第10話 さよなら、鯨の木

 抹香臭い。焼香のような清くかわいた香りが町にみちる。抹香は肌から油分を霧散させて、町からあらゆる匂いを、みなと町の生臭さすらも消す。鐘も鳴る。三十分に一度の衝音は、定刻を告げる鐘とちがって時間の感覚を失わせる。なんだか町全体が海の底に沈んでいるかのようだった。


 サチは杉の木を眺めていた。彼だけではない。大勢の人が眺めている。それこそ町人全員が詰めかけたかのような人出で、中には観光客の姿も多く認められた。

 社務所から紫の袈裟を着た住職が現れると視線がそちらに移る。住職は人込みをぬけて杉の前まで辿りつくと、その前で経をくどくど読み始める。業者が行う正式な伐採はまだ先だったが、その前に、伐採式を今回の鯨法会で催す予定になっていた。

 雨が降った。晴れ間に振る雨。読経の声は雨に掻き消えて人々はどよめきをあげる。不安に眉をしかめる者もいた。誰かが―若い男だった―やはり罰があたるぞ、と零した。なんの罰だよ、サチは思う。雨あがりを待ったのか、雨に掻き消えてうやむやになったので中途で切り上げたのかはわからないが、住職は雨あがりとともに仰々しい衣を振りながら杉の前から移動した。そうして電動ノコギリを掲げた中年が登場した。

 ぎゅいいいんと甲高い音が響く。みな、固唾を飲んで見守った。空気を裂く音が断続的に鳴り、その合間には馬の鳴き声のようなエンジン駆動音がした。その応酬の末に男は、ぎゅっと力を込めて、杉に刃を入れた。

 ぎゃっ。悲鳴だった。いや、単純に伐採音か。それにしては肉声にちかい。そのあまりにも悲惨な伐採音と神がかった雨に、一部からは苦笑すら漏れた。だが、それらを天啓かのように受け取る者もいた。そういった連中は概ね肩に、ヘナタトゥーを入れている男たちばかりで、旅館業の息子から頼まれて昨日にサチが入れてやった連中たちだった。


「一か月後にはご神木サウナだな」

 伐採式後、ホシの肩を叩きにゆくとそう応じられた。

 伐採後のご神木を木材として再利用する案は様々に計画されていたが、どうやったのかは知らないがホシはその計画の中にうまく潜り込んで、幾何かを無償で譲り受けて薪にする約束を取りつけていた。子鯨たちを吸ったご神木でのサウナなど、流石に悪寒が走る。だがホシが連れて来ていた妙齢の女性は嬉しそうに相槌を交わし、

「ねえ、本当にたのしみ。本伐採も見学させて欲しいわあ」

 そう言ってうっとりと頬を赤く染めた。美人だが気色の悪い女だった。

「あ、彼女とは初対面か。ほら、前話した。旦那のシンボルツリーを切った未亡人の方だよ」

 女はサチに会釈をした。渋々にサチも応じる。頭を上げたのちに女は語った。

「私ね、旦那の木を切ってもらってから、木を切る楽しさを知ってしまったんです。あの硬い身に激しく回転する刃を入れて、少しずつ削れてゆく感触がたまらなく好きで好きで。この人の斡旋で、何とかこの歳でも林業に籍をおくことができたので、今は群馬で週末林業。毎週末、木を切っているんですよ」

「あんたの切った木が乾燥しきるまでもう少し。そっちも楽しみだよな」

 そう言ってホシは女の肩を乱暴に抱いた。人がいるから、と言って制した女は恥ずかしそうに気色ばんだ。

「それにしても」結局ホシの腕の中に収まった女はサチの腕を見ながら言う。

「人間じゃあないみたい。ねえ、少しさわらせてくれません?」

「いや…」女の伸ばした手から距離を取った。

「勘弁してください。じゃあ、俺はこのへんで」

 ふたりとはそのまま別れた。これから山車が出奔するので寺内には人が多く集っている。その人込みを抜けて石段へ向かう途中、サチは石階段を下りて門前町にずらり並ぶ露店も通り過ぎてゆき、賑わいから遠ざかってあの入り江にきていた。

 青年会の連中にヘナ・タトゥーを入れてやることが決まったときから、もう入れたがる人も少ないだろうと思い、出店は控えることにきめていた。なので、純粋な物見遊山。だがこの頃は夏音の容態も安定しないらしく、いつでも病院に向かえるように酒は控えておくに越したことはない。今日の宴会も不参加の予定だった。


 ここにも抹香の匂いが満ちている。遠くからは祭り太鼓の音に賑わいの声。そして忘れた頃に鳴るあの鐘の音。陽光はしっかりと晩夏の熱を注いでいるのに、どこか現実感がうすい。物憂い。なんで物憂いのか。

 あの時の夏音もここで友だちといたのだろう。そして同じように、この現実感の薄い物憂いのなかで、喧噪から遠くひっそりと幼さに閉じこもっていたのだろう。在りし日の妻を想う。波の音がつつむ。まどろみ。

 …目が覚めるとすでに日は暮れかけていた。いったいどれほど眠っていたのか。頬と髪についた砂を払って起き上がる、背後の山に沈もうとする陽光の残照をうけて、彼はそこに座っていた。茫と眺める。

「なあ、なんで俺なんだ。なんで俺のところに現れる」

 彼は何も言わなかった。頬まで裂けた口は一切開かれずに一文字のままだった。

「おまえ、イイヅカ君なんじゃないのか?」

 返答はない。観念したサチは再び横になって砂浜へと身を預けた。

「法会、見て回るか?」

 海を眺めていた彼がゆっくりとこちらを向くのがわかった。そして、頭を縦に振った。サチは立ち上がって砂を払う。近くに落ちていた厚手のレインコートを彼に着せてやって、目深に被せると夕闇の中を一緒に歩いていった。


 夕闇に化物を連れ歩く。門前町には提灯と露店が照っていて人々が往来している。年に一度の祭りから頬が上気づいているが、同時にどこか沈鬱な影も差す。もうサチのことをぎょっとして眺める者も少ない。そして彼の風貌の妖しさからか、目深にレインコートを羽織った男を訝しく見つめる視線にも出会わずに済んだ。

「ちょっと休ませてくれないか」

 門前町の海側近くに露店を出す旅館業の青年に声をかけた。彼は今日、モバイルサウナを主催していて、設営した露店には二時間に一度くらい顔を出し、新規の受付をしていた。

 サチを認めて中に通した青年は立てかけていたパイプ椅子を勧め、

「美子ちゃんは来られなかったんですね。すごい残念ですわ」

 と言って大げさにため息をついてみせた。

「ごめんね。誘ったんだけど都合がつかなかったみたいでさ」

 察してくれたのか青年はそれからしばし黙り続けていた。そして数分後に甘えるような表情で、

「しばらくここにいますか。あの、よければちょっと店番とか…」

 了承すると、彼は歓び勇んで人込みを駆けていった。

 フィンランドからの観光客の対応を終えて隣の彼を一瞥する。フードで覆われた表情からは何らの感情も覗うことができない。ぴくりとも動かずに仄かに照る石畳と人々の歩みを眺めている。

 酒を飲んできたらしい青年が戻ってくると、ふたりはすぐに露店を後にした。青年は申し訳なさからあはあはと笑みを浮かべたのち、よければサウナもきてくださいねとサチを見送った。


 ふたりは往来に出て門前町を歩いた。そうして石階段に着くと一段ずつ登ってゆく。途中、何段目かわからないが太ももが鈍い痛みを発し始めたころ、一度鐘が鳴った。とたんに鼻腔をつく抹香の香り。くらっとする頭を抱えて匂いから逃れるように歩けども、寺に近づくほどに濃くなる。夢の中にいるようだ。

 さすがに一日二度登るのは厳しいなと息も絶え絶えに境内に着くと、先ほどまでとは打って変わり人影は疎らだった。呼吸を整えながら背後を振り返る。暗闇の中に一筋の光。海まで続く光の路。その中にはいくつもの喧噪が束になって響き、酒に酔う男たちの叫び声や諫める女たちの声、子らの甲高い声が混じる。それは歓びの声だった。

 「彼」は千年杉へと近づいてゆくと掌で木にふれた。掌の近くには伐採式で刻まれた一片の切り傷があり、そこからは流々と赤色の血が流れている。彼は血にふれる。それは彼の体温よりも断然に暖かい。

 一方でサチはベンチに腰を下ろし、木にふれる彼をじっと眺めていた。やがて、先客として一つ隣のベンチに腰を下ろしていた人から声をかけられた。

「あなた、夏音ちゃんの旦那さんですか」

 あの行方不明になったうちの一人、イイズカ君の母親だった。

「あ、はい。はじめまして」

 慌てて挨拶をし、彼を一瞥する。彼は変わらずご神木にじっと触れ続けている。

「以前、ここでお会いしましたよね。その時は挨拶もできませんでしたが」

「あの…」サチはおずおずと声を絞り出した。

「ご神木が伐採されるのをどう感じていますか?」

 彼女の手元でうちわが緩慢に動いている。三度ほどの往復があった後に、彼女は応じる。

「とても悲しいですね。この町にとって大切なシンボルだったので。もちろん私にとっても」

 糸のような声だった。当然の感情だと思った。千年杉の病気に自分たちの影響はないとは言え、その末節を汚してしまったという感覚が込み上げる。関係のない俺たちが奪ってしまった。

 ふもとから男の酔狂な声が響いた。それを避けるようにして彼女は、

「私の息子は夏音ちゃんのことが好きだったのよ。たぶん、初恋だったんだろうな」

 初恋。それはサチにもいつかあった。だが、飯塚くんたちはそれで終えてしまったのだった。

「うちの子、もうすぐ生まれるんです。あの、よければ、生まれたら会いにきてください」

「ええ、ぜひ。そうさせてもらいます」そう言って表情を動かさずに笑った。

「あなた、中身は普通なのね。身なりがあれだから。少し勘違いしちゃっていたかも」

「昔は中身もあれだったんですよ」そう言って大げさに笑う。

「年寄にはよくわからないのだけれど、それはおしゃれでやっているの?」

「いえ、というよりも、これが自分らしさなんです。アイデンティティに近いですね」

「へえ、よくわからない。そういうものなんですか」

 サチは立ち上がってご神木の方へ歩いて行った。相も変わらずに手を重ねている彼の手を引いて、飯塚母の下にまで連れてゆく。怪訝な表情を浮かべている彼女に対して、

「こいつも体外な奴なんですよ。終いにはこんな厚手のレインコートを羽織るしかなくって」

 そういって隣に立つ彼を紹介する。だが飯塚母は胡乱な目つきを全く崩さない。

「あなた」その視線はいつもの慣れた視線になっていた。異物を眺める視線。

「誰のことを言っているの。ここには私たちしかいませんよ」

 そうだった。サチの隣には誰もいない。いなくなっていた。彼は、忽然と姿を消していた。

 先ほどまでの穏やかな談笑風景が崩れる。飯塚母の表情はおびえにも変わり、彼女は逃げるように足早で石段を降りてゆく。冷や汗がたれた。最初からいなかった? それとも、煙のように姿を消した?

 ふに落ちない気持ちを抱えて境内を後にする。一歩、また一歩と降りる度に抹香の匂いが薄くなる。まだ鐘は鳴る。ごおん、ごおんと響く。もつれる足を引きずって歩く。彼女の待つ家まで。


 両親はまだ不在だった。夜更けまで宴会に参加しているのだろう。かのん、かのんかのん、怯えから彼女の名を呼びながら玄関を抜けて居間に入る。彼女は座布団の上に胡坐をかいてスマートフォンを操作していた。

「なにどうしたのへんなかおして。法会でなんかあったん」

 そう言うとスマートフォンを机の上において、傍らにあった座布団を自身の隣においた。サチはすべりこむようにそこに座ると、じきに十月十日を迎える妻の膨らむ腹を、お守りの如くに抱いた。

「へんなサチくん。どうした、おばけにでも会ったん」

 はなれろ、と言わんばかりに赤子が胎内から腹を蹴った。妻は夫の額を撫でて頭頂部に頬を寄せる。

 サチくん抹香くさいわあ。この匂いだけはわたし、実は昔からずっと好き。

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プシュケと鯨の木 もりめろん @morimelon

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