片方の靴

@Sakaki5491

第1話

 一つ、昔話をしようと思う。特に寓話的でも年寄りの訓示でもない。この季節、夏になると定期的に頭の隅の引き出しから這い出してくる至極単純なただの思い出話だ。青々とした緑が広がる夏。小学生の時分の話であるから、今考えると馬鹿馬鹿しいことも多い。しかしそれでも若かりし頃の緑(あお)い夏の一頁であることは間違いないだろう。

蒸し暑いある夏の日。日本らしい夏だったと思う。気温だけではなく湿度も高かった。肌の表面はじとつきシャツが張り付いていたのをよく覚えている。まだ小学生の時分だ。服装になど頓着していなかった。薄い白のTシャツに半ズボン。汗で張り付いたシャツはきっと透けていただろう。小学生ならではの特権なのかもしれない。学帽をかぶり手には定期的に持ち帰っていればよかったであろう、朝顔の鉢植えや道具箱の入った思い手提げが掛けられていた。本当に馬鹿な話だ。あの重さも子供だからこそ感じたものだったのかもしれない。今、大きくなってしまった体には決して合うことのない、眩しいほど黄色い学帽と太陽の熱を吸い込んだ真っ黒なランドセル。六回の夏休みの内たった一回の経験。

 こんな始まり方を書いたが格別不思議な話をするつもりはない。記憶が正しければ小学校三年生の終業式終わりの事だ。一年二年ともに夏休みの宿題をすっぽかしていた私は、担任の先生に呼び出された。池崎先生。今でも覚えている。大学では理科を専門に勉強しており、先生の授業はとても楽しく、私を夢中にさせたものだ。優しく、そして思いやりのある教師だった。私が現在の職である研究員を志したのも、あの池崎先生の授業が発端だった。私はそんな池崎先生に終業式終わりに個別に呼び出された。話の内容は察しがつくかもしれないが、夏休みの宿題をきちんと夏休みの間に終わらせてくるようにという旨の話だった。私は素直に先生の言うことを聞き入れた。三年生の一学期が終わるころには、私はこの先生に対して他の教師方とは違う敬愛の念を抱いていたからだろう。どの教師とも大差ない話を聞かされたはずだったと思う。宿題の重要性や、勉強が将来どう役に立つかとか、そのくらいの事。私はその話を熱心にうなずきながら聞いた。私は下駄箱へと向かった。終業式も終わり大分時間が経っていたから、校舎に人気はなかった。普段は賑やかな放課後の校庭。校庭の端に付属している学童からも人気がしなかった。普段とは違う物寂しい空間に一抹の不安を感じた事を覚えている。先生は職員室まで送ってくれてからそこからは一人。四階にある職員室から一階にある昇降口まで駆け下りた。勿論、幽霊やなにかに遭遇するはずもなかった。子供の豊かだが中途半端な想像力では何に出会ってしまうか(私の母校には七不思議なるものはなかった。)、想像はできなかったがそれでも怖かった。息を切らし昇降口まで駆け下りた私が見たのは膝を抱え蹲っている顔の見えない少年だった。私の服装とは違い彼の服装は幾分か洗礼されていた。白いポロシャツにカーキ色の半ズボン。しかし彼の履いている真っ白な靴下には所々汚れていたし、彼の足には靴どころか上履きすらなかった。彼のことは知っていた。数週間前に都会から引っ越してきた事。休み時間にはいつも図書館に籠もっていること。人付き合いが良くないこと。そして一部の生徒たちから虐められている事も。記憶が正しければこの時まで彼と話したことは無かったと思う。私は彼に話しかけた。どんな言葉を掛けたのか。今ではもうはっきりと覚えてはいない。私が覚えているのはこの日にあった出来事だけで会話の一字一句まで記憶しているわけではない。ただ、私は彼の声を掛けた。どうやら彼は例のいじめっ子達に上履きと外靴の両方を隠されてしまったらしかった。私は彼と一緒に両方の靴を探してやった。結果としては見つけることはなかった。私は頭を悩ませた。職員室に残っている先生たちに相談するということは反対だった。二人ともガキ大将達からの報復は御免だった。昔の話だ。勿論携帯電話なぞ持っていなかったし、公衆電話から家に電話する小銭すら持っていなかった。一つ、物凄くシンプルで冴えた解決方法があった。私の上履きか外靴を貸してやればそれで済む話だった。でもあの時の私は、上履きを外で履くのが怖かった。汚してしまったらきっと母親に怒られる。そんな考えが私の頭にあった。私の母親は厳しい人だったが、立派な人だった。誰かを助ける為に何を汚そうがきっと怒られることは無かっただろう。寧ろ褒めてくれた事だろう。当時の私にそこまで回る頭と母親への理解があればきっと上履きが外靴のどちらかを貸してやっていた。しかし理解の無かった私はここで一つ頓珍漢なアイデアを思いつたわけだ。私は、自分の左足に履くべきだった外靴を彼に貸してやったのだ。馬鹿な話だと思うかもしれない。それでもガキ大将からの報復はなく、私の上履きを汚すこともない。この案をだした時二人とも(彼の分の確証はないが私は確実に)嬉しい気持ちになった。なんて冴えた案だろうと思ったものだ。

 結果だけ話せばこれは冴えた案とは言えなかった。はじめはケンケンで進んだが途中で疲れてしまった(もう片方の疲れていない足でケンケンをするために靴を交換したりもした)。(彼の荷物は少なかったが)私は重い道具箱に朝顔の鉢植えを持っていたのでバランスを取るのすら困難だった。必死に頑張りはしたが、最後には二人とも両足を地面につけて歩いていた。蒸し暑いある夏の日。日本らしい夏だったと思う。気温だけではなく湿度も高かった。肌の表面はじとつきシャツが張り付いていたのをよく覚えている。まだ小学生の時分だ。服装になど頓着していなかった。薄い白のTシャツに半ズボン。汗で張り付いたシャツはきっと透けていただろう。私のは勿論だったが、彼の白い靴下は初め見た時よりも遥かに汚れてしまっていた。靴を履いていない方の足が痛かったが、彼を家まで送り届けた時にはその痛みよりも達成感が強かった。「ありがとう」というたった一言の彼の礼と、小さな笑みを鮮明に思い出せる。

 その後、彼と特別仲良くなったというわけではない。そう。特別には。彼との連絡は中学生になった時には途切れてしまった。それでも小学生の間には彼と図書館に籠もったこともあった。彼と一緒にガキ大将共に立ち向かったこともあった。ただ、それだけ。小学生の時分の話だ。それでも緑(あお)い夏の一頁であることに変わりはない。

 

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