第二章 宿業は夢と願いを力に変える Ⅳ


   12


 夜。

 神和は大した進捗もなく脱力していると、スマホが通知を鳴らした。音から察するにチャットアプリだ。スマホのスリープ状態を解除し、通知から内容を確認する。


『例の禍津鬼と遭遇した』


 思わず目を剥いてアプリを開いた。


『大佐〉何もない所から突然現れた。姿形は目撃証言通り。身体能力も野生の獣程度だと思う。明確な出現条件は不明だが、明るい場所を避けているように思えた』

『大佐〉厄介なのはその性質だ。見るだけで拒絶反応が起こり、攻撃を受けたら精神衰弱を避けられない。俺も直撃を貰っていたら危なかったと思う』

『陽依〉難敵ね。倒したの?』

『大佐〉いや、撤退した』

『大佐〉近くにいた召喚士が火の玉を飛ばしたがすり抜けたんだ。こちらの攻撃がどこまで通用するのか分からない以上、戦闘するのはリスクが高い。撤退が最適だと判断した』

『雉郷先生〉今確認しました。なるほど、それは厄介な相手なのです。犠牲者は出たのですか?』

『大佐〉結果的には10人以上です。一緒に逃げ切った数人も、しばらく暗い場所には近付きたくないと言っていました。全員保護して、付近の精神病院に引き取ってもらったので今もそこにいると思います』

『雉郷先生〉分かったのです。私の方で細かい処理はしておきます。貴方もお疲れ様でした』

『大佐〉ありがとうございます。お願いします』


「ルシウス、禍津鬼の正体は分かるか?」

『候補はあるが特定は難しい。実物を目にすれば話は違うだろうがな。急を要するのであれば接敵が最も手っ取り早い』

「……分かった」

 ルシウスの知識の正確性は既に理解している。正体特定の条件が『直接見ること』であるなら、これ以上分かりやすいことはない。


『神和〉今ルシウスに聞いてみたんだが、直接見れば特定できる可能性があるらしい。明日の放課後探してみようと思う』

『陽依〉一人じゃ危険じゃない? 私も一緒に行こっか?』


「……………………………………」


『神和〉大丈夫、確認したらすぐ逃げるから。何か分かったら連絡するよ』

『大佐〉健闘を祈る』

『雉郷先生〉怪我だけはしないようにするのですよ』

『陽依〉そう、気をつけてね』


 静かにアプリを閉じた。

 重い息を吐く。

 自分の部屋は、まるで牢獄のように窮屈だった。


   13


 人の気配を感じないからだろうか。

 禍津鬼を探すために足を踏み入れた路地裏は、どこか現実から切り離されたかのような、或いは世界の裏側に来てしまったかのような感覚を覚えた。

 幅は成人男性が余裕を持って二人並べる程度。

 禍津鬼の出現条件に合うように、夕方にも関わらず薄暗い場所を選んだ。普段であれば、不良と出会うイメージが強いくらいの場所だ。

「……ルシウス」

『ほう、鼻が利くな。その角だ。呑まれるなよ』

 手前で大きく深呼吸。緊張を落ち着かせ、曲がり角を進む。

 そこに。

『影』が、揺らめいていた。

 相手も振り向き、視線が交差する。

「っ!!??」

 突如として内臓をかき乱すような吐き気が襲う。直視することすら容認し難い邪悪。じわじわと思考が蝕まれ、抵抗する意志すら虫食いにしていく。

 その洗礼に耐えきれず、神和は無意識に目を逸らす。

 見ただけだった。

 それだけなのに、これほどの拒否反応。

 直感で理解した。

 あれは、人が敵わない者……いや、人が立ち向かってはいけないモノだ。

 確かに姿形は狼に近い。図体も同程度だろう。

 だが、理性を握り潰すような嫌悪感を前にして、冷静で居続けろという方が無理な話なのだ。

 あの大佐が、正面から戦うのを躊躇ったのも納得がいく。

 でも。

(…………………………………………………………………………………………まだだ)

 頭を過るノイズは赤かった。

 それで神和を支配していた恐怖は霧散した。

 意識を現実に引き戻し、もう一度禍津鬼に目を向ける。撤退するにしても、相手の位置くらいは確認しておきたかったのだ。


 しかし、そこには何もいなかった。


「……………………………………………………え?」

 いくら拒絶反応に悶えていたとはいえ、目を逸らした状態でも周囲の物音くらいは判別できる。

 ここは一本道。隠れられる場所もどこにもない。

 それなのに、忽然と姿を消すことなんて───、

「……いや」

 大佐の話はこうだった。

 禍津鬼は、何もない所から突然現れた。

 もし、禍津鬼が何もない所から現れることが出来るなら……。

「……感知されずに、姿を消すことも出来る……?」

 この時点で、既に神和は間違えていた。

 正誤はこの際関係ない。どのような仮説であれ、思いついたのであれば即座に対策を取るべきだったのだ。この場合は、具体的な撃退方法などではなく。

 例えば、そう。


 不意打ちを警戒する、とか。


「!?」

 反応が遅れた。完全な死角からの奇襲だった。

 おそらくは尾に当たる部位が神和の腹を捉える。影のようだ、という印象も間違いだった。禍津鬼の尾は鞭のようにしなり、少年の体を容易く宙に浮かせるほどの力があった。

 放物線を描いて地面に叩きつけられる。咳き込みながら起き上がると、大顎を上げる禍津鬼が見えた。

 対して神和は自棄だった。

 ほぼ反射で、その下顎を拳で突き上げる。禍津鬼は少し怯んで後退したが、ダメージを与えられた手応えはない。

「効いてない……?」

『愚か者め。災禍に人の拳が通じるとでも思ったのか。いや、しかし……

「何を……」

『敵から目を逸らすな戯け。追撃が来るぞ』

「クソッ!」

 後方に跳んで距離を取る。さっきまでいたコンクリートの地面を、禍津鬼は頭部を槌のように変化させて粉砕した。

「おいルシウス! あれを倒す方法はないのか!!」

『無い。今の貴様には、という意味ではなく、あの災禍はその在り方故に如何なる干渉も受け付けない』

「なっ」

『そら来るぞ。呆ける暇があるなら被弾しないことに注力しろ』

 はっとして二歩後ろに下がる。先程までいた場所に刃物のような尻尾が通過した。

「クソ、何なんだあれ!?」

『マガ、或いはワザワイ。天災、疫病、枯渇、腐食、傷害。挙げればキリがないが、それらは全て命あるものを死へ至らせる「可能性」の一つ。あれはその集合体だ。本来であれば触れただけで死に直結する代物だよ』

「は───?」

 突然明かされた正体に頭が理解を拒む。しかし即座に疑問となった。

「待て、じゃあ何で襲われて精神衰弱だけで済んだんだ?」

『純度も密度も足りていないからだ。可能性すら形にならず、それを目にした時の恐怖しか具現化していない。まぁ、加護を持たない人間にはどちらにせよ劇物だがな』

 禍津鬼はビルの壁を伝い、爪を振るう立体戦闘に移行した。その脚ごと側面を裏拳で逸らし、受け流す。

『疾く撤退しろ。祓えないのであれば相対しても得はない』

「わか───っ!?」

 再び噛みつきにかかる禍津鬼を、肘と膝で挟むことで受け止める。しかし、それで終わらない。その背中が、不気味に泡立ったのが見えた。

 回避は間に合わない。距離を取れるほどの猶予もない。だから、せめて致命傷にならないように体を曲げる。

 直後、禍津鬼の背中は無数の槍に姿を変え、肩や腕を貫いた。

「が、……っ」

 その瞬間、精神が呆気なく崩れていくのを感じた。

 脳をかき回すような不快感に満たされた。

 墨が水をじわじわと染めていくように、先程まで稼働していた思考が塗り潰されていく。

 精神が汚染される。魂が穢される。

 正の感情は摘み取られ、負の感情が浮き彫りになっていく。

 これまでの記憶が掘り起こされ、そこに眠る悪感情を呼び起こしていく。

 その中に、一瞬だけ。

 少女の姿が見えた。

「───ッッ!!」

 体を貫く『影』を強引に引き抜き、禍津鬼の鼻頭を蹴り飛ばす。

 傷跡はない。どうやら本当に、禍津鬼は肉体的損傷を与えないらしい。

「はぁ……っ、はぁ……っ!」

 侵食は止まった。辛うじて周囲の状況も認識できる。

 だが動悸が収まらない。荒い呼吸も落ち着かない。体に力が入らないまま、立っているのがやっとだった。

 ぼやけた視界に爪を振りかぶる禍津鬼が見えた。

 体を捩って直撃は避けるものの、足がもたついたことで尻餅をついた。

(ぁ───っ)

 禍津鬼は自分の攻撃が外れると、Uの字を描くように、前脚を支点にして進行方向を変える。そして、再びその大口を開けた。

 心を砕く牙が迫る。

 その時だった。


 ゴオッッ!! と、目の前で赤い一閃が駆け抜けた。

 それが炎だと認識したのは、それから少し遅れてからだった。

 出どころは刀を模した炎剣の軌道。あらゆる陰を照らす輝きを持っていた炎剣の前に、長い黒髪が舞う。誰かが神和を庇うように前に出たのだ。

 一撃を受けた禍津鬼が空気に溶けるように消滅する。

 そして、乱入者の正体は神和がよく知る少女であり。

 その少女がもたらしたのは、禍津鬼の討伐という紛れもない事実であった。

「………………陽依」

 ポツリとその名前を呼ぶ。しかし当の本人には聞こえなかったようだ。 

 脅威が無くなったことがはっきりしたからだろうか。思考が落ち着きを取り戻していく。それと同時に、まるで布団の中で一日の出来事を振り返る時のように冷たい感情がその息を吹き返していた。

「どうやら、私だったら祓えるみたいね」

 そんな、何気ない一言に心がざわつく。

「アンタも変わらないわね。あれはそんじょそこらの不良とは違うのよ? ほら、アンタ傷だらけじゃない。……まぁ、擦り傷で済んでるようならまだマシな方かしら」

 その声色は、どこか安心していた様子であった。

「攻撃が通じないなら逃げた方が賢明でしょ。誰かを助けようとしているなら……うん、しょうがないかもしれないけど。今回はそんなになるまで頑張らなくても良かったじゃない」

 その通りだ。

 彼女は何も間違っていない。

 陽依は少年を批難したくて言っているわけではない。

 怪我をしてほしくない一心で、悪意も皮肉も、嫌味さえも込められていない。純粋に、自分の身を案じているからこその忠告であることは分かっている。

 分かっているのだ。

 だから出てくるな。

 ずっと、ずっと。心の底にいたんだから、今になって湧き出てくるな。

「ちょっとじっとしてなさい。応急手当くらいはしてあげるから」

 抑え込んでも溢れてくる。

 心に渦巻いていた少年の感情を食らって、際限なく肥えていく。

 陽依が慣れた手付きで応急処置を終えた後でも、それは収まることはなく。

 膨れ上がった負の感情は、目に見えるもの、耳に届くものを全て悲観へと塗り変える。

 それゆえに。

「ちょっとは周りを頼りなさいよね。

 その気遣いは、歪な形に変換される。


『お前一人に守れるものなど無い』という、少年が最も聞きたくなかった批難へと。


 だから。

 そんな人間の根底に潜む怪物の前では、冷静な思考で構成される理性など、脆弱な薄氷に等しかったのだ。

 哀れな少女は、最後まで少年の異変に気付けなかった。

「そ、その……言ってくれればいつでも力を貸してあげるから───」

「じゃあ、お前だったら出来たのか」

 声が、漏れた。

 どこまでも冷たく、抑揚はない。

 それは少年の怨嗟であり、積年の恨みが込められた言葉であり、心の奥底で渦巻く呪詛の一端だった。

「ナギ……?」

「お前なら、みんな救えたのかよ。俺が届かなかったヤツも! 天照大御神なんてすごい神様を召喚したお前なら届いたのかよ!!」

 気付けば脇目も振らずに怒鳴り散らし、胸ぐらを掴んだまま力任せに壁へ叩きつけた。応急セットが陽依の手を離れ、汚い地面の上に散らばった。

「あぁそうだ、俺だって分かってるさ。神和終耶はヒーローなんかじゃない。ただの巡り合わせだなんて嫌ってほど身に染みている。……

 いっそ、獰猛な笑みすら浮かべて。

 その瞳に怒りも憎しみも綯い交ぜになった感情が渦巻いて。

「だからお前なら、禍津鬼も鼻歌交じりに祓えるお前なら、俺なんかより多くの人を救えるんだろ!! なァ!!!!」

「……ぁ、……苦、しい……っ」

「っ!?」

 ぎょっとして手を離す。

 支える力を失った陽依の体は、そのまま重力に従って尻餅をついた。

 彼女の咳き込む声が聞こえる。

 目の前にいるはずなのに、その声は遠い場所から聞こえてくるように感じた。

 顔を歪ませたまま前髪を掻き上げる少年は、後退りして壁にもたれかかる。

 嫌な汗が、背中を伝っていた。

「……そうやって、無能おれの前で優越感に浸るのがそんなに心地良いか。自分より劣った人間を上から目線で批評することがそんなに気持ち良いのか」

 違う。

 そんなことを言いたいわけじゃない。

 感謝している。恩だってある。陽依の力と想いに助けられたことだって少なくない。

「俺より強い奴なんて掃いて捨てるほどいるっていうのに……俺が知らないだけで、ヒーローに向いてる奴が他にもいるはずなのに……何で、どうして───」

 まるで誰かにブレーキを壊されたかのように、その口は止まらない。

 八つ当たりでしかない。それを、神和自身が誰よりも理解していた。

 陽依は何も悪いことはしていない。

 していないのに。

 それでも、溢れた黒い感情は善意というものを容易く押し流す。

 こんな醜いところを、この少女にだけは曝け出したくなかったのに。


、『……」


 息を呑んだ音がした。

「……迷惑だった?」

 蚊の鳴くような声だった。

「私のしてたこと、迷惑なだけだったの……?」

 縋り付くような声だった。

「ただいたずらに苦しめてただけで……私だけが力になれてるって勘違いして、思い上がってただけで……私、私って……」

 今にも泣きそうで、続く言葉だけは否定してほしそうな声で。

 少女は、問う。


……?」


 口が開かなかった。

 行動は黒い感情に流されて何一つ起こせなかった。

 だから、答えは沈黙。

 この時それが何を示すことになるのか、火を見るよりも明らかだった。

 やがて、少女はフラつきながら立ち上がって、路地裏から去っていく。

「っ!!」

 手を伸ばす。

 ───傷つけたのはお前だ。

 ───そんなお前が、今更何をしようっていうんだ。

 だがそこまでだった。自分が何をしようとしたのかさえ分からなくなった少年は、その場で立ち尽くすことしか出来なくなった。

 そして。

 幼馴染の少女は、たった一言。

 振り返らないまま、震えた声で。

「ごめんね」

 それが最後だった。

 少女は駆け出して、足音さえ聞こえなくなった。

 足は動かない。

 神和の身体能力であれば今からでも追いつけるはずだ。寮がどこにあるかも頭にある。ここからどう向かえばそこに着くかも知っている。意思さえあれば行動に移すだけで追いつけるはずなのだ。

 追いついて、死ぬほど頭を下げて、彼女に許してもらう。

 それだけのことだ。

 それだけのはずなのに。

 足は、動かない。

 ダンッッ!! と鈍い音がした。

 とある不良がその拳を壁に叩きつけた音だった。

 その不良は奥歯を噛み締めて、己の所業を振り返って。

 呻くように、言った。


「───最ッ低だ、俺」

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