第9話 プシュケの涙

 迎えいれた彼女はまるで子どもだった。

 リビングソファに座って首を頻りに動かしては周囲を眺め、スタジオのとき同様に口をもごもごと動かしている。

 適当にくつろいでいてと言ってサチはキッチンに消えると、冷蔵庫と調理棚を確認して、買出し前のあまりものの中から玉ねぎやトマト缶などを取る。寸胴鍋にたっぷりと張った水が沸くまでの間に、みじん切りにしたにんにくと解凍して細かくきざんだ豚バラ肉、玉ねぎをきつね色になるまで炒めておく。そうこうしている間に沸いた湯の中にぎゅっとパスタを入れた。茹で上がる間に、今度はフライパンにトマト缶を入れて、調味料で味をととのえた。湯をよくきってパスタとソースをフライパンの中で混ぜて皿に盛りつけた。

 沈黙。食器のこすれる音と咀嚼する音だけが室内に響く。テーブルの上におかれた互いのスマートフォンは等間隔に緑色の光を明滅させ、その瞬間が重なることはない。夏音からかもしれない。が、今は確認する気が起きなかった。

 無言のまま食事を終えた。食器をシンクまで片付けて麦茶をふたり分持って戻ると、彼女は手鏡で肩の蝶を覗いていた。ローテーブルに麦茶を置いてスピーカーから音楽を――ラックトップを操作すると、ホシからの退職祝いの胎教クラシックを選んだ――曲は丁度、セザール・フランクの交響詩『プシュケ』だった。

 この曲が、美子に入れた刺青の着想元だった。美の神であり、そのシンボルは蝶。


「男の子ってさ」ふいに美子が零した。

「…小学生の頃に写生大会ってのがあって。私の生まれた町には大きな寺があって――夏音さんの町みたく高台にあったんだよね――そこに全校生徒が移動して写生をするんだけど。女の子はみんな真面目でさ、お喋りしながらだけど描いているの。でもさ、男の子たちはいつまでも遊んでた。みんなってわけじゃないけど。少なくとも、いつまでも遊んでいるのは男の子たち。でね、そのうちのひとり、体も声も大きくって乱暴な子だったんだけど、そのグループがやってきて、私たちは嫌だなあなんて思って無視してた。すると彼は、私たちの目の前に咲いていた――私たちが描いていた――タンポポ。その上にとまる蝶をつかんで、私たちに見せびらかすように胴体から翅をむしり取って、下品に笑った。そして死骸を捨てて逃げていった」

 やわらかな重低音が室内をみたしている。

「なんか夕方からずっと同じような話をしてる。ごめんね」

 そう言って美子はサチの肩に頭を預けた。反復はふたたびの応酬を思わせたが、今の美子からはそういう雰囲気は感じられない。ここでうまい言葉、彼女の闊達な精神を縛っている憑物を落とすような話ができればとは思ったものの、サチの喉からは何もでない。代わりに、彼女の手を取って甲を親指で撫で続けた。そしてようやく、

「生きなおすんだよ。恋人とは別れて仕事も辞めて」

 恋人を可哀想だと言った美子を可哀想だと思う。目の前で翅をむしられた幼き日の少女、幼い肢体をぶんぶん振り回して身軽に駆けていた頃から随分と経て、彼女が踏みしめる地面はすっかり泥濘になり、一歩進むごとに足がしずんですでに腰まで浸っている。

「いまさら無理。というか、面倒なんだよ。なにも変えたくない」

――死産だよ。香澄さんが菜食主義になったきっかけ。

 ホシが電話口でそう語った。香澄と会った後、菜食主義になった理由を彼女が語ってくれなかったことをもらすと、俺も人から聴いた話なんだけど…と続けた。

――香澄さんは学生時代からよく一人で海外旅行に行っていたんだけど、インドで強姦されたらしい。運悪く妊娠もしてしまった。けれど彼女は産む決心をしたんだって。当然、周囲は猛反発。当たり前だよな。でも彼女は折れなかった。

「無理じゃないって。無理だと思ってるから無理なんだよ」

「そうだよ。でも、私は絶対に無理だと思ってる。だから無理なんさ」

――でも、結局死んでしまった。死産だったんだ。安定期に入ってからの死産で、ハッキリとした原因はわからなかったそうだ。彼女が入院した病院には友人の看護師がいてな、その人に子どもの遺体を見せて欲しいと懇願したそうだ。同情した看護師は、彼女に協力をしてあげた。そして初めて、彼女は子供に会えた。

「サチくんの身体みたくなりたい」美子は目を落としながら言う。

「強くなりたい。もう誰からも傷つけられたくない」

「俺は止めないよ。本当に望むならしっかりと彫ってやる」

 彼女は哀しそうにきゅっと目を細めた。あはは…と乾いた笑い声をあげる。


――死後数日が経っていたけど、まだ人間の体裁は保っていたそうだ。五分だけだよと言って友人が消えると、香澄さんは一人で向き合った。褐色の肌にくっきりした鼻梁。決して開くことのない瞼。そんな遺体と向き合っていると、哀しみというより巨大な津波に攫われたかのような理不尽さを感じたらしい。この理不尽に対抗したい。彼女のうちに炎が点った。その熱量が導いたのが、「食べたい」だった。あの人は自分の子供を食べたいと思ったんだ。なんでそう思ったのかは検討もつかない。そうして死体ににじり寄って小さな手を取ろうとしたとき、がちゃっと扉が開いて、友人が戻ってきたそうだ。そこで我に返った彼女は、自らが今考えていたことに背筋を凍らせたそうだ。それが、彼女が食肉を忌避する理由だ。

 ここだけ模様が違うのってなんで? 今まで気づかなかったよ。

 性交はしないと約束し合って床に入ったふたり。ベッドライトの下で彼女はサチのシャツをめくって、彼の地肌の部分を指先で辿っていた。やがて肩に辿りついたときに、そう訊ねられた。

 それは初めて自分で彫った模様。それだけは記念に残しておいたんだ。

 へえ。彼女はたっぷり眺めたのちに口づけをした。迷路遊びにもようやく飽いたのか、その原初の文様だけを指先で弄び続けている。サチはその姿を眺めている。懐かしい光景だった。ずいぶん前に見た、見られた。そういえば、彼女たちは今何をしているのだろうか、SNSを辿れば簡単に判るが、今まで検索したことはない。

 サチくんと夏音さんはいつもここで寝ているんだね。でも、今日は私がいる。人間の区別ができない宇宙人が今の私たちをみたら、きっと私を夏音さんだと勘違いしちゃうよ。夏音さんの食器でごはんをたべた。彼女が座るソファにすわった。今は寝室で旦那さんと寝てるんだ。私と彼氏にも同じような寝室がある。でも、そこではたぶん、ほかの女も寝ている。宇宙人からみたら私とそんな女は、きっとおんなじでしかないんだ。

 ねえ、今日は私を夏音さんだと思いなよ。思いなって。言いたいこと言ってごらんよ。なんで別居したんだよ、なんでひとりで決めて出て行ったんだよ、その子は、おれの子供でもあるんだよって、言いなよ。どうせ本人には言えないんでしょ。そんなのであと五十年もどうやって一緒に生きていくのさ。わたしが聴いたげるから、ほら、今日は私が夏音さんだから。


 夢のなかでおれは蝶になった。ちがう蝶になるのは彼女だ。ずいぶん長いこと飛んでいる気がする、こうやって花の蜜を吸うのも何千何万か数しれない。蜜はあまい。あまい蜜は好きだ。だから吸う。でもおれは彼女は本当は人間だった気がする。あれ、それが夢だったのかもしれない。あまい。から、まあいいかとまた吸う。


 おれの羽ばたきでNY株価が変動した。わたしは少年に捕らわれて、薄い膜の張った木箱に翅をピンで刺されて磔にされる。翅をむしられて地面に捨てられるよりはましか、なんてことを想いながら。美しいプシュケは山上の宮殿に幽閉される。食も芸術もすべてが充実する宮殿に、夜毎に寝所に来る夫とむつみごとを交わす。嫉妬に駆られた姉たちに唆されたプシュケは晩に夫の殺害を謀る。だが、失敗。代わりに夫であるクピドはひどい火傷を負ったのだった。

 愛する夫を傷つけた罪悪感と姉たちからの逃避行の先はどこだったか。


 千年杉?

 それはちがう。はずだ。古代ギリシアの神の逃避行が、なぜ極東の岬にまで及ぶというのか。

 けれども、羽ばたき一つで株価が変動する複雑系が失わせたある一つの複雑さ、高度に発達して魔法のように働く不透明な社会などは、古代の神話世界と何ら変わりない。その何ら変わりない世界間、焦燥に駆られて走るその道が繋がりあうことなんて、ありえた。


 プシュケは泣いていた。木の下で。まだ、千年を生きる前のことだった。

 愛する夫の肌に消えない傷をつけた。夫はわたしの元から去った。わたしを唆した姉たちは神々に罰せられ、崖から身を落とした。そうしてわたしはひとりになった。

 わたしは泣いていた。大粒の涙は砂金のようにきらきら光る。暗闇のなかで発光している粒を栄養分に木は成長する。わんわんと声をあげて泣く、疲れると茫と海を見る、そうして、また嗚咽が込み上げる。

 私の下には誰も来ない。一人だ。ずっと、これから一人で泣き続けるしかないのだ。

 そこに、足音が響いた。ふもとの石階段を一歩ずつのぼる音。誰、と思う。期待もこもる。君は騙されていただけなんだねごめんねと、愛する夫クピドが迎えに来てくれたのか。それとも、冥府の扉を破った姉たちが、私たちが愚かだったのよと膝を追って詫びに来てくれたのか。

 だがそれは、汚い漁夫だった。

 わたしは枝から漁夫を見下ろしている。杉は巨木になっていた。漁夫は、もちろんわたしに気がつかない。手に持っていた魚介類―ヒラメやタイ。一介の漁夫の供え物にしては豪華すぎる―を樹に備え、柏手を打って拝み倒した。

 ありがとうございます。お陰で生きて海から帰れました。

 幾度か謝意を告げたのち、漁夫は同じ石階段をくだって行った。

 あれから、何百年が過ぎていた。

 気がつけば周囲には鳥居と大きな社殿が造られていて、人々がよく手を合わせに来るようになっていた。でも、わたしの涙は枯れない。ずっと泣き続けている。沖合で鯨が潮を吹いた。鯨。


 わたしは変わらず海をみていた。にじんだ視界で、ずっと。

 沖合では漁が行われている。一艇が網をかけて待つ。そこに鯨がかかると、陸で待機していた何十もの船が一斉に駆けつけて猛烈に銛で刺した。のたうつ鯨。美しい紺碧の海原に大量の血と脂が混ざり、陽光で煌めいていた水面が泡立つ。どろっとした液体と鉄臭さ。そこは文字通りの血の海だった。息も絶え絶えとなった鯨の下へ、一人の男が泳いでいく。鯨の鼻の穴に小刀で穴をあけてロープを通す、そうして鯨を陸まで運ぶのだった。

 勇魚に褌のみで立ち向かった男。彼は征服者のように巨体の上に立っている。煌めく陽光に海に濡れた肌が煌めく、彼の肌にはびっしりと刺青が彫られていた。海を味方にするために。


 わたしは、まだ見ている。

 男たちは浜にあげた鯨の遺体を囲っていた。皮を剥ぎ、鬚を刈り取って、肉を切る。解体だった。血と脂と内臓の臭いが周囲いちめんに立ち込め、悪臭がひどい。けれども解体者たちは嫌な顔一つせず、むしろ晴れ晴れしさすら覗ける表情で、額に汗をして死骸を解体する。これで、七里がうるおう。しばらくは安泰だ。

 誰かが眉をしかめた。動揺が周囲に広がる。なんだなんだと言って、あの勇敢な紋々男が人をかき分けて渦中に入った。ふん、と鼻を鳴らす。なんだ、胎児か。そんなものは捨ておけ。

 だが紋々男はこの杉の木を訪れた。その背中には風呂敷包みの甚大な骨が背負われていた。男は骨を樹の下に埋めると、ああ許してくれと懇願する。俺たちも生きなければなんねえんだ。なんでお前はそんなに小せえんだ。俺たちと同じような大きさじゃねえか。お前らの親はあんなに大きい、化物みたく大きい。なのに、なんでお前はそんなに小せえんだよ。

 それから、妊娠中の母鯨が獲れる度に胎児たちの骨はわたしの下に埋めるのが決まりになった。最初は恐れられた杉の木だったが、次第に村の中でも受け止められて、終いには子宝の象徴として扱われるようになった。

 なぜ自ら殺した子鯨たちの墓を子宝の象徴にするのだ。彼らは人間を憎んでいるはずだ。命を奪われたどころか、我よりも大切な子を奪われた母親の憤怒。そして、陽の光を浴びぬまま死んだ胎児の憎しみ。斟酌すれば象徴になどできない。が、それが裏返えってしまうのが人間なのだ。

 人間とは不思議な生き物だと、わたしは思う。…人間? そうだ、わたしも人間だった。かつては人間だったのだ。墓下に眠る骨が百体ほどにも達した今、涙も乾いていた。


 ――満足した?

 隣には腹を膨らませた夏音が座っている。あの入り江だった。サチがそう訊ねると、夏音は茫と眼前の海をながめ、ようやく首を横に振った。出産を目前にした夏音は捜索に一区切りつけることを考えていた。

「さあ。だって、何もわからないままだもの」

 しばしバツの悪い表情を浮かべたのちに夏音は、

「結局、波に攫われたんだよ。そして死体は海に消えた。うん、そういうことだったんだよ」

 自らを納得させるようにそう語った。

 夏音はこちらに住居を移してから、母体の許す限り町を歩いて聴きこみを行った。SNS上では失踪者三人の写真を公開し、見覚えのある人はいないかと訴えた。ホシには国会図書館に通い詰めてもらい、潮の潮流から流れつくのが考えられる地域の地方紙を、事件から数か月以内に絞って調べてもらった。

 でも何もわからない。なんでもどのようにしてもない。何も、わからないのだった。

「わたしたち、いつまで逃げつづけようかね。…歩調は遅くなるけど、私はまだ走れる」

「大丈夫。おれだってまだまだ走れる」

 そう約束をしてふたりは夏音の家に戻った。背後からは、暗闇の海の泣き声が響いていた。

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