ニャンとも恋心

倉石ティア

片想い

 刷り込みっていうのは、案外大切だって思うんだよな。

 偏った情報ばかりを受け取れば思想や嗜好も寄っていく。

 数年をかけて鍛え上げた審美眼も容易く濁ってしまう。本人の意図とは関係なく、世界を色眼鏡で覗き込むことになるんだ。例えば、学校や職場に見るのが手っ取り早いだろうか。ずっと教室の隅で本を読んでいる無口な少女を想像して欲しい。賑やかな教室、ひとから距離を取る少女。根暗な奴なんじゃないか――そういう印象を抱くこともあるだろう。

 そんなことはない、と思うなら。

 無口な少女に付随する言葉の数々を、連想ゲームのように思い浮かべて欲しい。

 隅っこ。メガネ。俯く。そういう言葉に込められた意図を頭の中で組み上げて、実際に会ったこともない相手のことを判断する。もう一歩踏み込んでみろ、それは差別にもなるから。

 あいつは喋らないとか。

 とっつきにくいとか。

 そーいう根も葉もない噂に振り回されて、損をしている可能性もある。明るくて気さくな女の子なのに、暗くて面白くもない奴だと決めつけているかもしれない。まぁ、あまり関わってみないうちから本当の姿を見極めるのは難しいってのを言いたかっただけだ。相手との関係を計算で決めるのは反吐が出るほどに嫌いだけど。

 人間様には、言わなくても分かることだと思うがね。

 俺は、猫だ。名前はあるが種類は分からない。雑種、という奴になるのか? 詳しいことは分からないが、とにかく、俺を庇護してくれた人間とは別種の生き物である、ということくらいは分かっている。

 あの日、段ボールという四角い箱の中で、ボロ布に包まれていた。

 世界は薄情だ。そして、雨はとても冷たい。

 灰色の雲の下で、俺はずっと震えていた。自分のことをよく分かっていた。俺は捨てられたんだ。俺を捨てた奴と同じくらい力のある奴に拾ってもらえなければ、このまま死ぬんだ。父親なんていない。母親も頼れない。兄弟の姿はどこにもなく、ただ、腕についた血の味が不味かったことは覚えている。俺は母の愛よりも先に、誰かの血を舐めた。

 このままだと死ぬ、ということくらいは理解していたんだろうな。捨てられてすぐの頃は、必死になって鳴き声を上げていた。自分ではない誰かに助けを求めていた。産声がそのまま怨嗟の声に変わるなんて、なかなか出来る体験じゃないぜ。声が枯れるまで、なんて表現がある。喉がつぶれるまで、なんて言葉もある。でも、それを実践した奴は、あんまりいないんじゃないかな。本当に死ぬかもしれない状況で、自分に出来る限界を越えようとした奴が、必ずしもいい結果と巡り合えるわけじゃないのだから。

 それでも、やらざるを得なかった。食べ物はなかったし、雨は寒くて凍えてしまいそうだったし、ボロ布――後に、雑巾という名前だと知った――は重くて息が苦しかったし、見上げた段ボールの壁が高すぎたんだ。俺一人では生きていけなかったから助けを求めるしかなかったんだ。

 今の俺なら出来ることも、その頃は出来なかった。

 皮肉だね。必要とされているものが、必要なときにあるとは限らないんだ。

 どれだけの時間が経ったかな。太陽が一番高いところに昇る前に捨てられて、橙色の夕陽を見るよりも早く精根尽きた。

 誰も、俺を見ようとしない。

 そもそも、俺の前を通る人間なんていなかったんだ。

 平日の昼間。捨てられたのはゴミ捨て場。学生寮のすぐ側にあったけれど、肝心のヒトがいなければどうしようもない。雨が降っているから誰もが早足で歩く。悪辣な神様の拍手にも似た雨音で、俺の鳴き声はかき消されていく。もしかしたら、俺の声を悪霊か何かだと勘違いした人もいるかもしれない。捨てられた俺は不機嫌で、世界に対して憎悪を向けていた。

 誰でもいいから助けてくれ。俺を、この箱の中から出してくれ。

 俺を、温かな腕で、抱きしめてくれ。

 声が出なくなってからは、死んだように空を見上げていた。身体はとうの昔に動かなくなっていたし、動けたとしても段ボールの壁を越えられなかっただろう。生まれたばかりの俺はあまりにも非力で、世界と戦う術を何一つ持っていなかったんだ。

 雨に体温を奪われて、雑巾は拘束具から布製の棺桶に変わっていく。遠ざかる足音に生きる気力を奪われて、視界がかすみ始めたときの恐怖は途方もないほど大きかった。まだ何もしていない。一度しか朝日を拝んでいないのに、俺はどうして死ぬのだろう。

 死ぬってなんだ。

 俺はそもそも、生きていたのか?

 怖気と寒気に震えて吐きそうだった。迫りくる死の影に怯えながら天を仰いだ。切れかけていた電柱の明かりに自分の命の灯が重なる。消えた。ふっと明るくなってから、消えた。朧な、気のせいかと思うほど一瞬の光。瞬く電気に誘われて、俺の瞼も重くなっていく。

 終わるんだな、と思った。俺はここで終わるんだと思った。

 せめて安らかな眠りが欲しいと目を閉じる。

 そのとき、柔らかな指が触れた。熱をもった何かが俺の額に触れた。声は出なかったし体は動かなかった。それでも必死になって口を動かした。

 助けてくれ。

 俺をここから、出してくれ。

 俺を、殺さないでくれ。

 口を動かすだけの体力がなければ、いや、あのときの俺には体力なんてものはなかったはずだけど、あの奇跡のような一瞬がなければ、多分死んでいた。

 今の飼い主に拾われたのは、きっと偶然ではなかったのだろう。彼女がもしも臆病でなく、点滅する電燈に興味を払わなかったなら。俺がもしも生に執着せず、触れられたときに口を動かせなかったなら。もしも俺が口を動かすときに、電燈がぶつりと切れて彼女が気付かなかったなら。

 生きていたのは運命だ。

 だから、なんて格好をつけてはみる。

 けれど、結局、俺が言いたいのはこういうことだ。

 

 俺は、彼女を愛している。


 猫という生き物でありながら、人である彼女を愛してしまっている。幼かった頃の俺は、もういない。日が経つにつれ、俺を形作る精神も成長し、世界の矛盾や齟齬や間違いを理解できるようになってしまっている。

 それでも俺は、好きなんだ。

 彼女が好きなんだ。

 どうしても伝えられない気持ちを彼女に伝えたくて、俺は布団にもぐる。彼女へ少しでも近づくために。どうしたの、と尋ねる彼女は枕元に招いてくれる。彼女に全身を撫でられると、心が満たされていくのが分かる。俺も彼女に、何かをしてあげたいと思う。

 猫ではなくて、人として。俺の愛を、彼女に伝えたいと思ってしまう。

 それが出来ないから、もどかしくて、身を切り裂かれるようで。

 渡せない花束を胸の中に抱えたまま、夜を過ごす。

 仲間の猫に伝えても理解を得ることはない。

 独りぼっちで苦悩するのは、変わらない。

 捨てられていたころと、変わらない。

 悲し過ぎるから、身を寄せる。

 愛しているのに。

 言葉を伝えられないから、俺はどこまでも孤独だ。彼女に救われて、彼女に自分のすべてを捧げたくて、それでもどうしようもなく足りないものがあると思うから不幸になっていく。猫のままでもいいじゃないか。彼女は可愛がってくれる。だけど、それじゃ嫌なんだ。彼女に愛される存在でありたい。それ以上に、彼女を愛する存在でありたい。そして、その愛を、彼女に正面から受け止めてもらいたい。それが出来ないから苦労しているし、苦悩をしているのだけれど、誰も、俺の気持ちを分かってくれる奴なんていないのだろう。

 当然だ。俺は、猫なんだから。

「私、明日は暇なんだ。部屋の掃除終わったら、カツも一緒にごろごろしようね?」

 当たり前じゃないか、と返事をする。といっても、彼女には猫としての鳴き声しか聞こえていないのだろうけれど。それが、俺には辛いんだ。彼女と言葉を共有できないというだけで、俺は。

 おやすみ、と呟いた彼女に、俺は控えめの返事をする。

 にゃぁ。

 それが、猫である俺の限界だった。

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