたようにその動きを止めた。
いつもなら部屋に閉じこもっているか学校に行っていていないはずの勇士が、玄関からすぐのリビングの隅に立っていたのだ。
男は思わず腕時計を確認する。午前11時、小学校が終わっている時間であるはずもない。
しかし困惑したのも束の間、男はすぐに眉間にシワを寄せて不快げな表情になる。
「クソガキ、涼音はどこだ? 」
いつもなら一発どついて部屋か外かに追いやっていたところだが、男はひとまずそうしたい感情を抑え、まずは部屋の中にはいない様子の自分を呼び出した勇士の母親――涼音がどこに行ったのかを不躾に聞いた。
しかし、勇士はその質問には答えない。
「――これは、どういうことだ」
代わりに後ろで手に持っていたそれらを放る。
すると投げられたその硬質なカード類はカタカタカタッと音を立てて、男と勇士を挟むセンターテーブルの上に散らばって載った。
今までにない勇士の反抗心さえ見せる口ぶりとその粗雑な行動に、呆気に取られた男が口を開くよりも先に、勇士は言葉を続ける。
「何十枚ものクレジットカード、これをいったい何に使うつもりだよ」
銀、あるいは金色の光沢があるカード類は全てクレジットカードであり、そして全て勇士の母親である涼音の名義のものであった。
「……涼音はどこだ、クソガ――」
「いない。母さんのスマホを使ってお前に呼び出しのメッセージを送ったのは俺だ」
男が口を開きかけるがそこから出る言葉を勇士は待たず、睨みつけるような視線を男に向けながら先を続ける。
「母さんはこんなにもカード類を持つ人じゃなかった。それにお金の使い方だって決して荒い人じゃない。たまに酒を飲んだり夜遊びをするくらいで、毎月何十万も使い込むような人じゃなかった!」
そうして勇士はもう1つ、ポケットにねじ込むようにして入れてあった普通預金の通帳を男に見せつけるようにして掲げた。
細かい文字の羅列はもちろんテーブルを間に挟んで開いた距離から読み取ることはできないに違いない、しかし読めなくともこれを使い込ませるに至った記憶がお前にはあるだろうと、勇士は男に精一杯の圧を載せた言葉をぶつける。
「慰謝料の入った定期預金も今月、中途で解約されているのがわかった! 全部、全部お前が母さんをそそのかしているんだろうっ!? 来るたびにお前の身に着けるものがどんどん高価なものになっていっているのだって俺はもう気付いてる!! 母さんから金をむしり取っているのはお前だろうっ!!」
叩きつけるようにそう言い切った勇士に、しかし返ってくるのは期待しない反応だった。
男が、肩を揺すって笑っていたのだ。
「かっかっかっ! よくもまぁそこまで調べたもんだよ……。それで、クソガキ? それが事実だとして、結局お前は俺にどうして欲しいわけだよ」
「もう……やめろ!! もう
勇士のその声は緊張や恐ろしさに震えてはいなかったものの、どうかここで引き下がって欲しいという思いを引きずるような弱さを含んでいたかもしれない。
だからこそ、そんな子供の甘さを見つけた男は「フンッ」と見下したように鼻を鳴らして答える。
「嫌に決まってんだろ、バーカ」
「……!」
隠そうという意思さえ見られない悪意の込められた返答に、勇士は歯を食いしばって悔しさを押し殺すが、しかし男はそんな勇士の表情を見てニヤリと笑うと調子よく言葉を続ける。
「預金通帳とにらめっこしたならお前にだってわかるだろうがよ、涼音のやつ、定期に相当の金を貯め込んでやがった。前の旦那からの慰謝料だかなんだか知らねーがよ、通りで気前もいいはずだぜ。買い物から飯まで何もかもに
母を貶すような男の言葉が許せずに勇士は歯を食いしばるが、しかし実際に彼女が慰謝料の振り込まれた定期預金を頼りにして、自分の仕事で稼いだ金を日々浪費して遊んでいるのは勇士も知っていた。
全てを否定はできないゆえの歯がゆさに返す言葉が詰まる勇士に対して、男はヘラヘラと笑いながら続ける。
「俺が金をむしり取っている? 冗談じゃない、涼音のやつが勝手に貢いでくれているだけのことよ。アイツは俺に金を使って喜んでるんだぜ? 」
軽薄で、そしてあからさまに自分にとって都合のいいように母の行為を解釈する男に対して、勇士は怒りが爆発しそうだった。
確かに彼女が貢いでいるには違いないのだろう、しかしこの男が本当に彼女のことを大切に思うならばそれを断る誠実さだって持てたはずなのだ。
相手が勝手にやってくれるのだから自分は悪くないなんて、言い訳としては最低のものだった。
だからこそ勇士は反論して『お前は間違っている』と男のその腐った理屈を足元からへし折ってやりたい衝動に駆られたのだが、しかしそれは「だがな」と続く男の言葉に遮られる。
「安心しろよ。もうすぐ俺はお前らの前から消えてやる」
「なっ……?」
それは勇士にとって予想外の答えだった。
正直なところ、こんな強硬策に打って出たところでこの男が素直に引き下がるなんて思ってもみなかったのだ。
だからこそ束の間、勇士は拍子抜けしたように安堵してしまった。
だがやはりそれは甘い思考だったと、男が口端をさらに醜く歪めて邪悪な笑みを浮かべたところで悟る。
「――もちろん定期預金にあった金は全部いただいて、な」
男は少しもためらうことなくそう口にして、勇士はそのあまりにも率直過ぎるその言葉に一瞬呆然としてしまうが、しかし再び眼に力を込めて男を見返す。
「そ、そんなふざけた話……! 許すわけないだろっ!!」
「お前が許す許さないなんて関係ないさ。現に涼音は『それでいい』って頷いているんだからな」
「そんなバカなことがあるものかっ!!」
「そりゃ、あるんだろうさ。まあ俺も『スタートアップでひと稼ぎするために投資資金をもらえないか』なんてチープな話を作りはしたがな」
そう口にして、そして男は堪えきれないようにクックックッと身体を小刻みに揺らしながら
「散々説得の言葉を考えてたのによ、無駄になっちまったんだぜ? 俺が持ちかけたその話を二つ返事でウンと頷きやがったんだ、涼音はっ! あっはっはっはっはっ!! これが笑わずにいられるかよっ!?」
「お前……っ!!!」
男はひとしきり笑うと、勇士を見下すようにして言葉を続ける。
「しかし、哀しいもんだな。せっかくお前が真実を知ることができても、それが涼音――お前の母親にまで届きゃしねーんだ」
「くッ……!!!」
その男の言葉に勇士は言葉を返せない。
今の母親に勇士の声は届きはしないなんてこと、言われずとも分かっていた。
むしろこの男を否定するようなことを言えばたちまち勇士の方が彼女にとっての敵となる。
だからこそこの男と直接決着することができればよい、そう思ってわざわざ呼び出したのだ。
でも、やはりダメだった。
「――唸るなよな。もうしばらくで望み通りお前の視界から消えてやるって言ってるんだからよ」
男には良心の欠片もなく、真っ黒な心の内側が滲み出るかのような腐った笑顔で為す術のない勇士を
「そしたらまたこれまで通り家族水入らずで暮らしてくれよ。元々慰謝料なんてあぶく銭みたいなもんなんだ、
「この……下衆野郎……ッ!!」
「口が悪いんだよ、クソガキッ!!」
勇士がそう吐き捨てた瞬間、ニヤニヤ笑いを止めないままに男が勇士との間にあるセンターテーブルへと飛び乗って、勇士の胸の辺りを力加減も無しに蹴り飛ばした。
勇士は蹴られた方向へと跳ねるように飛ばされ、ダンッ! と壁に叩きつけられる。
背中の方からピシリという音が聞こえた。
「がは……ッ!!」
次いで肺の空気が一気に抜けた様な苦しさと、蹴られた胸と叩きつけられた背中に鋭い痛みが広がる。
だがそれだけならまだよかった。
問題はそのあとに反動で前に倒れ込んでしまったこと。
それが勇士にとって、まさに最大の不覚だった。
カシャンッと音を立てて、勇士のズボンのポケットからその機械がフローリングへと落ちる。
血が凍る、勇士を一瞬のうちに襲った感覚はまさにその表現がピタリと当てはまるものだった。
「あん……?」
その変わった音のした方向に男が目を向ける様子がわかったので、勇士は見られまいとして急いでそれを手で自分の元へと引っ掴むようにして寄せる。
しかし、それがますます良くなかった。
「テメー……クソガキ。今隠したのはなんだ……ッ!?」
勇士のその反応が、男にそれが自分に都合の悪いナニカだと疑う余地を与えてしまう。
「オイ、コラッ! 見せやがれっ!!」
勇士の持つそれは奪われてもマズいし、壊されてもマズいもの――この前の日曜日、クラリスとのデートの最後に買ってもらったICレコーダーだった。
そしてその中には今までの会話が全て録音されて入っている。
それこそが直接の説得で男が応じなかった場合にの後詰めの一手であり、王手をかける切り札だった。
これがあればこの男が勇士を子供だと侮って
だからこそ決してこれを渡すわけにはいかなかった。
「見せろやコラァッ!!!」
男はテーブルから降りると、勇士など死んでも構わないとでもいうような力一杯の回し蹴りを倒れ込んだ体勢のままのその身体へと叩き込む。
「ぐぅ――ッ!!!」
圧倒的な体重差のある男からのその容赦のない一蹴りで、勇士の身体は横へと軽々と、そして大きく吹き飛んだ。
――しかし、それは勇士の狙っての動きでもあった。
蹴りを受ける瞬間、ワザと身体のバネを使って力の流れに沿った方向へと自ら飛んだのだ。
そうして男との間に僅かばかりのスペースを空けることができた勇士はすぐに後頭部へと手を回すと、服の内側、背中へと手を突っ込む。
そして引っ張り出したのは――いつの日かごみ捨て場で拾った木刀。
もし暴力的な措置に訴えなければならなくなった場合にと、背中に仕込んでおいたものだった。
「クソガキ……! テメー自分が何してんのかわかってんのか、あァッ!? 大人しくその機械をこっちに寄越せ……ッ!! そしたらこれ以上は手出ししないでやる」
男の瞳は暴力に満ち、そして手を上げることに一切の
しかし、勇士はそんな目で睨まれてもなお木刀を構え、決して頷きはしない。
その様子に、自分は舐められているのではないかと男のこめかみの青筋がピキリと浮き立った。
「そんなに俺とやり合いたいか、クソガキッ!! それじゃあお望み通り半殺しにしてやるよッ!!!」
男は大股で詰め寄ると固く拳を握り、そして一切の|躊躇なくそれを勇士に向かって振り下ろした。
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