私しか知らないあなたなどいない

みなづきあまね

私しか知らないあなたなどいない

湿気が部屋に充満し、窓を開けていても涼しさを感じられない日が続く。湿気さえなければもっと仕事に精も出るのだろうけど、そうもいかず、午後は眠気とだるさとの戦いで、キーボードを打つ手がときどき止まった。


そんな気候の理由もあるが、日々耳を傾け、暇があれば目を向けてしまう場所がある。少し距離があるが、斜め前の方に彼のデスクがある。ちょうど私から見ると彼の首筋、角度が合えば端正な横顔が見える。数メートル離れているし、彼は私に背中を向けているので、見ていることがばれることはないが、周りの同僚に気づかれていないかひやひやしている。


今日は彼に質問している同僚たちが多く、幸か不幸かその会話や、振り向いた彼の一挙手一投足が見える。それが余計私の集中力を削いでいた。


話しかけられた彼は仕事の進捗を共有したり、先輩にふられた話にのったり、楽しそうな声が聞こえてくる。少し年配の女性と私より数個上の女性が一緒に話していた。あの辺は変な気持ちなど一ミリもないだけあり、結構和気藹々と話していることが多い。彼もリラックスした様子でよく笑っている。


「いやー、本当今はやることが重なっていて。しかもそろそろアパートの契約が切れるので、今片付けで切羽詰まっているんですよ。」


「うわーそれは大変だね。そういえば今住んでいる所って、美味しい居酒屋とか多い街だよね?最後に行かないと。」


「そうなんですよね。でも数年住んでいたのに、結局あまりいかなかったし、この調子だと行けずに終わるかな~っていう。」


座っている彼女たちと膝を突き合わせて、そんな話を繰り広げていた。


居酒屋の話はさておき、彼が引っ越すことは知っていた。先日質問があって休日に連絡した際に、本人が引越しの話をしてくれたからだ。普段自分からはそんなにプライベートな話をしない人なので、なんだか特別な気持ちを味わえた気分でいた。しかし、今目の前で同じような話をしているではないか。私の期待外れだったようだ。


彼は私と連絡を取るうえではそこそこ饒舌で、向こうからそそくさとやりとりをやめることは滅多にない。しかし、職場で顔を合わせても挨拶もそこそこで、今私が見ているような笑顔や饒舌さは全くない。私と話をしても面白くないのか、好かれていないのか。でも、多少好意を持っていなければ、連絡のついでだとしても、プライベートな話をしたり、やりとりを続けたりはしないと思う。


私以外の人とあんなに楽しそうに話している。その事実をまざまざと見せつけられ、私は思わずキーボードをにらんだ。話しているメンバーと彼の間にやましいことなど何もない。なのに、私がこれだけ彼を好きなのに、彼女たちの足元にも及ばないことが悔しかった。自分だって彼と肩を並べ、何気ない話で盛り上がり、笑い合いたい。ただそれだけなのに、なぜ叶わないのだろう・・・。


彼がときおり見せる優しいまなざしや、男らしい姿、連絡を取るうえだけで見せる愛想の良さ、一歩踏み入った話題・・・こういう所から私は期待をしていた。でも、現実世界に引き戻されると、自信は消えてしまう。私だけが知っている彼の姿など、実は何もないのかもしれない。

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