第四章 英雄は悲劇の結末を許さない Ⅱ
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それは、いったいどちらが見ていた記憶だったのだろうか。
精神世界に侵入したことで、流れ込んできた記憶の一部を神和が見ていたのか。それとも、侵食の最中に陽依が見ていた走馬灯の一幕だったのか。
ともかく、それは再生された。
大きな神社の端。そこには人々から忘れ去られた祠があった。
ロクな手入れもされておらず、蔦や苔に覆われている。手前の鳥居には元々は植物を用いて作られた輪があったのだろうが、それも力なく垂れ下がっており、注連縄のようになっていた。中央に護符のようなものもあるが、文字は滲んで読み取れない。
そんな、朽ち果てた祠の裏に、隠れるようにして泣いている少女がいた。
歳で言えば六つか七つ。
一人ぼっちで、寂しくて。だがそれでも他人に歩み寄る勇気がない少女は誰も近付かないこの場所で泣くことしかできなかった。
だが、それでも。
『見つけた───!』
声が響く。
小鳥の囀りくらいしか聞こえない場所であるはずなのに、それでも同い年であろう少年がそこにいた。
肩で呼吸をしている。
由緒ある大きな神社だ。大人が施設を一通り回るだけでも一時間はかかる。しかもここまでの道は神職すら忘れてしまっているはずなのに。
だから。
つまり。
彼は少女を見つけるために、こんなところまで探しに来たのだ。大人でも辿り着けない場所へ、想いだけで到達したのだ。
めちゃくちゃで、デタラメだ。
その無鉄砲さも、子どもらしいといえばそうかもしれないが。
あぁ、きっと。だからこそ───、
『えっと、あなたは……』
『おれはしゅうや、こうなぎしゅうや。きみの名前は?』
『わたし……わたしは……』
目線を合わせるように屈み、こちらへ差し伸ばした手を取ったのかもしれない。
一歩。
外の世界に出る勇気を持って。
だから。
「今度も絶対、見つけてやるからな」
一〇年前の奇跡をもう一度。
一度出来て、二度は出来ない道理などないのだから。
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ここは、どこだろうか。
分からない。
暗くて、何も見えない。
手足の感覚も、何故こんな場所にいるのかも、自分が誰なのかさえも思い出せない。
ただ、分かることは。
(寂しい……)
寒くて、虚しい。
とても。とても。
氷の中にいるようで、全ての温もりを失ったようで。
(誰か、誰か……)
求めて、欲して。手を伸ばしたが届かない。
言葉も声にならないまま、思考の底へ消えていく。
『───きみが、それを望むなら』
(───?)
誰かの声が響く。
『だから約束。きみが助けを求めたら、どこにいたって駆けつける』
誰かの顔が、一瞬見えたような気がした。
あれは、誰だっただろうか。
『どこにいても、どんな時でも、どんなヤツが相手でも。おれが、絶対に助けに行くよ』
漠然と、大切だったという感覚だけが残っている。
手を差し伸ばしてくれて、それを取ったことで世界が広がっていったような。
(あぁ、そうだ……)
それが誰なのか分からない。
この感情の名前も思い出せない。
それでも。
あの人ならと、思うのだ。
他の誰でもない、あの人ならば。
(───きっと、また見つけてくれるよね)
強大な何かに存在を塗り潰されていく。
意識は薄れ、感情は色を失い、僅かな記憶も消えていく。
沈んでいくのが分かる。
暗く、何よりも沌く、どこまでも昏い場所。一筋の光も届かぬ深淵へ。
だから。
そう、だからこそ。
届いたのは、光ではなかったのだ。
「見つけた!!」
誰かが、その手を取った。
それだけで、深淵は形を崩す。
いとも簡単に。今まで身を浸していた暗黒が、泡沫に過ぎないとでも言うかのように。
浮上して、光が差して。
曖昧だった陽炎が形を取り戻していく。
ゆっくりと目を開けた少女は、広がる景色に口元を綻ばせた。
「……やっぱり」
ここは他者を受け付けない心の底。神であっても踏み込めず、だからこそ塗り潰して上書きするしかなかったヒトの領域だ。
そんな場所に、自分以外の誰かがいる。
あぁだが、それでも納得していた。
彼であれば仕方がない。
かつて、その少年が自分を立ち上がらせてくれたのだから。
「やっぱりあなたは、どこにいても私を見つけてくれるんだね」
「あぁ、今度は虱潰しに探す必要はなかったよ」
優しく笑う彼は、その手をこちらに差し伸べる。
あの時と、同じように。
「帰ろう、一緒に」
迷いはなかった。
少女は───大神陽依は笑って応えた。
「うん、連れてって。また、あの時みたいに」
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掴む。
天照大神の中枢核。閉ざされた結晶の中にいる、大切な少女の手を。
「…………………………こい」
強く。強く。
暗い感情に流されていた時に出来なかったことを。
あの時の過ちを正すため、今度は決して手放さないために。
「戻ってこい! 陽依!!」
一息であった。
少女の体を引きずりあげ、その勢いのまま二人は転がっていく。彼女が傷つかないように、神和は必死に抱きしめる。神和たちの体は、どうやらあの半透明な何かが受け止めたらしい。
『上出来だ。だが時間はない。核を失ったことによる硬直も長くは続かんぞ』
「分かってる! 陽依、しっかり掴まってろよ!!」
走る。
少しでもあの神から離れるために。
『──────────────────────!!』
天照大神が再起動を果たす。右腕を力の限り横薙ぎに振るうと、それだけでルシウスが象った半透明な何かは砕け散った。
衝撃が背中を叩くが歯を食いしばって耐える。
倒れてなんかいられない。
ただ真っ直ぐ、今は撒くことだけに集中する。
背後から何かが爆発する音がした。近くではない。とすると、神和たちを逃がすために大佐たちが目眩ましなどを取り計らってくれたのか。
だから、静寂が包む住宅街に出るのも難しくはなかった。
ゆっくりと、丁寧に少女を下ろす。
今度は怯まない。禍津神の時のように邪魔する者もいない。
自分の行いに、けじめをつける時が来たのだ。
さぁ、やり残しの精算を。
「ごめんな、陽依。あんなことを言って……胸ぐらをつかんだり、壁に叩きつけたり……本当にごめん」
言葉は使い方により姿を変える。
盾にも、凶器にも、杖にだってなる。
一度、神和は凶器として振りかざした。
「下手な言い訳はしない。俺がああいうことを思っていたのは事実だ。それを今更否定して、取り繕うような真似はしないよ。でも、これだけは言わせてほしい」
だから今度は、勘違いが起きないように。
すれ違いが起きないように。
せめて、自分の感情が正しく届きますように。
「陽依がやってきたことは、迷惑なんかじゃない」
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あぁ、きっと。
彼なら、そう言うと思っていた。
自分の行いを否定するようなことはしないと、そう思っていた。
「……ずっと」
だから、言わなくては。
そんな人間ではないと、自分の口から。
「ずっと、『あの日』のあなたが怖かった」
それが全ての発端だった。
「今までの『私』は、それを誤魔化すためだった」
嘘をついた。
嘘をつくための努力をした。
勉強も、部活動も、クラス委員長という肩書きも。そういった要素で自分を覆っていけば、神和終耶の上に立つことが出来ると思ったから。
「あなたより優れてるって、そう思うことが出来たら……あの日の恐怖も取るに足らないものだと感じることが出来るって、信じたかったから……」
召喚魔術の成功を恐れていた。
失敗するたびに安堵していた。
路地裏で、頼りない拳だけを武器に戦ってる姿を見て、陽依は一人胸を撫で下ろしていたのだ。
だから、分かりきっていたことだった。
虚構に塗れた関係は、いつか壊れるに決まっているのだから。
そんなこと、もっと早くに気付けばよかったのに。
「───知ってたよ」
少年の言葉を受け止めるのに時間がかかった。
何を。いつから。どうして。何で。
そんな疑問が浮かんでは泡のように弾けていく。
「人は、そう簡単には変わらないんだ。だから、陽依が俺を怖がってたことも、ずっとそれを押し殺してたことも全部知ってる。目を逸らしてたのは俺も同じなんだよ。わざと目を曇らせて、気付かないふりをし続けてた。会って間もない後輩にバレるくらい、下手くそだったみたいだけどな」
少年は
「それにさ、きっと陽依は自分で考えてるほど嫌なやつじゃないよ」
「え……?」
「なに間の抜けた返事してんだよ。だって、考えてみればおかしいじゃんか。全部嘘で、偽りで、三枚も四枚も猫を被ってましたっていうならさ」
例えば。
神和への勉強に時間を割きすぎて、陽依自身の点数がガクッと落ちた時。
例えば。
路地裏で喧嘩することを戒めた時。
例えば。
成功を恐れていた召喚魔術への挑戦を、一度だって『諦めろ』と言わなかったこと。
「そこまでして、俺を助けなくても良かったんだよ。その方が確実なんだ。不安要素になる可能性なんて、摘んだ方が絶対に楽だったのにさ」
人間の側面は一つだけではない。見方を変えれば善人が悪人に見えることも、そのまた逆もあり得るものだ。
少年から見れば、どこまで陽依が考えていたのかは分からないだろう。
思いついてはいたのかもしれない。
そうすれば楽だと、考えてはいたのかもしれない。
「でも、そうしなかった。優等生の大神陽依が作り物だったとしてもさ、俺を何度も助けてくれた陽依まで、偽物だったわけじゃないんだよ」
陽依は嘘をついていた。
それでも、
「だったら……」
その時だ。住宅街の一角がまとめて焼失した。
大佐たちを振り切ったのだろう。
それでもなお、陽依は目を逸らさない。
「だったら、教えて」
そう、それならば。
隠していたことを、もう一つ。
太陽のように振る舞おうとした理由を、もう一つ。
「私じゃダメだったの? 私には、あなたの心を晴らすことは出来ないの……?」
それがずっと、気がかりだった。
再会した時に感じたのは、恐怖でも歓喜でもなく衝撃だった。
他の召喚士に対する劣等感ではない。
瑠璃の時から抱えていた無力感だけではない。
再会した時にはもう、その目は酷く昏い色をしていたから。
傲慢なのだろう。天照大神の召喚士なのだから、人の心を晴らせるかもしれないと思うのは。
それが、叶わないというのなら。自分の思い上がりに過ぎないというのなら。
せめて、本人の口で否定してほしかった。
「それは……」
膨大なエネルギーが一点に収束する。天照大神が、目の前の障害に標準を合わせる。
しかし、少女はそんな分かりやすい脅威なんて目もくれず。
ただ、少年の言葉を待っていた。
そして、その口が開く。
「───陽依に、俺の心を晴らすことはできないよ」
「……うん、そうだね。そうだよね……私なんかが、晴らせるわけなかったよね……」
やっぱり。それが最初に出てきた感想だった。
最初から分かっていた。
あの少年の心を晴らせるわけがない。それは、再会して一年経って、届かないことを嫌ってほど実感してしまっていたから。
でも。
なのに。
「違うよ、そういうことじゃないんだ」
項垂れる少女の手に、彼は自分の手を重ねて。
その少年はどこまでも、少女を守護る言葉を紡ぐ。
「……俺の心を曇らせたのは俺なんだ。俺なんだよ……」
その少年はどこまでも、己を卑下する言葉を紡ぐ。
「足掻けば何か変わると思ってた。『どこにでもいる平凡な高校生』でも……ヒーローなんかじゃなくても誰かを救えるかもしれないって。そう信じたかったんだ」
でもダメだったから。何も出来なかったから。
……再会した時、もう既に彼の心はボロボロだった。
なんの力もないくせに、誰かを救おうと奔走して、傷だらけになって。それでもかき集めようとして、手の隙間から零れていった。
そういう目を、していたのだ。
ヒーローであれば救えたのか。そんな慟哭が聞こえてくるような、昏い目を。
「失敗して、助けられなくて、自分のしていることに意味があるのか分からなくて……自棄になった結果があのザマだ。まったく、笑えるよな……本当に……」
結局、そういうことだった。
悪魔が大仰な理想だと吐き捨てた通りだった。
ましてや、自分すら救えない者に他者を救える資格などあるはずもなく。
「平凡では何も変えられない。きっと、ヒーローでなければ誰かを救うことはできないんだ。この世界は、そういうふうに出来ていた。神様は、そういうふうにルールを定めた。それだけのことだったんだよ」
「……そんなの、ふざけてる」
吐き捨てる。
どうしても、それだけは不愉快で仕方がなかったから。
対して、少年は笑っていた。失笑というより共感であったように見えたのは、自分の気のせいだろうか。
「……そうだな。確かに、ふざけてるよな」
いいや、気のせいなどではない。
少年は思わず笑ってしまったのだ。少女の言葉が、あまりに自分の心をそのまま代弁していたものだったから。
資格だとか、規律だとか。誰かが決めた通りの世界なんて気持ち悪い。
「バッドエンドがトゥルーエンドなんです。受け入れてくださいなんて言われても、納得できるわけがないんだ」
少年の身体に火が灯る。
再び炉に焚べた屑鉄が、烈火の炎に燃えていく。
こんなところで終われない。
陽依の目に心なんて見えないけれど、少年の目に宿った光がそれを語っていた。
少年は、
「ありがとう、陽依。今まで助けてくれて。それほどにまで想ってくれて」
災厄の獣が動く。
天照大神が獄炎の矢を放つ。矢の軌道は逸れることなく、標的へ向かっていく。
……もし天の上から世界を見下ろす神がいたのであれば、この状況に対しそういった描写をするのだろう。
しかし少女にとっては些事であった。
言葉の続きが聞きたかった。彼の答えが欲しかった。
大神陽依に、神和終耶の心は晴らせない。
でも。
それでも彼が感謝を言ってくれる。こんなにも惨めな少女の心に、彩りをくれる輝きを。
「きみが俺の心を晴らせなくても、きみは確かに、俺の道を照らしてくれたんだよ」
折れて、挫けて、自暴自棄になって。
それでも少年が諦められきれなかったのは、間違いなくその少女の存在があったから。
ずっと傍にいてくれて、少女の笑顔が行き先を照らしてくれたから。
太陽に雲は晴らせない。
でも、雲の合間から道を照らすことは出来るのだ。
「──────」
少女は何も言えなかった。
頬を伝う涙を拭うことさえ出来なかった。
そう。
大神陽依は自分を救うことは出来なかったけれど、それでもただ一つの真理を示したのだ。
太陽の光は、邪悪を祓う。
少女の笑顔は、誰かを救う力になった。
故に。
ここに、ヒーローの存在は証明された。
「相手が誰であろうとも、きみの笑顔が力をくれたんだ。きみがしてくれたことは、全部、嘘なんかじゃなかったんだよ。だから───」
だから立てる。立ち向かえる。
振り返りざまに抜刀し、放たれた神の矢を受け流す。標的を外した獄炎は軌道を変えて、後方で巨大な火柱となった。
陽依は、その光景から目を逸らせなかった。
日本刀を握り、こちらに背を向けて。
彼は肩越しに、優しく笑って。
「だから、今度は俺が助けるよ」
大神陽依には確かに、神和終耶がヒーローに見えた。
「ここで終わらせる」
不幸を嫌い、悲劇を嫌い、非業の末路を許さなかった少年は宣言する。
たとえ、この
どこまでも現実は残酷で、夢も希望も、未来さえも、暗雲に覆われてしまうのだとしても。
「俺は、絶対に!
この物語にハッピーエンドを。
そこだけは絶対に、誰であろうと譲らないのだと。
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