第8話 女と男

 夏音は出生前診断を受けていた。妊娠二十週ほどで診断を受けたところ異常は認められず、時間の都合がつく限りはかかりつけの産婦人科を一緒に訪れていたサチとともに、夏音は安堵のため息を漏らした。

 診断を受ける前にはふたりで相談をかさねた。それは積みかさねるような類の話し合いではなく、おたがいの気持ちを吐露しあうだけだったが、それでも合意に達するまでは必要な儀式ではある。もし異常が見つかってしまった際、はたして私たちは産めるのか。それとも産まないのだろうか?

 結局、ふたりは答えを出せなかった。互いの気持ちは嫌というほど確認しあい、ときにはどうしても理解できずに口論になってしまうこともあったが、でも、結果を真摯に受け止めよう。その結果を元に、また改めて相談しよう、そんなぴりついた間延びを決定したのちの、安堵のため息だった。まだ無事に生まれてくれるかはわからない、けれども、少なくとも染色体の異常はない。医師の宣言をうけたときのため息で、ふたりはありえたのかもしれない異常のある自分たちの子どもを殺していた。


――女の子だって。やったね、命名権は私だかんね。

 スタジオで夏音からのメッセージを受け取った。かかりつけ医からの紹介状を受けて移った、佳恩町ちかくの産婦人科医に行く日なのだという連絡はもらっていた。すでに妊娠八ヶ月。あと二ヶ月ほどで娘が生まれてくる。待ち遠しい。はやく会いたいと強く思う。その一方で、娘の生誕までの間、妊娠から遠い場所でこうして生活をしているのが、歯がゆくてならない。波音が、また聴こえている。

――俺もそっちに移住しようかなあ。

――さびしい思いさせて、ほんとうにごめんね。

 謝られたいわけではない。うまくいかないなあと感じていると、客がきた。サチは夏音に返信をすると、スマートフォンをおいてフロントへと移った。

 果たして、客はホシと美子だった。

「あれ、随分早くきたね」

 怪我も治ったのでやけど痕への彫りを始めようということで、今日は十五時から彼女の予約が入っていた。けれど約束の時間までは一時間ある。そしてなぜホシがいるのかと怪訝に思っていると、

「見てもらいたいものがあって。少し時間とれる?」

 今日の予約は美子だけだったので了承したサチ。店前の看板をクローズに変えたのち、ふたりが座るソファの対面に腰を下ろした。ホシはショルダーバッグからファイルを取り出し、そこから抜いた一枚の用紙をローテーブルの上に置く。ちらと美子を一瞥すると首を横に振った。彼女も知らされていないらしい。

 先日の佳恩町訪問のとき、もう少し調べたいことがあるからとホシは一人で町に残っていた。その時に調べていた何かの結果が出たのかと、少し身を引き締めて目を通すと、「木診断調査票」という文字が目に入った。


 木診断調査票

 調査日 :二〇二〇年 八月×日

 調査場所:和歌山県Ⅹ市佳恩町ⅩⅩーⅩ 来岸寺

 調査樹木:スギ

 現況及び対策:

 樹幹には縦長の溝があり表面の凹凸も目立ち、全体的にねじれてもいる。これは溝腐病に典型的な症状である。溝腐病は一般に、苗木時代に赤枯病病斑を持ってしまったことが原因とされるが、対象のスギはその巨大さから樹齢何白年かと思われるので、長年にわたって菌が潜伏してきたことは考えにくい。よって、林内感染の可能性が高い。溝腐病に根本的な治療法はない。倒木の危険性も非常に高いため、早急な伐採を推奨する。また林内感染の可能性も鑑み、苗床の木々を対象とした樹木医の追加調査も強く推奨する次第である。


 千年杉はもうもたない。今すぐにでも伐採する必要がある。その事実以上にサチを落胆させたのは、ホシが一人で佳恩町に残ってまで行った調査が「これ」だということだった。辟易としながら彼をにらむと、

「大変だったんだぜ。深夜に上まで登って枝を一本切って…」

 作業について飄々と語ろうとしたのを遮って、もう一度診断書に目を通す。それは尤もらしく作られていた。念のために樹木医の名前を検索してみると、個人HPがヒットした。確かに存在しているようだし、大阪在住という点にも信憑性が感じられるけれども、相手は故人のシンボルツリーを薪にするような男だ。名前を勝手に使うことなど、容易に行うのではないか。というか、似た類のことは散々やってきた友人なのだった。

「美子ちゃんはどう思う?」

「町のシンボルだって民宿の子が言ってたし、町の人は残念かもだけど。しょうがないよね」

「じゃなくて、これを信じられる?」

 そう言って書類の上に手をおいた。ハッと顔をあげた美子は、目を細めながらいくらか思案したあげくに、何らの言葉も発さずに低いうなり声を出す。短い期間の手伝いでも、充分に思い当たる節があるようだった。

 このやり取りを不服におもったのか、

「いや、そこまではしないって。そんな疑うなよ」

「ちなみに、失踪事件の方はどうなんだ」

「え、ぜんぜん。なにも進展なし」

 サチは深いため息をもらした。

「ともかくさ、伐採しないと不味いぜ。そして伐採したら再利用の方法は考えないとな」

 目を爛と輝かしながらそう言った。とたん、イイヅカ君の母親の姿が脳裏によみがえる。


 あれは佳恩町への何度目の訪問のときだったか。石段を登って寺へ参拝をすると、初老の女性の姿があった。木漏れ日の中で溺れるようにご神木へと祈りをささげている。瞬間、これがイイヅカ母だと理解がおよんだ。サチは十五年におよぶ祈りをまじまじと見つめつづけた。

 あの姿を伝えたところでホシが喜ぶのは明白だった。いつかのように、また「魂を吸える」などと言って、子鯨やイイヅカ君の魂を我が身とできるなどと、虚言を弄するだけなのだろう。いつからだ。俺の友人はいつからここまで…と、考えたところで詮無いことだった。

「わかったよ。俺から住職に話しておくから。お前はもうかえれ」

「話に行くときには連絡くれよ。色々と説明が必要だろ、俺もついていくから」

 底が知れた提案を適当に流すと、ホシはスタジオから出ていった。

 ふたりは向かい合って診断書に目を落としている。やがてサチはつかえていた思いがあふれ出たように、美子に対してイイヅカ君の母親のことをこぼしていた。彼女は今この瞬間にも、ご神木に祈りつづけているかもしれないのだった。

 しばらく黙って耳を傾けたのちに美子は、

「でも、息子さんの死を受け止める良い機会かもしれない」

「いや、わからない」サチは即座にそう言って頭を振る。

「俺は彼女と一篇だって話したことがないんだ。もしかしたら本当は、彼女はイイズカ君の死を受け止めているのかもしれないし、美子ちゃんの言う通りにまだなのかもしれない。でも、これを告げることによって、彼女はあの営みを続けられなくなるんだ。それも、薪にするために発覚した事実によってだよ」

「じゃあ、聴けばいいよ。ご神木がなくなってどう思いますかって」

「そんなことできるわけがないだろう」

「それなら、サチ君が気にすることじゃないと思うけどなあ。それが傲慢だってわかってる?」

 そう言って美子は苦笑した。

「それよりさ、ほら。私の刺青を見せてください」

 後ろ髪をひかれる気持ちはあったが、今日の彼女は客でもあった。ばっさりと断ち切られた話題を振り払って、サチは事務所からラフをいくつか持ってきた。


 彼女の為に新しく起こした数案のデザインはいずれも動植物をモチーフにしたもので、逡巡の末に、サチなりの祈りを込めさせてもらっていた。美子は手に取ると、ラフを見比べながら口元をもごもご忙しなく動かした。

 たとえば、へび。古くから水神として崇められるへびをキッチュに表現し、躍らせながら身体を垂直に伸ばしている背景には、剥がれたうろこが水のしぶきとなっており、やがて一枚の花弁に代わるといった風。あまりに呪術的すぎるかというためらいもあった。だが、願いを込めて欲しいというのが、今回の彼女からの依頼だった。

 今度はうんうんと頭を振る美子。好意的に悩んでくれる様は素直に嬉しいのだが、果たしてこれで良いのだろうか、という疑念が浮かぶ。

 美子は恋人のところに戻る。少し前に恋人が謝りにきてくれて遅くまでふたりで話をしたという。そこで恋人はこれまでのことを詫び、気が高ぶると暴力をふるってしまう己の弱さを恥じ克服を誓い、いかに美子を愛しているか、美子の不在がどれほどの砂漠かということを、涙ながらに訴えたそうだ。

「可哀想なひとだと思ったんだ。こいつが他に女をつくっていることだって知ってるし、それを私が知っていることも、こいつは知ってるんだよ。今の涙ながらの弁明はきっと本当の気持ちだと思うけど、こいつはすぐに忘れて、こいつはまた私に暴力をふるうんだ。お前が悪いんだって言いながら。ねえ、私は何か悪いことをしたのかな。なんで痛い思いをしなきゃならないんだよ。ふざけるな。殴られている私はいつもそう思う。でもね、こうやって背中を丸めて泣いている彼の掌は、ぎゅっと握られていて、何だか猫のようだった。その握りこぶしで私はたくさん傷ついてきたんだけど、なんか猫みたいだって思ってしまったとき。ああだめだ。かなわないなあって思っちゃった。そして、すごくセックスがしたくなったんだよね」


 半裸でうつぶせになっている彼女はそう語った。彼女の肩に散らばった焼け痕のあたりに輪郭線を彫ってゆく。相槌は打たない。代わりに、決して誤らないように尖らせた神経を彼女の肌に一瞬ごとに触れさせて染料を染ませてゆくだけだ。針が執拗に彼女の肌を刺す。その度に皮下に色がうまれる。それが彼の仕事だった。美子は時々、ん、ううん、と甘くむれた吐息を漏らし、うち唇を歯で噛みしめ、少しの痛みを堪えては話をつづけた。

「家に帰ると玄関であいつは私を抱きしめた。そしてキスをして、無理矢理に口の中に舌を押し込まれた。私はそれに応じて、彼の舌を吸ってあげた。彼は乱暴に背や尻に手を這わせた」

 美子から自らの性的な話を聴くのは初めてだった。応答はしない。だが彼女は話をやめない。サチは彫る。肌がじゅっと焼ける。

「ベッドに移った私たちは互いの服を脱がしながらずっとキスをしていた。枕からは一か月ぶりの自宅の匂いがしたんだけど、胸に込み上げている懐かしさと性欲の高まりを私は区別できなかった。それから私は彼のペニスを口にふくんで丁寧に舐めた。睾丸までしっかりと。彼も私の性器を乳房をゆっくり愛撫した。その時からもう頭が真っ白になっちゃって、はやく彼のペニスを中に入れて欲しい。優しく愛情をこめて、一か月を埋めるようなセックスをして欲しいって、もう挿れて、そう言ったの。彼は避妊せずに挿れた」


 輪郭線から塗りとぼかしに移る。その頃にはサチは勃起していた。こぼれる液体が下着を少し濡らす。

「彼は私の肩と頭を掴んで懸命に腰を振った。それは私の求めるような、優しく愛情のこもった動きからは全然遠く、すごい乱暴だった。でも、私は自分の意に沿わない状況にこそむしろ興奮してしまっていた。頭の奥がじんじんと疼く幸福感があったんだよ。私は彼の腰に足を交叉し絡ませ、ひたすらにキスをせがんだ。彼が唇を離すと、私はずっと彼の首を吸っていた。彼が私の中ではてたとき、だらしなく涎を垂らしながら覆い被さってくる熱の中にも満足感があった」

 彫り終えたサチは彼女に一声かけた。鏡を持ってきて、横たわりながら肩を反射で見てもらう。胡乱な目つきで新しい肌を見つめた彼女は、そこに赤腫れした蝶を認めた。サチは保護シートを貼った。終えた頃、起き上がった彼女のまなじりには涙の痕があった。向かい合うふたり。美子はふいに手を伸ばして、サチの掌をにぎる。手袋を取ったばかりのむれたサチの掌をなでる。

「それってなんだか悔しいなあって思ってさ」

 彼女は項垂れながらこぼした。目線を落とせば肌着一枚のために谷間があらわになっている。ずっとサチの掌を両手で握り続けている美子は、ゆっくりと姿勢を傾けてゆき、やがてサチの鎖骨へと頭をあずけた。頭をあずけたことによって隠れた乳房の代わりに肩を飛ぶ一匹の蝶が目に入る。赤腫れをおこして透明なシートで覆われた蝶。ホシの下を去れば水商売に戻る彼女に、これを夜の蝶だの言う職業的な誇りとして扱って欲しくはなかった。だから日輪の蝶として描いた。美をむさぼる連中に闘うための、美の象徴としての日輪の蝶。

 サチの鎖骨は濡れていた。幼児のように背を丸めた彼女の愚かしさがサチの腰に炎を点し、その欲望は勢いを増して彼女の矜持を焼こうとしている。彼女もまたそれを望んでいた。そんな伏し目がちな燃料がサチには与えられていて、これまで決して色めいた視線を送ったことのない友人の掌を握り返し、診察台に押し倒しているのだった。

 かち合った視線。少しずつ近づけて額をかさね、くちづけをかわす…、ことはできなかった。


 鼓膜の奥には波音が響いていた。その中には、いやというほどあの町で聴かされた妻だか町名だか知らん連なりも交じっていて、さらには産声すらも聴こえた、気がした。せまい施術台にふたり並びで横たわると、ふたたび美子と視線があう。

「なんでしてくれんの」美子は涙にぬれていた。

「ねえ、なんで。私はすっかりくたびれたいんだよ」

 やがて窓外は暗くなった。泣き疲れた彼女はいつの間にか眠っていた。ようやく眠りからさめると、目尻に涙痕をべっとりと残しながらサチの胸中から身をはがし、だらしなく呆けた。 今夜だけでいいからそばにいて。きゅっと結んだ表情で言った。あなたのうちにいきたい。夏音への申し訳なさから良心の呵責がたつ。それでも美子の手を取って家路を辿ったのは、故郷に帰った妻へのあてつけと、美子への同情だった。

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