平穏

 俺の名前は、カツ。

 ドイツ語で猫という意味らしい。俺を拾ってくれた当時、彼女は大学一年生でドイツ語の講義も受けていた。命名に影響がなかったとは考えにくいが、ドイツ語が好きというわけでもないようだ。

 ドイツ語の習得には苦労していたようで、テスト直前になると、毎日のように副読本を音読していたのを思い出す。日本生まれ日本育ちの俺にとってみれば、彼女が平生から日本語を使ってくれていることがありがたい。ある日突然ドイツ語を話し始められても、まったく理解できないことだろう。

 俺は、自分の名前が大好きだ。猫ではなくて、人間となったときの自分の名前を妄想したこともある。猫山克己というのはどうだろう? 苗字の方は適当だが、名前の方は彼女がくれたカツからつけた。漢字は彼女が読んでいた漫画からとったもので、意味はよく分からない。だが、大丈夫だろう。彼女が読んでいた漫画なのだ。変な言葉は使われていないと思う。

 名前に関して一つだけ言いたいことがあるとすれば、それは彼女の発音だろうか。ドイツ語だろうが何だろうが、彼女の発音のせいで、どう頑張ってみてもトンカツとかのカツにしか聞こえない。油でこんがりと揚げられた肉を想像するたび、俺は空腹を感じてしまう。セルフ飯テロなんて、あまり好ましいものじゃない。それに、俺の毛色は雨の日の雲のような灰色と、夜の闇にも負けない黒が混ざっているのだから、もっと別の名前にしても良かったんじゃないだろうか?

 例えば、胡麻プリンとか。

 おっと、名前と言えば、一番大切なことを忘れていた。俺にとっては彼女であってそれ以外の何ものでもないのだが、彼女は他の人間から、神崎由美子と呼ばれていた。俺を絶望と死の淵から救い上げてくれた天使は、その名前を神崎由美子と言う。俺は、神崎由美子を愛しているのだ。

 ……まぁ、ちょっとばかり照れくさいと言うか、名前を連呼するのは何か胸の奥がもやもやするので、これからも俺は、彼女のことは彼女と呼ぶことにしよう。人になれない俺は、そういうところでだけ、諦めがいいのだ。

 ぼんやりと考え事をしながら、彼女の膝の上で尻尾を揺らす。大学の講義がない日は、こうして二人、平和な時間を過ごしていることが多い。彼女は毎日のように本を読んでいた。本以外に友達がいないかのように、彼女は本に没頭する。恋愛小説を読んでいるのか、推理小説を読んでいるのか、はたまた陰鬱な自伝的散文を読んでいるのかは、彼女の表情を見ていれば大体分かる。今日は、穏やかな日常ものを読んでいるようだった。頬が甘い南瓜を食べているときのように緩んでいる。やはり彼女は可愛い。人間のオス共がこの事実に気付かないことを祈るばかりだ。

 彼女が本を読み、俺は彼女と共にいる。

 それだけの、どこまでも平和で、ともすれば退屈な時間。

 俺は、この時間を愛していた。愛していたのだが、いつまでも構ってもらえないと言うのは悲しい。小説に向けている笑顔を俺にだって向けてほしい。少しでも構ってほしくて尻尾で軽くたたいたりもしているのだが、彼女は俺をマッサージ機か何かだと思っているらしく、あまり反応してくれない。悲しみの余り声をあげて、ようやく頭を撫でてくれる程度には、俺の存在は空気と同化している。

 それでも頭を撫でられた程度のことで温かい気持ちになってしまうのだから、俺は骨抜きにされている。どうしようもなく彼女のことが好きなのだ。俺を撫でる手が離れるとき、胸にかすかな痛みが走るのは堪えるが。

 俺の頭から手を離した彼女は、俺をひょいと抱え上げた。もしやこれは大勝利のフラグなのでは、という期待は一瞬で消えて彼女も一緒に立ちあがる。俺はすぐ床に下ろされてしまった。

 彼女はご飯を作るようだ。

 彼女と一緒に食べるご飯は、毎日の楽しみでもある。彼女と一緒に過ごせるというだけで堪らないご褒美だし、ご飯を食べているときは彼女も笑顔を絶やさないから、それが一番素晴らしい。好きな人の笑顔を見ることほど、心躍ることはないのだ。

 ねこまんま以外なら何でも嬉しいなー、と俺も彼女の後ろをついていく。手狭な部屋だから、滅多なことでは彼女を見失わないのもありがたい。だが、今この時だけは彼女その人よりも彼女の手元に注目しなくてはならない。俺のご飯に玉ねぎを入れさせるわけには行かないのだ。

 彼女がレトルトのカレーを取り出したのを見て、安心する。今日の俺のご飯は、普通の猫缶になるようだ。彼女がカレーを食べるときは、いつも手抜きをするときなのだから。手抜きをしたい彼女が差し出してくるのは、まぐろ風味の猫缶だから、俺のご飯に玉ねぎが混入するなどという事態は絶対にありえないのである。

 欲を言えば手料理が食べたいのだが、彼女だって楽をしたい日があるのだろう。

 ご飯に味噌汁をかけたものを、ねこまんまという。彼女も手間がかからないという理由で好んでいるらしいし、俺もとても美味しい料理だと思うのだが、問題は、ご飯にかけられる味噌汁のほうだ。いかんせん、玉ねぎがどうしようもない。初めて食べたときは全身が痺れ、俺は死ぬんじゃないかと焦った。しかも、傍から見れば食後にだらけているようにしか見えなかったらしく、彼女は普通に本を読んでいた。俺の苦しみが彼女に伝わらず、危うく彼女の部屋で死んでしまうところだった。寿命を静かに看取られるならともかく、もがく苦しんだ挙句にというのは、ねぇ?

 地域によっては味噌汁に玉ねぎを入れないところもあるらしいのだが、彼女の家では玉ねぎを入れることが絶対の基礎であるらしく、ジャガイモや油揚げなど、他の具材が切れているときであっても、玉ねぎだけは欠かしたことがない。だから俺は、ねこまんまが食べられないのだ。……味噌の風味は割合と好きなので、それが悲しくもあるのだけれど。

 考え事をしていると、背中を撫でられた。遂に構ってくれるのか? と顔をあげてみると、ただご飯の準備が出来たというだけの話だった。お腹は空いているが、彼女と一緒に食べるのが大切なのだ。ぐっとこらえて、彼女の準備が出来るまで、俺は餌皿の前で待つ。

「カツ、食べないの?」

 食べたいけど、待っているんだよ。と答える。しかし彼女にはにゃーとしか聞こえていないようで、もしかしてお腹すいてないのかなー、といらぬ心配をさせてしまった。言葉が通じないだけで、意思疎通はここまで難しくなる。

 彼女がコップを用意して、若葉色の液体を注ぎいれる。緑茶ってやつだな。俺にも水を飲むための皿を用意してくれた。コンロの火を止めて鍋の中に入っていた銀色の袋を取り出す。流れるような動作で電子レンジから取り出したご飯のパックをあけ、あっという間にカレーライスを完成させる。

 銀のスプーンを手に取って、彼女が手を合わせた。

「いただきまーす」

 彼女が食べ始めたのを確認してから、俺もご飯を食べることにした。

「あっ、カツはもしかして、私を待っていてくれたのかな?」

 当然じゃないか、と大きく頷いた。彼女には、にゃぁーぁ、と聞こえたはずだ。

 楽しそうに甘口のカレーを食べる彼女を横目に、俺もまぐろ風味の猫缶を食べる。

 そういえば、猫缶の中身はなんという名前なのだろう? 俺だってバカじゃない。缶というものがどういうものなのかは知っているし、猫が食べる餌の入った缶詰だから猫缶と呼ぶのだ、ということくらいは容易に推察できる。だったら、猫缶の中身は何という名前で呼ぶべきなのだろう? 餌ってのは色んなものを含めての名前だから違うだろうし、かといって他の言葉が次々と浮かぶわけでもない。エサをドイツ語で読んでみるのはどうだろう? などということを考えてもみたが、そもそもドイツ語が分からない。彼女に聞いてみたくても俺の言葉を彼女が理解できるはずもないし。

 そもそも、まぐろってなんだよ。

 好奇心が先走って、頭が回らなくなる。どうしたらいいのかが分からなくなって、俺は彼女に尋ねてみることにした。

 にゃー。

「んー? そうか、おかわりが欲しいか? まだ残っているのに、いやしんぼめ」

 彼女は笑いながら立ち上がった。そして、いつもの固形餌を餌皿に追加した。この固い奴はキャットフードという名前なのだが、猫缶の中身は、一体どんな名前なのだろう。彼女が何か言葉をこぼしてくれないかと、部屋着越しに彼女のお尻をつつく。

 頭を叩かれた。

 彼女はしばらく俺と皿の上の餌を見比べた後、ぽつりと呟いた。

「やっぱり、ウェットフードだけじゃ物足りないのかなぁ」

 ……なるほど。猫缶の中身はウェットフードというのか。

 知識欲が満たされ、心が幸せに膨らんでいくのを感じる。それが胃袋も満たしてしまう前に、皿の上のご飯を食べることにした。喉に詰まらない限界の速さで食べ進め、彼女に手間をかけさせないようにする。

 自分で皿を洗えたなら、こんな苦労はしなくてもいいのだろうけれど。

 結局、俺は猫なのだ。猫だから、どうしようもない壁がある。例えばそれは、言葉が通じないことであったり、腕を使って道具を意のままに操れないことだったり、様々な形をとって俺の前に現れる。

 ご飯を食べた後、彼女は再び本を読み始めた。俺も彼女の膝上に戻って、お昼寝をすることにした。彼女といられるだけで幸せなのだ。猫として、彼女の庇護を受けられるだけでも幸せなのだ。

 それ以上を望むことなんて、俺には許されていないのだから。


 今日も静かに、彼女に寄り添う。

 彼女の身体は、お日様のように温かかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ニャンとも恋心 倉石ティア @KamQ

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る