第四章 英雄は悲劇の結末を許さない Ⅲ
9
神和終耶は重心を落とし、砕けたアスファルトを蹴って直進する。
武器が拳から刀になったとしても、その間合いは一メートルに満たない。近付かなければ戦いにすらならないのだ。そして、どうやらかの神格もこちらを敵として認識したらしい。
周囲の空気が歪むような感覚、としか言い表せない変化があった。同時に感じるのは、魂を直接押し潰すかのような威圧感と、目を逸らしたくなるような神々しさ。
その女神はまだ特別なことは何もしていない。ただ神和を見ただけだ。
それだけで、怯む。
足がすくみ、少年の人間たらしめる部分が逃げろと警告してくる。
だが、それは意志の力で握り潰した。その力を一振りの日本刀に込めていく。
天照大神の背後に幾多もの太陽が出現した。大きさは陽依の太陽よりも遥かにデカい。自動車一台であれば丸ごと飲み込めるほどであった。それが、天照大神が構えた弓に収束していく。
『……分かっているとは思うが』
その僅かな時間の隙間に、悪魔は最低限の情報だけを確認する。
『人の身では神には届かん。どこかで神性が揺らがない限り、どう足掻いても世界の優先度により人間が神に勝つことは出来ない』
そう、人間では神には勝てない。
バッタがカマキリに、小鳥が鷹に、アザラシやペンギンがシャチに勝てないように、人間が神に届くことはない。そういうふうに、世界の理は成り立っている。
しかし。
しかしだ。
『故に貴様は時間稼ぎだけ考えろ。勝つのではなく、負けないことに注力しろ』
時が経てば天照大神はその身を崩す。
力だけで構成されている召喚獣は、自身の存在を保てなくなり崩壊する。
だからこれは勝たなければいけない戦いではなく、負けることが出来ない戦いなのだ。
「分かっているさ」
『結構。健闘を祈る』
声が聞こえなくなると同時に、莫大なエネルギーの収縮が終わった。
数えられるだけでも二桁を越えていた太陽が、巨大な矢に変化する。高熱のあまりその矢は紅蓮でなく白光を纏っていた。
「陽依は渡さない───」
呟きはやがて宣誓に。人間の意志を神に向かって叩きつける。
「たとえ相手が最高神だろうが、それでも陽依はあんたには渡さない。
その言葉が合図だった。
天照大神がその矢を放つ。
矢は真っ直ぐ、逸れることなく神和に向かっていく。その途中で、太陽の矢は爆散した。
「ッ!?」
一本だった矢は無数に分岐し、そのうちの半数ほどが標準を神和に合わせ、軌道を不自然なほどに捻じ曲げた。
おそらく、矢の数は先程の太陽と同数だ。一度の射出に太陽一つ分の矢のみだった陽依に比べ、太陽神はたった一度の射出で無限の矢を体現する。それらを神和は弾き、逸らし、受け流しながら太陽神に近付いていく。
だがそれで太陽の矢がどこかに着弾することはなかった。軌道を逸らされた太陽の矢のいくつかが、再び大きく弧を描いて舞い戻ってきたのだ。
(なら……ッ!!)
射線の強制変更は陽依もしていたことだ。当然、天照大神も同じことをしてくると考えていた。
だから、落とす。強引に地面に接触させることで着弾を狙う。
「っ、おォアッッ!!」
刀の振り方を、全体的に叩き落とす形へ変更し、太陽の矢は確かに地面へ着弾した。
(ぁ、───っ)
だが、少年は失念していた。
太陽の矢にはいくつかの特徴があり、その中にはこんなものがある。
一つ、それが着弾すれば瞬く間に火柱へと変わる。
そう、だから。
それが地面に接触した直後、直径二〇メートルにも及ぶ火柱が天を衝いた。
火柱が出現した際の衝撃波で神和の体は簡単に吹き飛ばされる。火柱に体が包まれることはなかったが、それでも肺を焼くかと思えるほどの熱気と衝撃波の影響が消えるわけではない。神和の体は一〇メートル以上の距離をノーバウンドで滑空し、勢いをそのままにごろごろと地面を転がっていく。少年の体を受け止めたのは先程まで家の形をしていた瓦礫の山で、ごつごつとしたコンクリの壁が神和の背中に突き刺さるように衝突した。
「が、はっ……ッ!!」
肺の空気はそれによって吐き出され、しばらくの間思考は止まり、咳き込むことを余儀なくされた。
日本刀は手元を離れ、数メートル先に突き刺さる。陽依を探す時に散々雨に降られたせいか、思ったより制服は燃えていない。ドラマや漫画で火に包まれた家に飛び込む時、頭から水を被るのと同じ理屈だろう。
「ぐ、……火柱が、まさかここまで……ッ」
『あれでも手加減している方だ。奴の目的はあくまでも肉体の確保。その前に自身の力で灰にしてしまっては本末転倒だろう? 天照大神にとって、貴様は地を這う虫けらに過ぎん。先に殺した方が順当に肉体が手に入るから。矮小な人間と相対する理由なんてそんなものだ』
「…………それじゃあ、このまま戦い続けたらこの街は───」
『それも今更だな。日本神話の最高神相手に、街一つが火の海に沈む程度誤差の範疇だろう』
話が終わる前に天照大神が動く。再び無数の太陽を創り出し、矢に凝縮させていった。
「クソが!!」
息が上がったままでも強引に体を動かした。途中で地面に突き刺さった日本刀を引き抜き、天照大神に特攻していく。
「ルシウス! 学校はどっちだ!!」
『学校、とは貴様の通う学園のことで構わんな。それなら三時の方向だ。距離はそう離れてはいないが……貴様、まさか』
「決まってる! 今からそこまで天照大神を吹き飛ばす!!」
それを聞いて、僅かに悪魔は目を細めた。
『良いのか? まだ残っている者がいるかもしれんだろう』
「あの学校は警備員なんて雇ってないし、たとえ外が日暮れだか夜明けだかよく分からない状態だとしても今は
元々、私立明星魔導学園は召喚魔術もメインに含める教育方針だ。そのため校舎の復旧や修復などの行動も迅速になっている。
「だから被害はそこで押し留める! 全部終わった後に流れ弾で住む家がみんな無くなりましたなんて
避難指示が発令されてから時間はかなり経っている。もうこの区画に人は残っていないはずだ。
天照大神の進軍が引き起こす被害を抑えるのは不可能だ。だが、不可能だからこそ被害を抑えるために最低限のことはしなければならないだろう。
天照大神が再び太陽の矢を放った。無限に分岐する太陽の矢の中から一本だけに集中し、刀の峰を使って逸らす。軌道が歪曲し、神和の後方に着弾した。
火柱が出現する。衝撃波が神和の体を簡単に持ち上げていく。
しかし、神和の顔に焦りの色はない。静かに、眼前の敵を見据えていた。
(……狙ったな)
それを見ていた悪魔は少年の思考を分析する。
そう、狙っていたのだ。天照大神に近付くのは容易ではない。召喚士になったことで防御するための武器はあるものの、追尾する矢を弾きながら接近することは困難を極める。
だからこそ、わざと後方に着弾させ、その勢いを上乗せすることで近付くことにしたのだ。
『火』である以上、その火柱は容赦なく制服を燃やしていく。背中を中心に、体全体を小さな炎が点在しているのが見える。
(知ったことか……っ!!)
肝心なのはタイミングだ。だが動体視力では限界があるため、ほぼ勘に頼った一撃だった。
神和は空中で体を捻じり、ブーメランのように横方向へ一回転することで天照大神の左側面を斬りつける。
ダメージが入った手応えは無かった。
それでも少年の体をノーバウンドで一〇メートルは吹き飛ばす力が加わった一撃だ。天照大神の神体は、神和の狙い通り学園に向けて僅かに揺れる。
神和もそれだけに賭けることはしなかった。即座に体勢を整え、日本刀の峰を自分に向けて地面に突き刺すことで勢いの大半を殺し、未だに肌を焼く残り火を消すためにわざと地面を転がって鎮火した。
バランスを崩しただけでは神の動きは止められない。標準を定めるといった動作が必要ない以上、どのような体勢であっても標的に命中させることが可能なのだ。
神和に向けて、
神和終耶と天照大神、学園の位置関係はほぼL字だ。従って、神和は吹き飛ばされる前の場所へある程度戻る必要があった。だが神和らの立ち位置が一直線になる直前で太陽の矢が迫る。
「ッ!!」
もう神和は怯まない。即座に方向を転換し、今度こそ天照大神に向かっていく。
神和と獄炎の矢が正面から衝突した。神和は日本刀の切っ先を地面に向け、刀身は体と平行になる構えで矢を受け流した。といっても、明後日の方向ではなく再び少年の後方の地面に向けて着弾するように、だ。
矢が接地する寸前に神和は構えを解き、姿勢を変えて天照大神の腹部へ跳び蹴りを繰り出す。
しかし、それでも天照大神は人間の数十倍はある巨体である。現在進行形で崩壊が進んでいると言っても、たかが高校生の跳び蹴り程度で沈むほど柔ではない。神和の力だけでは移動させられる距離には限界があった。
だから、足りない威力は火柱に補ってもらうことにした。
衝撃を受け、弾丸のように射出された神和の跳び蹴りが天照大神に突き刺さる。両者はそのまま、神和の狙い通り学園に到達した。
その巨体が学園の校舎に激突する。校庭まで転がった神和は、体を起き上がらせながらもそれを見て笑い飛ばす。
「さっきのお返しだ、
ゆらりと、天照大神が校舎に沈んだ体躯を起こす。
神の纏う雰囲気が変わる。召喚獣にも怒りというものが存在するのか、少なくとも今までより明確な敵意とも呼べる重圧が空間を満たしていく。それを魂と肉体で感じながら、それでも神和は笑っていた。
理由は直截簡明。
そこまでいけば、もう天照大神は神和終耶の存在を無視できない。鬱陶しい虫けらは目障りな害獣に進化したのだ。農作物を収穫するよりも前に、畑を荒らす害獣への対処を優先させるのと同じように、天照大神が神和を差し置いて陽依の元に向かうことは無い。
しかし、だからこそ。
神の逆鱗に触れた愚か者は、必ず神罰を受けることになるのだ。
10
陽依は一人、あのクレーターまで戻ってきていた。
理由は、少年から告げられた一つの頼まれごとを果たすためだ。
『頼む、雉郷先生を迎えに行ってくれ。多分、まだあそこにいるはずだからさ』
迎えに行くことに異論はない。感情で言っても理屈で言っても、その役は陽依が担うべきだろう。
しかし、それはそれとしてだ。
やはり、顔を顰めてしまう。
雉郷先生を殺したのは自分だ。暴走していたからだなんて言い訳にすらしたくない。今も胃の中に大量の石を詰め込まれたかのような重圧を感じていた。
足が重い。全身から嫌な汗が吹き出す。
(……だめ、ここで逃げたら……)
この悲劇は、逃げたことが原因で引き起こされたものであったはずだ。
目を逸らし、認めることから逃げ続けたことで様々な人が被害を被った。
だから。
「だから、私が……っ」
見つけてみせる。
たとえどんな状況になっていたとしても、どれだけ時間をかけたとしても、絶対に。
そんな覚悟を決めて、無駄だと分かっているのに雉郷先生の名前を呼びながら走り回る。
街の原形はどこにもない。元の景色を頼りに目星をつけることすら出来ない。
虱潰し。それしか方法はなかった。
喉に痛みが走るほど声を荒らげて、鼻で呼吸することが不可能なほど息を切らして。
そうやって、散々走り回った後だった。
「……ぇ…………?」
見つけた。
間違いなく、雉郷先生だ。
それでも、最初に出てきたのは疑問だった。
その体がスプラッター映画を思わせるほどバラバラだった。まるで自動車に潰された虫のように、大岩でぺちゃんこにされていた。五体満足に残っておらず、体の一部しか残っていなかった。
……というわけではない。
逆だ。
比良坂雉郷は、傷だらけでありながらもその両足で立っていたのだ。
「ち、さと……せん、せぃ……?」
「何ですか、その顔は。そんな、お化けでも見たみたいな顔されると先生も切ないのですよ」
「先生っ!!」
衝動に負けて抱きしめる。
温かい、人の温もりがそこにはあった。
生きている。
「っとと。もう、急に抱きついたら危ないのです」
「だって、私の、私のせいで……っ。ごめんなさい先生っ。私、先生に酷いことを……っ」
「良いのですよ。私が望んだことですし、死ぬことはないので問題ないのです」
その言葉で思い出す。
バッと離れて彼女の体を確認した。
腹部を中心にブラウスは破け、素肌の代わりに血が滲んだ包帯が見える。しかし、どう考えてもそんな応急処置で何とかなる傷ではなかったはずだ。出血だって相当酷かったはずなのだから。
「そ、そういえば先生はどうやってあの怪我を……? 致命傷だったと、思うんですけど……」
「? 私は『死』への覚悟があれば死なないのです。即座に傷が治るとかそういうわけではないので、死ぬほど痛いのは変わりませんが……あれ? どうしてそんな呆気にとられて……ま、まさか伝えていなかったですか!?」
「知りませんでした……っ」
安堵やら寂しさやらの感情が一斉になだれ込んできて泣きそうになるのを必死に堪える。目尻に涙が浮かばせ、きゅっと口端を引き締める陽依を見て、雉郷先生は小柄な体を更に縮ませた。
「うぅ、申し訳ないのです……。私、てっきり貴女も知っているものかと……。しかし、そうですか。だとすれば、ちょっとどころではなかったですね。すごく、痛かったでしょう」
今度は雉郷先生から、優しく陽依の体を抱きしめた。
「ごめんなさい、なのです。でも大丈夫なのですよ。私はここにいますから」
しかし、それなら何となく合点がいくのだ。
何故、あの時雉郷先生は戦うことを放棄したのか。逃げも隠れもせずに禍津鬼の攻撃を受けたのか。
あそこで雉郷先生が陽依を諌めてしまえば、陽依は心の内を吐露することなく自分を悪人だと断じ、全ての感情を押し殺してしまっただろう。その場合、偽りの仮面を誰に対しても取り外すことが出来なくなっていたかもしれない。
(それでも……)
本音をぶつけ合う機会が必要だったから、その中心であるあの少年を差し置いて前に出るのはやめた。
回避しなかったのは、その感情も受け止めるという彼女なりの誠意だったのか。『死』への覚悟次第で死なない彼女にとっては、それが態度になると考えたのだろう。
大人は口先ばかりで何もしない。そんな子どもからの嘆きに、そんなことは無いと応えるために。
「それでも……私は、先生を許しません」
いっそ、情けなく泣いてしまおうかと思った。
不思議そうに首を傾げる雉郷先生へ告げる。
どうして。
「自分の体を大切にしないで、傷つくことを厭わない先生の選択を……私は認めたくありません」
どうして、自分の周りの人は『自分』を大切にしないのだろう。
あの少年も、目の前の恩師も。
傷つくことを厭わず、まるで捨て駒みたいに自分を使ってしまうのだろう。
それをされた側が、見ている者がどんな想いをするかも知らないで。
「あの人は大切な人だから傷ついてほしくない。でも、大切な人はあの人だけじゃないんです。先生だって、私の大切な人なんですよ。私だけじゃない。あの人も、クラスのみんなだってそう思っています」
それは皮肉にも、『仮面』のために務めていたクラス委員長だから知っていることだった。
年頃の少年少女は、どれだけ恵まれていても不平や不満を抱いてしまう。委員長の立場だからそういった相談だって珍しくないのだ。家族や他の教師、先輩や後輩、果てにはバイト先の客に至るまで。
しかしそれでも、雉郷先生を悪く言う生徒は見たことがない。あってもそれは愚痴止まり。『怖かった』くらいの軽口で、悪口まで言う生徒はいなかった。たとえ厳しく叱られても、それが自分のためだと伝わっているからだ。
「私たちのために力を尽くしてくれるのは嬉しいです。でも、そのために自分を生贄みたいに差し出さないでください。もっと……もっと自分を大切にしてください……っ」
「……そう、ですか。それは、苦労をかけますね。生徒に心配されるようでは、教師として面目が立たないのです」
嬉しそうに、幸せそうに笑った。
(ほら……)
すぐ、そう言う。
きっと、彼女はやり方を変えないだろう。神和終耶だってそうだった。自分の周りは、みんなそうだった。誰かのために戦って、傷ついて、こんなの大したことないと笑うのだ。
それが許せない一方で、諦めてもいた。それで救われた側からすれば、諦めざるを得なかったのだ。
「……それで」
「?」
子が子なら親も親、ということだろう。もう、そこについて議論するのはやめた。
雉郷先生に対しての疑問は他にもある。自分自身で『死なない』と分かっていたとしても。
「どうしてここに……? あの人が私を向かわせるって分かってた、とか……?」
「まぁそれもありますが……」
あっさり認めた。行動の先読みをさらっと出来てしまう辺り、やはり大人ということなのだろう。しかし、どうやらそれだけではないらしい。雉郷先生はとある方角に目を向ける。確か、いくつもの光弾と巨大な雷霆が飛んできた方向だったか。
「お馬鹿さんたちのバックアップと退路の確保を。それとこれを探していたのです」
ギリギリ服の体制がとれているタイツスカートのポケットから取り出したのは、一台のスマートフォンだった。画面は大きくひび割れており、どう見てもまともに使用できるとは思えない。しかし、その機種には見覚えがある。
「それって、あの人の……」
「えぇ、ここに来た時に落としていたようなので拾ってあげなければと。見ての通りボロボロですが、内部データは生きているはずです。データ移行すれば使えるでしょう」
それらが雉郷先生がここに残っていた理由の全てだろう。であればもう戦場にいる必要はない。不死のトリガーがいつ切れるか分からない以上、一刻も早く病院に向かわせるべきだ。
「じゃあ早く避難しないと……っ。ここは危険です、私の召喚獣が今も───」
何度目かになるかも分からない巨大な火柱が言葉を遮る。
遅れて、ズンッッッ……という地響きが足元まで響いてきた。場所は、学園がある方角か。
神和のことだ。街への被害を最小限に抑えるために戦場を選んだのだろう。あの学園であれば、たとえ大破しても他より致命打にならないと考えて。
「反転した召喚獣ですか……。噂には聞いていましたが、とんでもない力ですね。あれでもまだ戯れ程度なのでしょう」
「…………」
「気になりますか?」
「……はい。でも、私がいても足手まといになるだけですから」
武器も防具もない兵士が戦場に行ったって何も出来ずに戦死の数を増やすだけだ。それだけではない。もし天照大御神に捕まったとなれば、神和たちの努力を棒に振ることになる。
それはダメだ。
「それに、雉郷先生をそのままにしておくなんて出来ません。せめて、病院まで送らせてください」
「むー……私はまだ子どもに面倒を見られる歳ではないのです。自分の面倒くらい、自分で見られるのですよ。この程度、使い魔の手を借りれば───」
その言葉に従うように影から這い出てきた鬼女はどこか様子がおかしかった。動きがギチギチとぎこちなく、その口からノイズのような雑音が漏れている。
「これは……」
慌てて学園の方を振り返る。
召喚獣の能力を封じる、無効化するという能力は聞いたことがないが、それでも陽依には思い当たる節があった。
逸る気持ちを抑え込む。
(ダメ、ここで優先順位を間違えたら……だから、今は雉郷先生を───)
再び雉郷先生へ目を向けると、彼女は困ったような、呆れたような顔をしていた。
「先生?」
「……前に、喧嘩と暴力の違いについて話したことがありましたね」
雉郷先生が切り出した話は接点がないように感じられた。
喧嘩と暴力の違いについて。
覚えている。
それは今から一年前。
元々、陽依が持ちかけた相談だった。
『暴力と喧嘩は違うのですよ』
やっていることは同じことだ。
拳や足、人によっては鉄パイプやバットなども使って相手を傷つける。傍から見れば、その行為は全て同じように見えるはずだ。
でも、その教師はそうとは言わなかった。
『喧嘩は、何かを守るために立ち向かうことを言うのです。対して、暴力はあくまで力で相手をねじ伏せるだけ。そこに何か快楽を見出している連中が、いわゆるチンピラというヤツなのです』
どれだけ言っても喧嘩をやめない不良がいた。
いつもトラブルに自分から首を突っ込む少年のことを相談する少女に、その教師は可愛らしく笑って言ったのだ。
『喧嘩をする彼は、確かに世間一般では善良とは言えません。成績も貴女が居なければ赤点を取りそうなくらいですし……まったく、他の教科も少しは勉強しやがれっていうのです』
最後の部分だけは不満そうに呟いた。教師という立場として、勉強を疎かにするのは確かに良いことだとは言えないだろう。
『───勘違いをしているようですから、一つだけ訂正しておくのですよ』
そして、少し背伸びをして。不安そうに俯く少女の頭をそっと撫でながら微笑んだ。
『不良というのは彼らが悪だから、落ちこぼれだからそう呼ぶのではないのです。志していることは正しいくせに、そのやり方が決して最良とは言えないから、
「……覚えています。悪人だから、落ちこぼれだから不良と呼ぶわけじゃないことも、全部」
「はい、ですから行くと良いのです」
「え……?」
「おそらく貴女がすべき模範解答は、ここから一刻も早く立ち去ることでしょう」
それは勘か経験か。
雉郷先生は召喚獣が召喚士の肉体を手に入れるために活動し、その目的が達せられたら召喚士の魂は獣の重圧に耐えきれずに消滅するということを知らないはずだ。教師だから生徒以上の知識を持っていても不思議ではないが、召喚獣がそのまま顕現するという事象をネットニュースでも見ない以上、少なくとも一般常識の範囲ではない。当人の陽依でさえ、別れ際にあの悪魔から簡易的な情報を共有されただけなのだから。
とすれば、やはり状況から判断したのだろうか。召喚獣が顕現してるから能力が使えない。使えないのであれば足手まといにしかならない。だから、逃走が最善だと。
「しかし、それは貴女の考えとは乖離しているはず。そういう時に重要なのは、何が出来るかではなく、何をしたいかだと思うのです」
まるで進路相談を受けているだけかのように雉郷先生は言った。しかし、彼女にとってはどちらもあまり変わらないのだろう。
なぜなら、
「
それが当たり前かのように語る。
「子どもは大人の心配なんてしなくて良いのです。確かにいつもと比べれば不調も不調ですが、数を一つに絞れば支障はありません」
その背中をそっと押して、生徒が迷うことなく歩けるように。自分のことで、陽依が重荷を背負わないように。
「その行いが、たとえ愚行と断じるべきものだとしても。貴女が秘めるその想いは、絶対に正しいものだと信じているのですよ。だから───」
彼女は、最後まで笑顔だった。
「行ってらっしゃい、陽依ちゃん」
「……行ってきます。私がやりたいことを為すために」
これから行うことは決して最善ではない。
天照大神は陽依の肉体を求めている。だから今の陽依がすべき最適解は、何もしないまま、戦場から遠ざかることなのだ。
でも、そんな
雉郷先生は言っていた。
不良とは、悪人を指す言葉ではない。
志していることは正しいのに、行いが利口ではなく、最善でもなく、最良とも言えない馬鹿を指し示す
だから。今、この時だけは。
大神陽依は、不良になることを決めたのだ。
11
ズバチィッッ!! と天照大神の目から雷を思わせる光が散った。
色は黄金。その手にはいつの間にか矛と思われる武器が握られている。
「まず……ッ!?」
言葉を口にする時間すらなかった。
神和の視界は腹部の激痛とともにブレる。目まぐるしく景色は変わり、気付けば背中から地面に叩きつけられていた。
「~~~ッッ!?」
遠のく意識を強引に引き戻す。辛うじて繋いだ思考を回す前に、目の前で足を振り上げるそれがいた。咄嗟に体を転がし、その攻撃から逃れていく。
『黄泉醜女か。……そうか、太陽神の側面だけでは排除しきれないと判断したな』
ルシウスがそう零していたが、神和はそれを聞く余裕がない。黄泉醜女と呼ばれる鬼女の攻撃が止まらないのだ。正拳突きや回し蹴りをいなしても、その怪力で腕が痺れ、足は地に沈む。三撃ほど受け流した段階でバランスを崩し、そこへ脇腹に蹴りを入れられて校舎に飛ばされた。
壁を破り、どこかの教室に転がされたところでようやく攻撃が止む。
「クソ、巫女としての天照大御神か!!」
『知っているのか。であれば話は早い。まぁ、そもそもの話として神というのは属性が一つとは限らないのだがな』
例えば、かの有名なゼウスは守護神や支配神といった側面を持ち、インド神話のインドラは軍神や雷霆神、英雄神など多様な側面を持つという。真に一つの属性だけ持つ神を探す方が難しいのだ。
『天照大神は太陽を司る最高神であると同時に、巫女の性格も持ち合わせる神でもある。貴様の言う通り、あれは天照大神の「巫女」としての側面だ』
これに至っては様々な説がある。
例えば。
天照大神と呼ばれる神は元々神を祀る巫女であり、その身に神を降ろすことで神に成った、という説。
例えば。
他の上位の神が真の主宰神であり、今日び認識されている天照大神は新たに生み出された巫女神だった、という説。
例えば。
日本神話の中に大嘗祭を行い、神に捧げる衣を織るなどの逸話があることから、古代の巫女も反映させていた、という説。
しかし正直、これらの説の真偽はこの際どうでも良いのだ。
問題は、天照大神が巫女としての性格を持ち合わせているということ。
『巫女という役を担う者が何を為すか、もはや説明する必要はあるまい。貴様の頭には既にあれの情報が入っているのだろう?』
巫女。
最近ではアルバイトにより本職の巫女は珍しい部類だが、それでもある程度は検討をつけることが出来る。
神楽、除霊、占い、祈祷……おそらく、それらの中で最も古く、最も有名で、最も畏れられた人の身であっても為せるもの。
口寄せや神懸りとも呼ばれる、数ある大役を担う巫女の代名詞。
そう、つまり。
「神降ろし……ッ!」
以前に聞いたことがある。
陽依の能力は、いったいどこまで出来るのか。
天照大神を通して神を降ろし、その力を自在に操ることが出来るらしい。また、天照大神を通して降ろしている神が召喚獣と同一である影響か、『神降ろし』をしている間はその神の本来の召喚士は
そこまで頭の中で確認すると、背筋から後頭部にかけて寒気のような感覚が走る。それに従って体を伏せると、背後の壁を蹴り破り、神和の頭上を通過して黄泉醜女が再び現れた。
「クソっ!」
繰り出される正拳突きをバックステップで回避し、真上に振り上げられる足は斬り捨てた。
しかし黄泉醜女は止まらない。そのまま体を反らして手を床につけると、そのままバク転するように神和の顎を蹴り上げた。明らかに無理がある動きであるにも関わらず、威力は骨を砕かんとするほどで神和の体は簡単に床の上を転がっていく。
背中に瓦礫が刺さる。中にはガラスの破片も混じっているのだろう。制服越しでも皮膚を傷つけ、熱が広がるような痛みが走った。
足を再生させた黄泉醜女は神和の髪を掴み上げると、そのまま校庭に向けて投げ飛ばす。その中央まで転がされ、血と泥で汚れきった体を起こす神和を、天照大神はただ黙して見下ろしていた。
『良いか人間、本番はここからだ』
神降ろし。
その身に神を降ろす巫女の
黄泉醜女が迫る。天照大神が一人では足らないと数を増やしたのだろう。その数が八にまで増えていた。それらの猛攻をギリギリで捌く。それでも着実にダメージを負いながら、悪魔に確認を取った。
「おいルシウス! 降ろせる神様っていうのは全部の神様なのか!? ゼウスとかインドラとか!!」
『いいや、それらは構成理論が別物だ。降ろすことは出来ても自在に操ることは叶わない。対応してないOS上でアプリケーションを動かすようなものだからな』
「IT用語は一般常識じゃねぇんだよ! 取り敢えずパソコン用のソフトがスマホで動くとは限らないみたいな解釈で良いか!?」
『構わん。日本神話の神々のみ制御下におけると認識しておけ』
「なら……」
『勘違いするなよ。日本神話の神々がどういうシステムなのか知らないのか』
日本神話は多神教だ。北欧神話やインド神話と同じ、主神という中心はあっても絶対と呼ばれる神というものが基本的に存在しない。だからこそ、神々がそれぞれの役を担うことで世界を回す。
だが、その多神教の中でも日本神話にしか存在しない性質がある。ギリシャ神話などでは到底に見られない、日本神話だけの神秘。
即ち、八百万の神。
森羅万象、天地万物に神が宿っている、存在するという考え方。
気候や自然だけでなく、疫病、農耕、道具に至るまで。それら全てに神がいるという理論こそ、他では目にすることがない突飛とした神の観点なのだ。
そう、だからこそ。
あの時、傍らの悪魔は言ったのだ。
『人間、本番はここからだ。これから貴様が対峙するのは太陽神などというちっぽけな神格ではない。誕生から人類が観測してきたあらゆる事象。即ち、日本神話という概念そのものなのだからな』
引き返す地点はもう過ぎた。
賽は投げられたのだ。
しかして神は賽を振らず。人はただ神の手のひらの上で蹂躙されるしかない。
刮目せよ。
これより起こる事象は他でもない。今代まで語り継がれてきた日本神話と呼ばれる伝説の真髄である。
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