第三章 少女は己の信仰に首を傾げる Ⅰ


   1


 結局、あれから謝罪の連絡すら出来ずに夜が明けた。

 通学路を歩く。学校に行く気分にはとてもなれなかったが、そんなことも言ってられない。

 神和は、あの少女を傷つけた。傷つけられた人間の存在を棚に上げて、自分だけ『そういう気分じゃないから』という理由で逃避するなんて罷り通ってはならない。

 ……正直に言って、今も蝕んでいる悪感情は消えていない。だがそれ以上に、罪悪感が心を包んでいた。

「……謝らないと……」

 縋る。

 謝れば、何か変わると信じて。

 揺らぐ心を安定させる確かな術を、少年は知らない。たかが一七年程度生きてきただけでは自分の心を律する方法すら確立できていないのだ。

 ヒーローになりたいだなんて、聞いて呆れる。

 たった一人の少女すら、守れなかったのに。

 一番近くにいてくれた少女を、無慈悲にも傷つけたというのに。


   2


 どれだけ頭のリソースを他へ割いていても、自分の体は無意識下で学校に辿り着けるらしい。帰巣本能という言葉を耳にしたことがあるが、神和にとって学校は縄張りや巣に近いようだ。まぁ、一日の三分の一を過ごす場所なのだから納得はできるが。

 教室で、その時が来るのを待つ。

 次々と登校してくるクラスメイトの声が、右から左へ流れていった。

(……そういえば、休みだったらどうしよう……)

 今になって焦ってきた。最悪、女子寮を訪れる必要があるかもしれない。

 ……そんな事を考えている時であった。

 やはり、優等生と言うべきか。

 大神陽依は、変わらず時間通りに登校した。

「っ!!」

 姿を確認すると同時に立ち上がる。突然の行動に後ろのクラスメイトが驚いていたが、今は気にしている場合ではない。

 逸る心臓に顔を歪ませながら、その少女に近付いていった。

「おはよう、陽依。あの……昨日は……」

「……あら」

 少女が、陽依が反応する。


「おはよ、ナギ。もう、顔色悪いわよ? 朝ごはんちゃんと食べたの?」


 彼女は変わらず、笑顔を浮かべた。

「陽依……?」

「? 何よ、私の顔に何かついてる?」

 変わらない。

「いや、その……だから、昨日は……」

「昨日? あぁ、あのこと。大丈夫よ、気にしてないし」

 声色も。表情も。何もかも。

「っていうか、そんなことより私の質問に答えなさいよ。体の調子とか平気なの? 大丈夫なら良いんだけど……禍津鬼の影響が残ってるかもしれないし、無理はしないでね」

 本当に、何一つ変わらないのだ。気にしていないだけでは説明がつかないほど。

 まるで、昨日のことなど無かったかのように。

「ちょっと、ナギ? 聞いてるの?」

「……聞いてる。うん、朝飯抜いちゃってさ」

「やっぱり。出来れば腹持ちの良いものが良いんだけど……、今日は生憎とお弁当作るの忘れちゃって手持ちがないのよ。ごめんね」

「いや、気にしなくてもいいけど……飯を食わなかった俺が悪いんだし」

 バツが悪そうに笑う陽依が、教室にある時計に目を向けた。

「……っと、もうこんな時間。じゃあナギ、また放課後にね」

「あ、あぁ……」

 ホームルームの時間が近い。席に戻る陽依と入れ替わりに大佐が話しかけてきた。

「何だ、また大神陽依に小言を言われていたのか」

「まぁ、な。……にしても、時雨は今日も休みなのか」

「そのようだな。まぁ家の会合ってだけで病気にかかったわけでもないし、来週にはケロッと顔を出すだろう」

 無意識にそれ以上踏み込まれることを嫌ったのか、欠席しているクラスメイトで話を逸らした。

 知ってか知らずか、大佐はそれ以上追求することはない。

「……しかし」

 ポツリ。

 陽依の様子にやはり引っかかりを覚えたのだろう。

 大佐の顔は被り物で見えない。だが、顎に手を当てる彼の姿は訝しげだった。

「珍しいこともあるものだな。いつもであれば、自分の弁当を分け与えるくらいはしそうなもんだが」

「──────、」

 幼馴染に食事の世話までしてもらっているというわけではない。神和が朝食を食いそびれた時に彼女の昼食の一部を分けてもらった機会が過去にあっただけだ。

 神和は毎回昼食を用意するわけではない。面倒でやらない時もあれば、作り忘れて用意できなかったこともある。

 そんな適当な側面がある神和には気づけなかった。

 或いは、二人の様子を近くで見てきたからこそ大佐は気づけたのかもしれない。

 あの大神陽依が昼食の用意を忘れた。

 そんな些細で、うっかりで済ませられるようなことに潜んでいる違和感に。


   3


 ひと目見て、雉郷先生はその異変に気付いた。

 最初は違和感止まりだったが、彼の物憂げな表情が確信に変えた。

 教師として、そんな生徒を放っておくことなど出来ない。原因に目星は付いているが、それはそれ。あの少年が発端ならばもう少し罪悪感に苛まれるべきだろう。

 だから。

「大神さん、少しよろしいですか?」

「? 構いませんけど」

 定例会議が始まる前に、その心に寄り添いたかった。

 陽依を生徒指導室へ連れていく。きっと、他人には聞かれたくない話のはずだ。

 幾多の生徒を見てきた雉郷先生が見抜けないほどの『いつも通り』。それが出来ることが、いや、出来てしまうということがどれだけその人間にとって不幸であるものか、彼女は知っているのだろうか。

「かけて待っていてください」

「分かりました」

 生徒指導室に入ると、出迎えてくれたのはコーヒーの匂いだった。

 外に面した窓からは、アサガオやゴーヤを利用したグリーンカーテンが太陽の光を制限し、限られた陽の光が中央の洋風テーブルとソファのセットを照らしている。

 他にこの生徒指導室で目を引くものといえば、やはり備え付けられているキッチンだろう。IHコンロに冷蔵庫、電子レンジにオーブンまである。理事長に嫌がらせ目的で申請し、二つ返事で了承された時は逆に度肝を抜かれたが。

 冷蔵庫にある牛乳をカップに注ぎ、電子レンジで温める。その間に、自分用のコーヒーを淹れた。二つのカップを並べ、砂糖を入れる。中身を軽くかき混ぜて、陽依の前に差し出した。

「単刀直入にお聞きしますが、何かあったのですか?」

「えっと……それが、ですね───」

 僅かな逡巡。

「その、先週言っていた『万物照応』から発展した理論のことなんですけど」

「あぁ、ありましたね」

「それについて気になってまして。だからもっと詳しく聞きたいなぁ、って……」

 明らかにはぐらかされた。話の転換がいくらなんでも雑すぎる。今の会話を聞いて、額縁通り受け取る人間の方が少ないだろう。

(……相手が私であっても話したくない、ということですか)

 思考する時間を、コーヒーを飲むことで紛らわす。

「まぁ、あれは先生が考えたわけではなくよそからの受け売りなのです」

「そ、そうなんですか……?」

「えぇ。良い『教材』になるかと思いまして。実を言うとこの理論はなしを一番したかったのは神和くんなのですが、別に貴女が聞いても損はないでしょう」

 あの少年の名前を出した時に僅かな変化が見られたがそれだけだった。瞬きをしたら、いつもの陽依に戻っている。

「人は、正体不明のものに名前と理由を求めるのです。その最たるものが神と悪魔でしょう。神には世界の機構と始まりを。悪魔には人の罪過とパラドックスを」

『理解できないものを、説明できるように』。中には、そういう理由で名をつけられたモノもあるのだろう。現に、現代科学が発達していない時代には精神異常を悪魔が憑いたせいだと信じられていたのだから。

「しかし、科学の発展により神話だけで世界の理を説明するのは不可能になりました。それでも、神や悪魔は存在します。他でもない、科学では証明できない召喚魔術が、彼らの存在を証明しているのです」

 物理法則を紐解き、精神病や時代背景などが明らかになるごとに彼らの神秘性は霞んでいく。それでも、『いない』と断言することが出来ないのが現状だ。

「科学が神秘を否定しきれないのなら、かつて否定された神秘には別の解釈があるのかもしれない、ということなのでしょう」

 この辺りは教科書に載るほど事実と認識されている歴史でも、今もなお新説を唱える人がいるのと同じかもしれない。

 雉郷先生は小さくため息をつく。

「マクロコスモスとミクロコスモス。全ての物事は干渉し、感応している。どちらも作りが似通っていて、構造も同じ。宇宙と人体が互いにリンクしているのだとすれば、私達もそれぞれが一つの小さな宇宙であると言えるでしょう」

 そこから、『寄り道授業』の理論へ繋がる。

「自分の中には世界があり、その世界を自由に歪めることが出来る。だとすれば、この世界の事象も『誰か』の手によって引き起こされている。そういう考え方も出来るのです」

「神様とは違うんですか?」

「見方が違います。神様はあくまで、内側から世界を歪めます。個々の世界全てを統率し、支配下に置く者はいません。一国の王は地球の王とイコールでは結びつかないでしょう?」

 だから、神様とは違う。

 世界を内側からではなく、外側から歪められる存在。

 全てを見下ろし、統率し、監督する。

 それはまるで、『管理者』のような───。

 そんな、突拍子もない話であった。科学者に話したら、鼻で笑い飛ばされそうな理論だろう。

 なにせ、この理論には致命的な欠陥があるのだから。

「でも、それって誰にも証明できないような……」

「その通り」

 あっけらかんと認める。理論を説明している割に、雉郷先生はその具体性に興味はない。提唱者本人であればまた違ったようだが。

「だいたい、仮にそういう存在がいたとしても結局は堂々巡りなのです。全てを統率する存在がいるとしたら、それらを統率する者も存在するはず。卵が先か、鶏が先かみたいな話ですね。だから、そういう存在が本当にいるかどうかなんてどうでもいいのです。いようがいなかろうが、認識できなければ我々にとってはいないモノとそう変わらないのですから」

「じゃあ、何で……」

「……よく『授業で習った大半は社会では役に立たない』と言う生徒がいますが、まあ、実際その通りなのです。誰でも使用するのは四則演算くらい。二次関数や漢文の読み方などはそういう専門分野に進まなければ触れる機会すらないでしょう。……ただ」

 人差し指で自分の頭を指す。『使わないから勉強しても意味が無い』という生徒の解答に対し、『使わなくても勉強をするべきだ』と語る教師の結論を。

「その時使った頭はこの先ずっと使うのです。授業の内容が将来の役に立たなくても、そこで育てた頭は、必ずどこかで役に立つ。いつか自分を助けてくれる。学校は授業と説教を聞くために来る場所ではなく、社会に出た時に困らない自分を作るための場所なのですよ」

 だから。

「結論は変わらないのです。重要なのは、自分の視野を広げること。大事なのは、自分の想像力を育てること。ただ一つの考えに固執しては、いつか足をすくわれる。私は、そういうことを言いたかったのですよ」

 後先考えず行動するというのはそれだけリスクが伴う。

 かつての比良坂雉郷はそれで失敗した。

 全ての子どもたちを、などと贅沢は言わない。

 せめて、自分が見ている教え子たちだけでも同じ道を進ませたくはなかった。

「……それで」

 それが本人たちの望まない道であるなら、尚更。

「引っかかっていたのは、本当にそれだけですか?」

「…………」

 黙り込む。その目には迷いが見える。相談するべきか、否か。

 しかし、そこまで迷うのであれば答えは決まっているだろう。

 直面している問題に対し、誰かに相談するという手段は有効だ。

 友人や教師、家族などに相談すれば、自分では思いつかなかった解決策が見つかるかもしれない。

 それでも、最後に決めるのは自分なのだ。

 そして、自分で決めた解答が、他人が提示したもので良いのかどうかはまた話が変わってくる。

「……いえ、やっぱり結構なのです。無理に話さなくても良いですよ」

「……すみません」

「謝る必要はないのです。悩みにはいくつか種類がありますが、自分自身で答えを見つけなくてはいけないものであるなら、部外者が口出しすべきではないのですから」

 教師とはいえ生徒がどうするべきかを全て決める権利はない。

 先を生きる者として、生徒を支え、導くものだ。そこから決して外れてはならない。

 しかし。

「……いけませんね。貴方たちのことになると、どうにも構いすぎてしまうようなのです」

「それは……」

 自嘲する雉郷先生の言葉に対し、陽依は穏やかな笑みを浮かべた。

「私は嬉しいです。雉郷先生が私を、私たちのことを大切に想ってくれて。いつもありがとうございます、先生」

「……面と向かって言われると恥ずかしいのでやめるのです」

 こちらの様子が面白いのか彼女はくすくすと笑う。微々たるものであっても、少しは元気づけることが出来ただろうか。

「少し、気が楽になりました。私は先に行ってますね」

「えぇ。少ししたら私も向かうのです」

「はい、それでは失礼します」

 陽依はホットミルクを飲み干して、生徒指導室を後にする。

 誰もいなくなったその室内で、残りのコーヒーに手を付けた。

 思春期の少年少女は、色んなことを知って、経験して、迷い惑い悩むものだ。それが大小あるとはいえ、間違いさえ犯さなければ当事者の意思を尊重するべきなのだ。

 多少は心を鬼にしてでも、自分の道は自分で決めさせなければならない。そうしなければ、誰かに頼ることを前提にした人生を歩みかねない。

 自分で選択せず、これから訪れる幾多の選択を他人に丸投げする。そんな人間にはさせたくないのだ。

 だが、頭のどこかで引っかかる。

 今まで見てきた、悩みを抱えてきた生徒とどこか違っているような気がした。

(あの目……)

 僅かに見えた、瞳の奥。

 綺麗だと思っていた川の水が、調べてみたら雑菌の温床だったことに気付いた時のような印象の乖離。

 あれは、いったい何だったのだろう。

 答えは出ない。

 泥のようなコーヒーの水面には、自分の顔が反射していた。

「……どうやら、砂糖の量が少なかったようですね」


   4


 定例会議のために再び旧校舎へ足を踏み入れた神和は、指定された教室の扉を開ける。カビ臭い教室の中には誰もいない。

(トイレに寄っても一番乗り、か)

 換気をするために窓に近付く。定期的に誰かが掃除をしに来ているのか、思ったより汚れていなかった。

 開いた窓から湿った空気が入り込む。明けかけとはいえまだ季節は梅雨だ。いつ雨が降ってきてもおかしくない。帰りに雨が降らないでほしいなぁなんて、適当なことを考えながら遠くの入道雲を眺めることにした。

 少しして、視界の端に大男が現れた。

「おぉ、ナギ。来てたのか。あの二人はまだか?」

「みたいだな。っていうかさっき連絡来てたろ、見てないのか?」

「む……? マジだ。すまない、気が付かなかった」

 スマホを片手で弄る大佐の肩にはショルダーバッグが掛けられている。運動部が靴やユニフォームを入れるような大きめのものだ。

 教室に入って早々、大佐はショルダーバッグから紙束を取り出していった。会議の資料に使うものだろう。それとは別に、黒板半分を覆うほどの大きな紙を黒板に広げていく。デカデカとここ周辺のマップが印刷されていているが、どうやらウェブ上にあるマップをアレンジしたものらしい。明らかに何かのソフトを使って自作している。

「すごいなこれ……手作りか?」

「まぁな。黒板にチョークだと表現に限界がある。急ごしらえだが、まぁそれなりに使えるものになってるだろう。なってなかったら土下座する。オプションで切腹もつくぞ」

「要らねぇよそんな戦国時代みたいなカスタマイズ」

 大佐が用意したマップには簡略化された建物や路地裏を含めた道以外にも等高線が表記されている。他にも影ができる場所が薄く色分けされている。どれも遠くから見た時に共通点を弾き出しやすくするためのものだろう。

 続いて白と黄色のマグネットシートを取り出す。手のひらサイズにカットされた複数の長方形には、マジックペンで『現場』と書かれていた。それを、マップの上にペタペタと貼っていく。

 黙々と準備していくその背中は、どこか寂しげに見えた。

「……深く追求するつもりはない。話したくなければ話さなくて良い。二人の問題に俺が首を突っ込むのはお門違いだからな」

 こちらを振り返るが、やはり彼の表情は伺えない。

「だが、喧嘩しただけなら早く仲直りをしてほしい。お前たちの間に距離を感じるのは……鬱ゲーの胸糞エンドより見たくない」

「……悪いな、気を遣わせて。にしてもこんなに難しかったんだな、仲直りって」

「そうだな……」

 心が少し軽くなった気がした。

 大佐は『現場』プレートを貼り終えると、次は複数色あるマジックペンを教卓に並べていく。会議中に出てきた追加情報を書き込むために使うのかもしれない。

 自分が知っている情報とすり合わせる目的も兼ねてマップを眺める。

 被害状況は思ったよりも深刻そうであった。点々とした白プレートの『現場』を中心に、路地に沿ってマスキングテープが張られている。規模は一定の円状。その範囲内に、不規則に黄色プレートの『現場』が貼られている。これが何を指しているのかについても後で共有するのだろう。こちらもルシウスに禍津鬼の解説をしてもらうのだし。

「…………あれ、この場所って……」

『現場』の配置に見覚えがあった気がした。明確にこれ、とは言えないのがもどかしいところだが。

「思ったより本格的なものを用意してるのね」

「……陽依。なぁ、あの配置なんだけど、何か見覚えないか?」

「いくらなんでも漠然としすぎじゃない? ……うーん、特に思い浮かばないけど……」

 確かに確認するには抽象的すぎた。違和感を覚えた本人もはっきりしていないのに分かるわけがない。これで分かったらエスパーだ。

「みんな揃っているようですね、お待たせしたのです」

 最後に来たから、というよりは全員と比較して到着が遅いから出た言葉のように思えた。しかし陽依とはタッチの差だ。雉郷先生は昔から真面目な性格だったし、少し敏感になりすぎなだけか。

 何はともあれ、全員集合したことに変わりはない。号令は大佐からだった。

「よし、それじゃあ定例会議を始めよう」

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