第十六話

望めば、きっと手に入る。

それを掴もうとするのなら、を手離せばいいだけだ。

この胸の中のを、はち切れそうに膨らんだ夢と希望の未来図に、

持ち込むことは許されない。


そうだとするなら、アルベルトと共に月日を紡ぐ幸せを、

きっと幸せだとして享受できずに密かに苦しむ。

あの人を捨てた後ろめたさや呵責かしゃくの念がある限り、

心の底から笑えない。

笑うどころか、微笑むことすら出来なくなるのはわかっている。


「サリオン」

 

と、呼びかけられて現実に引き戻されたサリオンは、虚ろに視線を上向ける。

艶を含んだ優しい声音で名前を呼び、劣情で瞳を潤ませた男に射抜かれる。

視界には入ったけれども、見ているようで見ていない。

臥台に座るサリオンは抜け殻にでもなったような気がしていた。

それなら自分の魂は、どこに向かっているのだろう。


「こっちに来ないか?」


クッションが敷きつめられた長椅子に横臥して、左の肘で上体を支え、

右手で銀のはいを持つ彼の語尾が甘くかすれた。

双眸を細めて誘うアルベルトをサリオンは凝視する。

王者と賢者の風格を兼ね備え、帝国一の美貌をうたわれ、

成熟したαの男の色香で自分を絡め取ろうとする魅惑的な皇帝を。


サリオンを呼び寄せようとしている主人の意図を察した奴隷の給仕達は、

壁際に並ぶ楽士の方へと、さりげなく場所を移動した。

主人と主賓の視界には入らずに済む立ち位置だ。


サリオンは胸の鼓動が早鐘を打ちつけるのを感じつつ、

脚の低い楕円の卓に銀のはいをそっと置く。

われるままに立ち上がり、ふらりと足を踏み出した。

アルベルトもまたサリオンを食い入るように目で追って、テーブルに杯をカツンと戻した。アルベルトは空いた右手を翼のように広げて招いてくれていた。


ここに来い。


この腕の中へ。この胸の中へ。

薄茶色の雄弁な瞳に語りかけられて、熱い血潮が駆け巡る。

サリオンは長椅子に横臥しているアルベルトの目前まで来て立ち止まり、

伏し目になって彼を見た。

安価な居酒屋で供される水で薄めたワインに慣れた体にそぐわない、

高価なワインは蠱毒こどくのように思考を鈍らせ、理性を奪い去ろうとする。


今ここで腹の底から突き上げる、

この獣じみた衝動に体も心も魂も、すべて預けてしまえたら、

二人で描く至福の未来が待っているのか、本当に。

熱く潤んだアルベルトの双眸に、ひたりと視線を据えたまま、

自分に必死で問いかける。

頭と心と魂がバラバラになってしまっている。


「……俺は」

 

サリオンは声が喉に引っかかるのを感じつつ、瞳を激しく震わせる。

頭では身を引くべきだとわかっている。心では愛されたいと欲している。

それなのに、魂だけは語らない。

その魂の沈黙が答えばのだと、わかっているのに認めたくない。


「俺、……は」

 

と、くり返すだけの自分を見つめるアルベルトの切なげな目に炙られる。

命令ではなく、どうしたいのかを委ねてくれる恋人に、

答える言葉が見つからない。


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