第十話 貧民窟での日常茶飯事 


「よう、兄ちゃん」


 次々湧き出す思いに囚われ、いつしか歩幅が落ちていた。

警戒心のとげを張り、隙を見せずにいることで、自衛をしてきたはずなのに、

 一瞬の気の緩みを突くようにして野太い声が飛んできた。


 はっとして肩を揺らしたサリオンは、唇をぎゅっと引き締める。

 ここは貧民窟の裏通り。

 脳裏に思い浮かべていた後宮のような公娼ではない。

 酔客もいればスリもいる。強盗も強姦魔も、ただ単に、視界に入った人間を痛めつけたい奴もいる。


 見知らぬ男の下世話な声は、右斜め前方向から聞こえたが、かろうじて顔を向けずに済んでいた。

 男の姿形は視界の端に捉えたが、視線は前に据え置いた。


 目と目が合ったら、こちらの負けだ。相手は食ってかかってくるだろう。


 それも圧倒的な体格差を武器にして、建物の陰に引きずり込み、

 殴り倒して金を奪い、オメガとわかれば、ついでとばかりに思う存分犯して楽しみ、用が済んだら殺して捨てる。

 オメガでいるより、犬や猫の喧嘩の方がまだましだ。

 サリオンは聞こえなかった振りをした。


 この国では、自分も見た目はベータの下層階級で押し通せる。

 フェロモンを抑制する経口剤も服用し、アルファやベータを発情させることもない。


 一方、男の方も体格からしてオメガではない。

 軟弱そうな若い男をいたぶって、憂さ晴らしでもしたくなっただけだろう。

 

 あえて歩幅を速めたりせず、通りに面した娼館の入り口付近に座っている、くだんの男の目の前を行き過ぎようとした時だ。


「聞こえてんだろ? お前だよ。そこのキレイな兄ちゃん」

 

 雄牛のような大男が建物の前をゆらりと離れる気配がした。

 最初の声より苛立ちと怒気が増した言い方だ。それでもサリオンは無視をした。


 足を止めたら『聞こえた』ことを認めてしまう。

 認めなければ、酔客達の喧騒で『聞こえていない』振りができる。


 それなら男の方にも『無視した』と、つけ入る理由を与えずに済む。

 男の面子は保ちつつ、身の安全も保持できる。

 このまま大通りにまで出て行けば、そこまで男も深追いしては来ないだろう。


 こんなことは貧民窟の裏通りの立ち呑み屋に足しげく通っていたなら、日常茶飯事。慣れてしまいかけている。


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