第二章 宿業は夢と願いを力に変える Ⅲ


   9


 休みが明けて月曜日の放課後。神和は本校舎から離れたところにある旧校舎の教室に集められていた。他の面々は陽依や大佐と馴染み深い顔である。神和と陽依、或いは神和と大佐の組み合わせであればともかく、この三人で集められるのはなかなか珍しいケースであった。

 旧校舎は木造であるにも関わらず、よく校舎が壊れることに定評があるこの学園でも一度も再建されてないと云われている摩訶不思議スポットだ。聞いたところによると補強工事も一切行っていないらしく、ただ放置しているのか特別な事情があるのかは判断に困るところだ。以前はこれに尾ひれがついて怪談になったりもしたようだが、今ではほとんど聞かなくなった。

「というわけで集まっていただいたわけなのですが」

 などとため息でもつきそうな調子で呼び出した張本人───雉郷先生が教壇に立つ。こちらもこちらで『何がというわけなのだろうか』とげんなりするものの、状況を理解していないのでなんとも言えない。せめてバイトの時間になる前に終わってほしいところだが。

「さて、今回集まっていただいたのは理事長命令があったからなのです。いわゆるご指名、という奴なのですよ」

 これまた聞き慣れない単語が出てきた。理事長命令とは穏やかではないワードだ。成績不振が原因かとも思ったが、陽依に限ってそれは無いので別の理由があるのだろう。

「えぇ……でも俺これからバイトあるんですけど……」

「因みに参加すれば不足している出席日数の何日かを免除してくれるそうです」

「バイトには連絡入れておきます何用でしょうか雉郷先生」

「本当に貴方という人は……」

 雉郷先生は呆れ果てているが仕方がないのだ。いくら自業自得とはいえ、夏休みに出席日数が原因で補修まみれになんてなりたくない。花の高校生活なのだから満喫したいに決まっている。

 因みに陽依は内申点に追加され、大佐はエロゲ持ち込みの件を見逃してくれるらしい。多分後者は脅迫の類だと思う。物憂げな雰囲気を纏っている雉郷先生は監督として抜擢されたようだ。まぁ担任だし神和たちのことも熟知しているので適任だろう。

「ところで何で旧校舎ここなんですか? どっかの空き教室でも使えば良かったんじゃあ?」

「どうやら今回の案件は生徒や教員も含め誰にも知られなくないようなのです。旧校舎を選んだのも理事長なのですよ。まぁこの時期にここを訪れる人はいないでしょうし、適当な判断なのです」

 確かに新入生が探検するには遅すぎるし肝試しには早すぎる時期だ。そう考えれば確かに秘匿性は高いのかもしれない。

「さて、それでは本題ですが、何でもこの街に謎の『影』が出現しているようなのです」

「『影』……?」

「えぇ。形状は狼などの四足歩行の獣に近く、体躯もそれと同様程度。単独だけでなく群れで現れることもあり、昨夜も不良が襲われて病院に担ぎ込まれたようなのです。被害者もそれなりに出ており、どれも命に別状はありませんが、暗所、特に夜を酷く怖がるようになってしまったようなのですよ」

 ふむ、と大佐はその内容を咀嚼すると、

「被害者、あるいは事件現場に共通点はありますか? あと位置関係も把握できれば良いのですが」

「分かっているのです。一応それらをまとめた書類を作成したので渡しておくのですよ」

「……一部しかないんですけど」

「つまりはそういうことなのです」

 青筋が浮かびながら笑顔を浮かべているところを見るに、言われたのがついさっきなのだろう。職員室を凍えさせながら資料作りしている雉郷先生が幻視できる。印刷の設定なんて一〇秒もあれば出来そうなもんだが、そこまで気が回らないくらい焦っていたのだ。多分、おそらく、きっと。

 因みに有無を言わさず議長は大佐が任命された。


   10


「さて諸君。突然の招集に関わらず、この場に集まっていただき感謝する。早速本題だが、諸君も既に耳に入っていることだろう。例の件についてだ。各自、手元に配られた資料を見ていただきたい」

「資料なんて無いわよ。そもそもアンタが持ってるのだけじゃない。ほら、雉郷先生がすごい顔してるし」

「あー、なんか前に軍事会議のシーンをやってみたいって言ってたからそれじゃないかな。気持ちは分かる」

「男子ってバカなの?」

 否定できないのが悲しい。しかし男の子はロマンに弱いのである。修学旅行に木刀を買うバカは絶滅しないのだ。

「よし、満足した。というわけで改めて情報を共有しよう」

 パラパラと大佐が資料をめくりながら内容を確認する。資料の少なさはこちらからでも確認できる。A4の用紙が数枚。多分読書感想文の原稿でももう少し量があると思う。表情が見えなくても難しい顔をしているのが雰囲気で分かった。

「……これは……」

「大佐?」

「いや、何でもない。また厄介な案件を投げられたものだと辟易していただけだ。取り敢えず被害状況から共有しよう」

 大佐はボロボロの黒板にチョークで簡単にマップを書き出していった。学園を中心とした周辺が中心だが、こういう簡易マップでは省略される路地裏まで詳細に書き出されている。

 つまり。

「路地裏、か」

「勘が良いな。その通りだ」

『影』は全て路地裏に現れているのだ。大通りは勿論、店舗内といった室内に出現した報告は無いらしい。

「時間は全て深夜、特に丑三つ時が中心だな。オカルト的な意味もありそうだが、状況から鑑みるにそういうわけではないだろう。基本的に寝静まった時間に被害が集中した、と見るのが妥当だ」

「深夜か……。被害者の共通点は?」

「場所と時間が限定的だからな。被害者も当然、それに即した人物になる。要は不良が多めだ。それ以外に共通点らしい共通点は無い。ただ先程も雉郷先生が言っていたが、被害者は例外なく暗所恐怖症に陥っているらしい。これが精神的衰弱によるものなのか、それとも『影』の能力によるものなのかは調査中だそうだ」

「つまり、何も分かってないってことね」

「その通りだ。厄介だろう?」

「で、一番古い目撃証言っていつなんだ」

「去年だな。俺の知る限りではあるが、その時点で似たような噂は確立していた。マイナーな都市伝説としてオカルトマニアの中ではそれなりに有名な話だ。当時は『死神の使徒』だの『出会ったらそれは不吉の前兆』だの……まぁ適当に云われていたよ」

 そういえばこの変態はオカルト方面にも強いのだった。オカルトマニアの知り合いも多いのだろう。

「しかし、実際に襲われたというのは初めてだな。いやまぁ、以前から襲われた実体験を取り上げた動画やブログなんかは見かけたが、リアルな被害者なんて聞いたことがない」

「じゃあ今までのは全部ガセだったわけか」

「よくある話だがな」

 さて、と大佐は一度区切ると、

「この『影』だが、通り名が無いとこの先不便だろう。よって俺はこの正体不明の『影』を禍津鬼マガツキと呼ぶことにした」

禍津日マガツヒではないのね」

「神ではないからな」

 相手の正体も、目的も、どういった能力を持っているのかさえ分からない。解決するにしても情報が足らなすぎる。

「ひとまず情報を集めよう。俺は知り合いに当たって情報を洗ってみる。ナギたちは足で情報を集めてほしい」

「まぁ、そんなこったろうとは思ったけどさ」

「次集まるのはいつ?」

「ふむ、ひとまず三日後を目安にするか。しかしその日手に入れた情報はその日の内に共有しておくに越したことはない。SNSでグループを作っておくから、そこにまとめて投げておいてくれ」

 そんなこんなで解散となり、残り時間はそれぞれ情報収集に徹する運びとなった。

 しかし集まった情報は似たりよったりの目撃証言くらいであり、特筆すべき情報はついぞ出てこなかった。


   11


 調査を初めて二日目の放課後。

 通常であれば立ち入ることすら出来ず、仕切りに隠された通路を知らなければ辿り着けない路地裏の先にある場所に大佐は訪れていた。

 ここは相も変わらず光が差さない。ジメジメとした空気は肺にカビを生やすようで不快さがある。

 そんな通路を通り過ぎれば、少しひらけた場所に出た。

 先程の通路とは違って頭上に天幕が張られており、意図的に陽が差し込まないようになっている。壁にはスプレーを使った落書きが散見し、中央には焚き火と、それを取り囲むように椅子が並べられていた。

 数人の不良と思われるグループや、ローブに身を包んだ集団などがそれぞれ小さな円を作って何かを話している。内容は、大佐の位置からでは聞こえない。全体の数は二〇程度だろうか。

 そして、その一角。

 屋台のように机を並べている男へ大佐は近付いていった。

「よー大佐の旦那。久しぶりだっていうのに相変わらず分かりやすいねぇ。今日のお面はハロウィンマスクか。うーん、筋肉の主張が激しすぎてミスマッチ」

「悪いな、最近顔も見せずに。メンバーの一員なのに不甲斐ない」

「良いさ良いさ。どうせ暇な奴が暇な時に集まってオカルト談義しようっていう適当な会合なんだし」

 男はケラケラ笑った。しかし次の瞬間には、おちゃらけた雰囲気は霧散する。

 その顔は真剣そのもの。焚き火が不自然に揺らいだような気さえした。

「さて、用件は聞いてる。俺とあんたの仲だ。協力は惜しまねぇ。だがな、その前に見てほしいもんがあるんだ」

「お前ほどの人間が見てほしい、か……。相当だな」

「……あぁ。実はな、あんたに見せたかったのさ。これをよ」

「なっ、それは……ッ!?」

 机の下から何かを取り出す。大きさは人の頭と同程度。

 男が大佐に見せたがり、大佐が目を剥いたもの。それは、


「マスコットがあまりにもキモいデザインで話題を風靡した幻のエロゲのキャラグッズ!?」


 変なデザインの人形だった。

 メンダコを思わせる頭部にウーパールーパーのエラ、オオサンショウウオの胴体があるキメラであった。目の高さもあってないしやたらデカい。舌を仕舞い忘れた猫のようにちょっとだけ舌が出ているのも無性に腹立たしかった。

「ハッハァそうとも! 一時期SNSで話題になり、変な層に目をつけられた結果なんやかんやあって開発段階で頓挫したあのタイトルだ!!」

 何故発売もされてないのにキャラグッズが出てるのか不可解極まれりだが、おそらく会社がネタで試作したのをどっかの誰かが売り出したのだろう。それか、偶にネットに出没する野生のプロの犯行か。

 ゲテモノキャラとはいえその希少さからプレミアがついているはずだ。ともなれば、手に入れるには相当お金を積まなければならないということになる。

 ……本物かどうか怪しくなってきた。

「ま、いくら旦那が相手でもルートは教えてやれねぇがな。だーがどうしてもっていうんなら良い値で売ってもイイぜ?」

「いや要らん。普通にキモいし無駄にデカい」

 キモカワ動物を組み合わせたら最強のキモカワキャラになるだろうという魂胆が透けて見える。美味しいものに美味しいものをぶちこんだら美味しい食べ物が出来ましたというカレーうどんのような例は稀なのだ。

「そーなんだよなァー。俺もいらねぇんだけど衝動に流されて買っちまったんだ。どうすっかなこれ」

「オタクの性だな……」

 期間限定という単語に弱いオタクどもは同じ穴のムジナであった。

 元々この場所はオカルト好きな連中が集まるために作られた場所だ。先程の不良らもメンバーで、ローブ集団に至っては魔術師の類ではないただの一般人コスプレである。……召喚士は確かにいるが。

 そんな『集まる場所が無いなら作っちまえ』の精神で周囲の許可を取って場所を設けたオタクたちなので、どいつもこいつもそんな馬鹿ばかりなのである。

「……それじゃ、本題に移るか」

 そう、ここまでは前座。

 目の前の男はおちゃらける事はあっても根は真面目な人間だ。キモい人形の話はあくまで世間話に過ぎない。

「『死神の使徒』。懐かしいな、俺たちが話したのは一年前か」

「あの時も出現は唐突だったしな」

「そうそう、確か四月頃だったろ。『お化けがいる!』って騒ぎ立ててさ」

「そう、だったか? もう少し後だったと思うんだが」

「あぁ、旦那がこっちに来たのは高校からだったもんな。

「っ?」

 何か、違和感があった。

 当たり前の事実を見逃してしまっているような、そんな気がした。

「聞いてみるか? ちょうどそこに本人もいることだしさ」

 男が焚き火の方にいる不良の一団を呼ぶ。

 合流した話し手の顔は真っ青だった。

 どうやらここに来たのも、体験を共有して恐怖を和らげるのが目的だったらしい。

「さ、最初に『使徒』を見たのは一年前の四月だ。進級した直後だったからよく覚えてる……。形もなくて、黒いガスみたいだった……。その日はずっと、よく分からない恐怖が脳裏に焼き付いてて、眠れなかった……っ」

 途切れ途切れになる口を必死に動かす。

 季節は初夏であるにも関わらず、極寒の地にいるかのように震えている。不良は、そんな自分の体を守るように強く抱いた。

「でっでもっ、アレは違う! 昨日見た奴は、そんなのじゃないッ! こ、殺されるって……だから……っ」

 怯え方が尋常ではない。彼は襲われておらず、逃げ切ったはずだ。そこから考えると、『死神の使徒』は見ただけでアウトなのかもしれない。

 頭上を見上げる。

 天幕で遮られているが、隙間から夕焼け空が見える。丑三つ時まではまだ時間があるが……。

「旦那?」

「しばらくここは封鎖した方が良いかもしれないな。この会合も、みんなには悪いが場所を移して───」

 異変に気付いたのはその時だった。

(……霧?)

 辺りに漂っていたのは、自然では起こり得ない黒い霧だった。

(可能性としてはスモッグか煙霧だが……焚き火の煙か?)

 ───違う。

 まず頭を過ぎったのは、そんな否定の言葉だった。

 胸を掻きむしるような嫌悪感が、自分の中でじわじわと広がっていく。

「何だこれ、煙? おーい! そっちの焚き火、何かに燃え移ってねぇかー!?」

 外部からの情報は、時に疑念を確信へ変える。

(違う!!)

「いーやぁ? でも一応消しとくわー」

「っ、待て! まだ消すな!!」

 だが遅かった。焚き火の近くにいたメンバーが、バケツに入った水を使って消化した。

「ッッ、……ッ!?」

 明らかな変容。

 嫌悪感が拒絶反応だったことを理解するのにそう時間はかからなかった。

 光源は消え、その一帯には陰を照らす光はない。

 暗闇は暗黒を呼び、暗黒は深淵を喚ぶ。黒い霧はその濃さを増していく。やがては天幕の隙間から下りる僅かな陽光すらも覆って。

「──────ぁ、」

 ボコリ、と。


『影』が、泡立った。


 地面、壁、空中。場所は問わない。光が差さない全ての場所が『それ』の領域とでも主張するかのように増殖し続けていく。

 数に制限はない。

 溢れ出し、膨張し、姿を変えて、一つの造形へ圧縮されていった。

 輪郭は四肢を持つ獣に見える。

 姿勢から、形状はおおよそ狼だろうと推測される『それ』。

 会議で自身が名をつけた怪物───禍津鬼との邂逅であった。

「ひ───っ」

 誰かが悲鳴を上げた。

 いや、『悲鳴』という動作が出来ただけでも上出来だ。

 その場にいた誰もが動けなかった。思考を続けられた人間も大佐しか残っていなかった。

(呑まれるな……考えろ……。思考を止めるな、体に自由が戻るまで……っ)

 見るだけで不快感が支配した。岩の裏に集る虫の大群を至近距離で見せつけられたかのような、そんな嫌悪感が這い登ってきた。

 その正体が恐怖であることに、いったいどれだけの人間が気付けただろうか。

 恐怖に蝕まれ、思考することすらままならない。そんな状態の人間が、恐怖を自覚した時の行動なんて決まっている。

「ひ、ひぃぃぃぃ……っ!?」

「ま、待て無闇に動くのは……っ!? あぁクソ!!」

 先程まで談笑していた面影はこの一瞬で食い殺され、誰もが自分の身の安全を優先した。前を走る者を押しのけ、躓いた者には目もくれず、自己防衛の醜悪さを露見させる。

 禍津鬼の軍勢も一斉に反応した。

 会合場所から表通りまでは一本道ではない。十字路がいくつもあり、行き止まりも多い。だから何も考えず逃げるようでは袋の鼠になるだけなのだ。だが、恐怖に侵された人間はそんな理屈など考えられない。

 誰にも迷惑をかけないように奥に設けたのが仇となった。

 あの場から逃げ始めてから時間にして一〇秒も経っていなかっただろう。それなのに大佐の周囲にはもう片手で数えられる人数しか残っていない。悲鳴と絶叫もほとんど聞こえなくなった。声が届かない場所まで逃げられたのか、或いは。

「……っ」

 接触すら精神に致命傷を与えるかもしれない一撃は、真正面から受けられない。牙を剥く脅威を最小の動きで回避するが、他はそう上手くはいかなかった。不良の一人が、回避の拍子に転倒したのだ。

「く、来るなっ、来るなああああああああ!!」

 絶叫を交えながらその不良が拳大の火の玉を放つ。

 

「───へ?」

 間の抜けた声を出す不良に、禍津鬼が嗤ったような気がした。

「っ、呆けるな! 立って逃げるんだ!! 早く!!」

 叫んだ直後、大佐は己の間違いを自覚する。

 あの不良との距離はほとんどない。先程まで並走していたのだから、即座にUターンして倒れた不良を抱え上げれば、共に逃げることが出来たはずだ。大佐の身体能力であればそれが可能だったはずなのだ。

 だが間違えた。

 行動を誤った結果、禍津鬼の牙は不良へ到達してしまった。

「や、やだっ、助け───」

 その先は続かない。響くのは絶叫だけだ。嫌だ嫌だと子どものように喚くしかない声が、その凄惨さを物語る。

(どうするっ、どうするっ!?)

 大佐は恐怖に呑まれることはなかった。思考を続けられるほどの平常心は保ち続けられていた。だが、逆に言えばそこまでなのだ。恐怖を感じなかったわけではない。その全てを跳ね除けることは出来なかった。

 だから、僅かな恐怖は焦りとして表出した。

(雷霆で牽制を……いやダメだ、もしすり抜けたら助けるどころか瓦礫の下敷きに……っ)

 行動の選択肢が現れては次々と潰される。考えれば考えるほど身動きが取れなくなっていく。

 助けたい。攻撃しなければならない。逃げなくてはならない。見るだけでここまで恐怖を感じるのは何故だ。相手の正体は何だ。有効打はすり抜ける条件は自分の力は通じるのか正解はここから巻き返すには失敗した失敗した失敗した。

 そんなことがぐるぐると回って焦燥感ばかりが募っていく。

「……っ、すまない……っ」

 それでも、結論は出た。

 見捨てて、逃げる。

(分かっていたはずだ……)

 この先にはまだ数人の『生き残り』がいたはずだ。逡巡していた数秒の間に大佐を追い越した禍津鬼はいない。

 まだ、間に合う。

(分かっていたはずだ! あの理事長が解決を推進する時点で……っ)

 その間に、不良たちの背中が見えてきた。しかし、疲労のせいか速度は最初よりも格段に落ちている。動かす足もぎこちない。このままでは足をもつれさせて転倒するだろうことが推測できた。

 そして、そんな彼らが禍津鬼から逃げ切ることが不可能であることも、その禍津鬼の気配がもうすぐ後ろまで迫っていることも。

(まだ間に合う……)

 切り替えろ。見捨てたことに後悔があるのなら。

「間に合わせろッ!」

 案の定、一人が目の前で躓いた。しかし倒れる寸前に、首根っこを掴んで脇に抱える。それだけではない。もう一人の不良も有無を言わさず抱えあげ、敢えて自分の後ろを見るように持ち直した。

 振り返るという行為はこの場合命取りだ。減速するのは言わずもがな、前を見ていないのだから転倒や不意打ちに反応できない。その一瞬で命運を分けるのは先の一件で思い知った。

 だから、抱えた不良たちの反応を頼りにした。

 息が詰まった時。体が強張った時。そういった反応を頼りに、禍津鬼が襲いかかってくる方向を判断する。心の中で謝罪しながらも、これ以外の最善策が浮かばなかった。

 どれだけ走っただろうか。

 やがて、路地裏に差し込む光が見えた。あの邪悪な気配は、すぐ背後まで迫っている。

「歯ァ食いしばれよ!!」

「「え!?」」

 息も絶え絶えになりながら、両腕に渾身の力を込める。そして、槍投げの要領で男二人を投げ飛ばした。

 男たちの絶叫を聞きながら膝を曲げ、自らも跳躍して道路に飛び出す。安心するなと言い聞かせながら、即座に身を翻した。

「…………?」

 しかし、禍津鬼は追ってこない。

 路地裏の影が境界線であるかのように、一匹さえもこちらに来ようとしない。

 結局、禍津鬼の群れはそれ以上何をすることもなく奥の暗闇に消えていった。

「なん、だ……?」

 呆然と呟く大佐の後ろで、通常よりもふた回りほど巨大なワシと白鳥がそれぞれ掴んでいた男たちを地面に下ろした。いや下ろしたと言うよりは落としたに近い。おかげでちょっと情けない悲鳴を短くあげる羽目になっていた。

 この巨大なワシと白鳥は大佐の使い魔である。非常事態だったとはいえ、不良たちを投げ飛ばした後、車に轢かれる、打ちどころが悪かったなどで大怪我を負ってしまっては元も子もない。そのため、彼らが怪我をしないよう喚び出した使い魔に受け止めてさせていたのだ。

 二羽はそのまま、再び路地裏に入っていく。目的は言うまでもない。取り残された人を助けるためだ。使い魔と禍津鬼が戦闘した場合のリスクが頭を過ぎったが、それでも路地裏にずっと放置されたまま誰も見つけてくれない、という悲劇にはしたくなかった。一度見捨ててしまったのだから、尚更。

 しかし。

「……時間は関係ない?」

 先程の禍津鬼の行動が気になった。

 出現した時の状況もそう。戦術や策略などではない、明らかな習性のように見えた。


「奴らは、ただ光を嫌っているだけなのか……?」

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