分岐点

 奏が俺の前から立ち去った後、ごちゃごちゃになった気持ちを抱えたまま逃げるようにして自宅に帰ってきた。

 まるで目を背けるかのように隣の家が見える窓のカーテンを閉め、衝動のままにパソコンの電源に手を伸ばし、ウィズフレを起動していた。


『それでうちも球技大会があってね? その時の競技決めに悩んじゃってさー』

『……そうなんだ』

『……どうしたの?』

『……ああごめん。ちょっと考え事』


 しまったと気づいた時にはもう遅い。自分に嫌気が差しながら、ヘッドホンから聞こえるmdさんの心配しているような声に、がりがりと頭を掻きながら、ただ謝りを入れることしか出来なかった。

 完全に会話に集中できていない。現実から逃げるために会話したいのに、それすらままならない自分の心の弱さが浮き彫りになってしまっていた。


『何かあった? 良ければ相談に乗るけど?』


 俺にとって実に都合の良い言葉。それを聞き、すぐに声を発してしまいそうになるのをぐっと堪える。


 こんな100%私情でしかないことを、よりにもよってmdサンに吐いてしまって良いのだろうか。

 確かにウィズフレは、そういったリアルで溜め込んでしまいそうなことを零せる場として使うのが役割の一つではある。

 だが、それは一般的な使い方。一期一会でしかない他人との場合における使用方法で、お気に入りになった人とするものではなかった。


 ……ああ、わかっている。情けないことに俺は手放したくないんだ。

 所詮はただのチャット。まだ半月程度しか使っていない、あくまでコミュ力を付けるためのツール──そうでしかないはずだった。


 それでも、今の俺にはこの顔も見えない声だけの関係が何よりも心地良く思えてしまっている。

 俺と話していたいと思ってくれたこの人に対して、こんな雑魚虫のくだらない戯れ言に付き合わせてしまうのは申し訳ないという気持ちが強く出てしまう程に俺はこの人を気に入ってしまっていた。


『……ねえましろくん。人に相談するのは、悪いことじゃないんだよ?』

『……え?』

『もし私に対して何か思ってるなら、それは気遣いでも何でも無いんだよ?』


 優しく子供に諭すような口調が俺の思考を混乱させる。

 気遣いではない? 何を言っている? そんなはずはない。──ないはずだ。


『ましろくんが良い人なのは知ってるよ。例えましろくんが自分の事をどう思っていてもね?』


 実に耳障りの良い言葉。それが偽りではないことは俺が一番理解できている。

 ……どうしてこの人は、顔も見たことない他人なんぞに優しい言葉を掛ける事が出来るのだろうか。それも、こんな相手を持ち上げるだけではない真摯な言葉でだ。


『一方的に決めつけられて誤魔化されるのってさ、相手を信用していないって言っているようなもの。──友達にやられると、とっても悲しいことなんだよ?』


 普段の俺なら、それは正論に見えた押しつけであると判断していたであろう。それくらい俺の心に踏み込んだ言葉。

 ……ああ、わかっている。そうして自ら本音を隠した結果が奏と溝が開いてしまったこの現状なのだと、そんなことは誰よりも知っているはずだ。


 けど、それをちゃんと言ってくれた人は初めてだった。今、この人は俺に向かって正面から言ってくれたのだ。

 ……聞いても、良いのかな。


『それにさ? こんな場所だからこそ話せることもあると思うよ?』

『……しょうもないことなんですけど、聞いてもらえますか?』

『うん。良いよ』


 ──だから、踏み出してみることにした。言葉にしてみることにした。

 少しの無言の後にようやく絞り出せたその言葉に、当たり前の様に頷いてくれる彼女。それが姿なんて見えないはずなのに、どうしてかとても眩しく感じた。


『喧嘩して別れた幼馴染と会ったんです。仲の良かった』

『……へえ』

『俺から逃げてしまったその人と再会して、また泣かせてしまったんです』


 ゆっくりと、教会の一室で懺悔でも捧げるかのように俺は話し始めた。

 中学の時疎遠になった幼馴染と今日会ったこと、せっかく謝る機会があったのに自分の情けない意地のせいでそれが出来なかったこと。──そして、それを後悔していること。


『……成る程ね。つまりその幼馴染さんとよりを戻したいと』

『……まあ。一応そういうことです』


 どこか誤解を招きそうな、棘の付いてそうな言い方だったが気にせずに頷いておく。


『……ふーん。随分甘酸っぱい青春の一幕ね。本当に』

『……そんな良いもんじゃないです』


 本当にそんな都合の良い言葉を当て嵌めて良いものではないのだ。

 だってこれは俺の自爆。ただ己を守るために行ったことで自分の心と首を絞めただけの愚行に過ぎなかったのだから、青春なんて前向きな言葉を使うべきではないだろう。


『……ああ長かった。ようやく始められそうね』


 先程までのこちらに通りやすい音ではなく、聞かせるつもりのなかったであろう言葉をマイクが拾ってくる。

 長かった? 一体何がだろうか? ふと気になるが、まあ特に白菊なんかのまどろっこしい濁しと同じで、特に深い意味は無いのだろう。


『良いましろくん? あなたがその彼女と面と向かって話せない理由は単純。圧倒的に欠けているものがあるからよ』

『足りないもの?』


 足りないものか。そんな細かく探さなくとも、いくらでも見つかりそうものではあるがそんなに断言されるくらいはっきりしたものが、こんな声だけの関係でわかるものなのか。

 ごくりと唾を飲みながら、次の言葉を待つ。こんなに緊張したのは久しぶりだ。


『──それは自信。その証拠にいつも自分を卑下するという、後ろ向き極まりない癖があるわ』

『……そうだね。確かにそうだ』


 それは自分ですら心の奥底に閉まっていたもの。数ある欠点の中でも特に触れたくなかった──幼馴染あいつとの一件で何処かに落としてしまった感情。


 ──ああそうだ。結局それがなきゃ同じ事の繰り返し。張りぼてのおべっかで奏に媚びを売ったって、いつかはまた亀裂を生み、今度こそ取り返しの付かない関係になってしまう。


 まずは自分を変えるしかない、か。


『というわけで提案。ましろくんもやるらしい球技大会にノルマを課そうかしら』

『──はっ?』


 思わず声の出る、ぶっとんだアイデア。

 この言葉こそ最初の分岐点。何もない凡人以下の俺の日常が変化していった、明確な分かれ道であった。

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