第3話 「出会い」

「あら、おはようございます。」


マンション内で唯一、蓮人に挨拶をするのは彼の一つ下の部屋に住む初老の女性だ。

彼に挨拶をするのは彼女と彼女と共に生活をしている旦那さんだけだ。

だから彼は感謝を付けてそれに返事をする。挨拶だけでも話しかけてくれる人がいると言うだけで彼の心は少しだけ救われる。


「おはようございます。」


彼が挨拶し返すと、その初老の女性は柔らかな笑顔でまたお辞儀をする。

『それではまた明日の朝。』と言うように彼女はその優しそうな笑顔のようにゆったりと歩いて、部屋まで帰っていく。

他の住人はと言えば、彼等はその様子を遠巻きにしてこちらをこそこそと見ている。

一度着いた憐れみという名の偏見は中々解くことが出来ない。

この桜川蓮人と言う男は最早『五〇六号室の綺麗な女性を妻に持つ、幸せ過ぎる男性』から、『その愛すべき妻を病気によって失いかけている不幸な男性』へと住人たち目線では変貌していた。

家から徒歩10分ほどの最寄り駅に着くと、蓮人は改札の前で一度立ちどまり、そしてまたその重たい足を無理やり持ち上げる。

電車はいつも満員。

いつものように満員の電車で人に揉まれながら出勤する。

それもまた彼の心が少しずつ削られていく要因の一つなのである。

東京駅の改札から徒歩15分にあるのは蓮人の務める大手出版社である。

大きな高層ビルの一角、25階から40階までをその出版会社で占められている。

蓮人が所属しているのは39階校閲部である。

校閲と提出された文章を正しい形に直すことである。

蓮人はこの校閲を行っている。

大学を卒業した頃は自由だからという理由でフリーで校閲を行っていたが、友人の懇願に負けて現在の会社に務めることとなった。

ここでもまた蓮人は少し距離を置かれていた。

その理由も然り、ゆかりの件だ。

マンションには1人2人くらい、話しかけてくれる人がいたがここは違う。

お仕事の話以外で、蓮人に話しかけてくる者などいない。

変な噂が流れるようなことは流石に無くなったが、それでも彼を遠巻きにしてこそこそと様子を伺っているものは割と多い。

そんな場所では仕事をしにくいと上司に移動を訴えたこともあったが、人事をすぐに変えることなどできないらしく結局彼はそのままである。


「はぁ…」


今日も目の前にある大量のデータ。

他の人の机にはそこ半分にも満たないほどの量のデータ。

他の人が担当するはずだった仕事も、面倒だからという理由で彼に回しても何一つ文句を言わないものだから、彼の机には人の倍仕事のデータが来る。

他者より仕事が出来なかった蓮人だったが、ゆかりが実質死してからは他者より出来るようになっていた。

特にこれといった趣味のなかった彼は趣味が彼女と言っても過言ではなかった。

だから彼女が実質死してからは仕事しかすることがなく、皮肉だがその量に応じて彼も成長したということである。

彼女を忘れるため、仕事に没頭した成果だろう。

そんなことで成果を上げたくはなかったが、それも全て運命なのだろうか。

そんなことぼんやりと考えながら仕事をしていたら、なんだか少しだけ訳もない涙がでそうになった。

涙を流して大声で世界に向かって「バカヤローーーー!」と叫びたい気分であった。



いつもは仕事が終わると、すぐに帰宅していた。

家にはゆかりが待っているし、ヘルパーさんと引継ぎをする時間が決まっていたから。

でもこの日は寄り道をして帰る。

いや、もしかしたら家になど帰らないのかもしれない。

蓮人はこの終わりの見えない日々にうんざりしていた。

さっさと終わらせてしまいたかった。

いつもなら素通りする駅近くの少しお洒落なバー。

そこに初めて入ってみると、見慣れない顔の客に少し驚いたような顔をした店の主人が『いらっしゃいませ』と挨拶をする。

まだ30歳くらいであろうその店の主人は馴染みの客と話し出すと思いきや、蓮人を空席のカウンター席に案内し話しかけ始めた。


「初めてですよね。こんな店、よく見つけましたね。」


蓮人はいつも裏道を通って駅まで行っている。

人の通りが少ない道のほうが落ち着いて歩くことができるからである。


「あ、まぁ…。」


と微妙な返事をする蓮人に店主の男は注文を聞く。

『カミカゼ』と人差し指を立てながらそっけなく答える蓮人にかまわず話かける。


「お、救い人でもいるんですかねー」


店主の言葉に少しイラっとし、ちょっとだけにらむと『冗談ですよー』よ陽気にいった。

店主はその後も楽しそうに、蓮人に話しかけ続けたが蓮人が感じよく応じることはなかった。

ついに蓮人は自ら入った店だったが、居心地が悪くなって店を後にした。

自宅最寄りの駅に着き、狭い路地を歩いていると小さな少女が寂しそうに体育座りをしていた。

コンクリートの地べたに。

あまり関わるのは良くないだろうと見て見ぬふりをしようとしたがそうはいかなかった。


「ちょっと君、何歳かな?未成年だよね?」

「えっと…」


警察に声をかけられて彼女は困っている。

もうそんな時間かと思いながら、彼女にも彼女なりの事情があってこの時間まで外にいるのではないかと勝手に想像し蓮人は小さな決心がついた。


「愛、何してるんだ?あ、僕の妹です。お世話かけました。」

「え、あ…。お気を付けて!」


深夜パトロール中の警察官に間髪入れさせずに少女の腕を引いて歩いていく。

その間、彼女は何も言わなかった。

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