第二十一話

 

石造りの床に椅子の脚を擦らせて座り直し、テーブルに身体を近づける。


静かだった。


陶器の食器に添えられたスプーンを手に取る音まで部屋に響いた。

おずおずとスープの深鉢にスプーンを差し入れたサリオンは、

湯気の立つ汁を数種の豆やキャベツとともに口に運び、噛み締める。

豆と野菜の甘みと旨味が口中に広がった。

呑み込むと、空っぽだった胃が温まり、指の震えも収まった。


代わりに溢れた涙が膝の上で雫になる。

後から後から貫頭衣の裾に涙が落ちて、雨垂れのような音を立てていた。


昨夜、アルベルトは公娼の下男の粗末な食事に驚いて、

自分が残した大量の料理を下男に平等に分け与えた。

そして、きっと後から気づいた。

今夜のように来られない日は、どうするのか。

来館した夜、饗宴用に用意させた料理を下男にふるまうだけでは無意味だと。


それでは通りすがりの人間が、

気分次第で野良犬に餌をやるようなものだと思い直したに違いない。

自分が来館するしないに関わらず、公娼の下男達を飢えさせない手立てを考えた。

それがこのスープであり、柔らかなパンだった。


サリオンは洟をすすり上げた。

こぼれる涙の粒を手の甲で拭い、深呼吸をひとつした。

ほっと、ひと息ついてから、改めてスープを呑み始める。

スープ皿と口許を往復するスプーンを持つ手が止まらない。

食べ物を口にして、唐突に空腹を実感した。


こんなにも腹が減っていた。とてつもなく飢えていた。

あっという間にスープ皿を空にした。


普段はこんなに食べないせいか、スープだけでもう満腹に近かった。


それでも焦げ目のついた豚肉の串焼きを目にした途端、

唾液が染み出し、喉が鳴る。

今日も一日、館の中を駆け回り、くたくたに疲れていた。

身体が肉を欲していた。一口大に切られた肉片を手で掴み、頬張った。


今夜の盆には手洗い用の水鉢と、指を拭く布も揃っている。

肉を咀嚼しながら水鉢で指を洗い、布を取った。

香草で臭みを消された豚肉の滋味と脂のコクに食欲を刺激され、

続いて茹で海老に目が行った。

すると、また胸に熱いものが突き上げ、涙で視界がいびつに揺れた。


アルベルトは、こんなにも考えてくれていた。

いつも、いつも、もっと他に出来ることはないのかと、

自分で自分を駆り立てるようにして考えてくれている。


サリオンは咀嚼した肉を呑み込むと、顔を伏せ、貫頭衣かんとういの膝の辺りを握り込む。

涙がぽたぽたと滴った。

こんなにも彼を拒み、アルベルトには何ひとつ応えていない。

返すどころか傷つけてばかりいるだけだ。


それなのに、という言葉の後に続く言葉を探せない。


サリオンは握った拳を震わせながら嗚咽した。


こんなにも無垢な愛情を突っぱねることができるほど、自分はそんなに強くない。サリオンは額に手を当て、頭をゆるく左右に振る。

こんなにももろく、弱い自分を責める声が聞こえたような気がしたからだ。


それは、心の中の二人の自分がせめぎ合い、反目し合う声だった。


アルベルトの温情に、

こうもあっさりほだされる自分を叱責しかける大人の自分に、

そんなに強くなれないと、叫ぶように言い返す。

駄々をこねる聞き分けのないガキのようだと思っても、

昨夜のようには大人になれない。どうしても。


やがて涙も尽きた頃、サリオンは茫然として頭を上げた。

腫れた目蓋が重かった。

頭の中が朦朧として何も思考が紡げない。


それでも嗚咽と一緒に喉につかえたままだった、

固いものまで吐しゃした気がして胸が空く。

涙が止まると、薄暗い部屋に神聖な静寂が戻ってきた。


我に返ったサリオンは、テーブルの隅に置かれた振り子時計を思わず見た。

気づいた時には、レナの部屋までイアコブを迎えに行き、

退室と料金の支払いを促す時間が迫っていた。

サリオンは慌てて茹で海老を口の中に放り込み、白いパンにも手を伸ばす。

運ばれた時は温かかった夕食は、

すっかり冷えてしまっていた。



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