第十七話

 

サリオンは表情が顔から抜け落ちて、時が止まったようになる。

そして、ワインを注いだ水差しの柄を無意識のうちに握り締めた。


階級と金にものを言わせて捻じ伏せなければ、

昼三と同衾どうきんできない腑抜けの貴族と彼を一緒にするなと、心の中で罵倒しながら、

ありったけの理性をかき集める。


「いけません、イアコブ様」


程なく芝居がかった声を張り、貫頭衣の裾の中からイアコブの手を取り出した。

酒がまわったイアコブは、顔も体も既に弛緩しきっている。

ぬるい笑顔でサリオンは、抜き出した手を軽くはたいて諌めてやる。

華奢な肢体をくねらせて、困ったような振りをする。

すると、また性懲りもなく裾の中に手を入れる。


それを布越しに押し留め、「お止め下さい」を連呼した。

左右の臥台に寝そべる会食者達も、何事だという視線をこちらに向けている。

こうして『廻し』の忠告を何度も無視したイアコブを、

招待された客人も楽士隊も給仕係も、余興で呼ばれた曲芸師等も目撃した。


多数の目撃者達がいる以上、イアコブは他の下男に手を出す恐れもあるとして、

館の主人に忠言すれば、十中八九、入館拒否書が作成される。


「もう水差しが空になってしまいました。イアコブ様はお強いですから」


サリオンは虚勢を張って杯を重ねるイアコブに、

間髪入れずにワインを注ぎ足し、『お強いから』と持ち上げた。

もちろん『強い』は、ベッドの中でも精力的だという意味だ。

イアコブは茹でたタコのような赤い顔で、

まんざらでもないように薄ら笑いを浮かべていた。


「お料理も足りなくなっていませんか? 皆様、何かご注文があれば承ります」

 

酩酊しすぎて側付きの尻や腿を撫でる力もなくなった、

イアコブの腕をすり抜けて、サリオンは凛として立ち上がる。


すると、ここぞとばかりに招待された客人は、

希少なうなぎに凝ったソースをかけた料理や、

茹でた伊勢海老のキャビア添え、鳩や鴨肉、仔牛のローストなどの、

値の張る料理ばかりを給仕係に矢継ぎ早に言いつけた。

代金を支払う側のイアコブは、臥台の背もたれに身を預け、

気づくと、いびきをかいていた。


主催者と招待客の関係が友好的だとは限らない。

表面上は互いに親しくしていても、

腹の中では主催者を失脚させる機会を伺う政敵や、商売敵も潜んでいる。

公娼内での規律を無視した悪行を、我先に述べ立てる客もいるだろう。


サリオンは空になった水差しを給仕用のテーブルに戻しつつ、

同じテーブルの隅に置かれた振り子時計を確認した。

この調子で饗宴を長引かせれば、招待客が帰る頃には夜の十時は軽く超える。

レナはデザートが運ばれた後に下男の誰かに呼びに行かせ、

イアコブとの同席は僅かな時間に押し留める。


その後レナの居室に案内しても、床入りできるのは残り一時間弱。

レナには、その床入りすらもさせないつもりだ。


今回は尻や腿をさんざん撫でられ、揉まれたが、

これだけ痛い目に合わせてやれたら、腹の虫も少しは治まる。

やっと一息つける気がして、中庭に面した窓を見た。

 

美しい列柱の間ごとに篝火が焚かれ、

豊かな樹木や所々に配された噴水の水飛沫や水面を、琥珀色に照らしていた。

サリオンは、昨夜のダビデの暴挙も入館拒否書を要求するに値するとは思ったが、その考えは苦笑とともに放棄した。


堕落した貴族にすぎないイアコブと、皇帝の従兄弟いとこでもあるダビデとは、

身分も格も比較にならない。

また、この国の大多数の国民達と同じように、

館の主人はダビデに怯え切っている。

入館拒否書の作成も捺印も、

話も聞かずに跳ね返す主人の姿が脳裏に浮かぶようだった。


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