第5話 「いつもと違うこと」
翌朝、蓮人はいつものように目覚ましのアラームで目を覚ました。いつものように2時間おきのゆかりの体位変換をし、いつものように朝食を作った。いつもと違うことはあった。いつもと違うのは作った朝食が一人分ではなく二人分であったことと、リビングのソファーには少女が眠っていたこと。少女はあまり起きる気配を感じさせなかったが、蓮人がカーテンを開け、朝日が部屋に入り込むとすぐに目を覚ました。
「おはよう。」
「………」
愛はただ、頷くだけだった。それでも蓮人は特に気にすることはなかった。今日は蓮人にとって、とても大切な日になるはずだから。蓮人はある決心をした。彼の人生で一番思い切った決断だ。そしてこの決断は彼のこれからの人生を大きく変える出来事の一つになるだろう。と、本人は思った。
「ごはん。できてるから。食べな。」
「………」
愛は声を出すことはなかった。ただ、今にも泣きそうな表情でいた。ソファーから身を起こして、立ち上がって、食卓へ移動し、ゆっくりと椅子に座る。朝食のメニューは、茄子の味噌汁、白米、焼き鮭、大根の漬物。古くから愛される日本の朝食である。愛はゆっくりと端を手に持ち、掴みにくそうに鮭を摘まみ、ゆっくりと口に運んだ。
次の瞬間。愛の目から大粒の涙が零れ落ちた。本人にも何が起こったのか、分からなかったらしい。不思議そうな顔をしている。ただ、その涙は暫く止まることがなかった。嗚咽はない。しかし彼女は苦しさのあまり、声を出すことが出来ないでいた。愛の涙が落ち着いた頃合いを見て、蓮人は話しかけた。
「…、焼き鮭、そんなに不味かったかな?」
全く持って、下手糞な切り出し方だ。今の今まで涙を零していた少女に向かって『ご飯の味はどうだったか?』『もしかして、不味すぎるあまり涙が…?』なんて、その場の雰囲気に合わない言葉を発するなど。不適切、いや、ただただ下手糞である。もう少しだけましな話しかけ方はなかったのだろうか。
しかし、蓮人のその問いは決して誤ったものではなかったのかもしれない。愛の表情は心なしか明るくなったような気がした。気がしただけであって、実際そうなっているのかは本人しか分からないが…。そして少し『クスッ』としてからやっと、本日第一声目が愛の口から出た。
「おじさん、それは可笑しいよ。」
「あ、ああ。そうだよな。すまない。」
その時の会話はそれで終了したが、昨晩のような良くない雰囲気はなくなった。蓮人は食事を終えると、職場に電話をかけた。ものの数分で電話を終わらせた。電話口の上司はきっと、何が起こったのか、何を言われたのか理解に苦しんでいるだろう。しかし蓮人は退職届をいつでも提出できるように机の奥に忍び込ませていた。上司が、元上司が出勤して彼の引き出しを確認したら、状況を心から理解することが出来るだろう。
「おじさん、名前何?」
蓮人がソファーの端っこでゆっくりしていると、不意に愛が言った。
「俺は、桜川蓮人。」
「ふーん。そうなんだ、じゃ蓮ちゃんって呼んでもいい?」
「…だめだ。」
「じゃあ、れんれん」
「だめだ。」
「じゃあ、チェリーさん」
「チェ…、それが一番だめだ。」
「何ならいいのよ。」
「そうだな、蓮人さんがいいところなんじゃないか…?」
「蓮人さん…。何か、嫌。桜川って呼ぶね。」
『呼び捨てかよっ』と心では突っ込んだが、『チェリーさん』出なかっただけましだとなぜか思ってしまった。
「愛してる」って言いたかった。 玉井冨治 @mo-rusu
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