第二十五話 いばらの道

「帰ろう、サリオン」


 アルベルトがまっすぐ視線を向けて来る。優しくて深みのある声。右肘で絹のトガのドレープを抱え上げ、伸ばされた左手がサリオンの背に回る。軽く引き寄せられたサリオンは、素直にアルベルトの胸に収まった。

 静謐な部屋に余韻を残した衣擦れの音。

 熱をはらんだ左手で肩口を握られながら髪に落とされた短いキス。


「共に戻ろう。宮殿に」

「はい」

 

 サリオンは真摯しんしうなづき、アルベルトを仰ぎ見た。すると、切なげに双眸を細めたアルベルトの唇がまなじりに押し当てられ、濡れた音をさせながら離される。サリオンは恍惚と目を閉じた。目蓋が震える。睫毛が震える。硬く閉じた唇が花咲くように開かれる。

 この男は、どこもかしこも熱かった。

 眼差しも唇も吐息さえ。

 アルベルトの生気を感じると、胸の中のいちばん深いところが震え出す。血潮が逆巻き、出口を求めて荒れ狂う。けれども頑なに閉ざされた胸の扉は開かない。けれども鍵は開いている。

 肩を抱くアルベルトに、そっと歩みを促され、サリオンは踏み出した。 

 俯きがちな視界には大理石の床しか映らない。このの先に、皇妃と呼ばれる生活が待ち受ける。アルベルトを皇帝の地位から引きずり落とし、とって代わろうと目論む者が暗躍している華麗で卑劣な王宮で。


「サリオン」


 迎賓の間の扉まで来て、アルベルトが不意に言う。


「もし、従者にしたい馴染みの誰かがいるのなら、その者も召し上げる」

「えっ……?」

「俺以外にも話し相手がいた方がいいはずだ」


 アルベルトを見上げると、気遣わしげな眼差しに射抜かれる。熱のこもった視線から顔を背けたサリオンは、伏し目になって黙り込む。未知なる世界を目前に、体をすくめる気配を察していたのだろう。だが、もう良くも悪くもレナほど近しい者はない。サリオンは力なく首を左右に振り、顔を上げて自嘲した。


「……そうか」


 眉を寄せたアルベルトが、もの悲しげに呟いた。そしてサリオンの肩を抱く手に一層力が込められる。いばらの道を今夜から、二人でこうして歩むのだ。

 アルベルトが扉を押し開けると、扉の前の群集がどよめきの声を上げて退く。それをアルベルトは鷹のような眼をして一瞥した。

 公娼のあるじが迎賓の間を追いやられたのち、事の次第を誰彼かまわずぶちまけて、怒り狂っていたのだろう。廻しのΩが皇帝に陥落するのか、しないのか、賭けにしていたやから達。人目を憚ることもなく、寄り添う二人の立ち姿。それが勝敗を決していた。


 人垣を割るようにして廊下を進むアルベルトに腰を抱かれたサリオンは、悲喜交交ひきこもごもの好奇な視線に炙られて、鼓動が胸を打ちつける。ただ単純に人の目が恐かった。ついにアルベルトになびいたと嘲笑するかのような笑み。テオクウィントス帝国の皇帝に見初められ、王宮に召し上げられる奴隷のΩをやっかむように歪んだ顔つき、目の色に、圧を感じて萎縮する。

 

 しかし、今後はいついかなる時でも誰かの視線に晒され続ける立場になる。

 まばゆいほどの輝きで常人を圧倒していたレナの陰に隠れるように身をひそめ、助けられていたことを今更ながらに痛感する。

 自分はレナにはなれないのだ。 

  

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