第7話 逗子海岸にて

 自宅に戻ってからも波音は聴こえていた。

 それは湯を沸かす音や洗濯機の回る日常音にも含まれているようであり、脳内だけで鳴る幻聴のようにも思えた。波音は寂しさも連れてきた。箸やマグカップなどが彼女のいらなくなったおもちゃのように思え、ふと時々じっと眺めては、そんな自身の姿を阿呆らしく思って自嘲をかさねていた。


 そんな状況からの逃避として家でもデザイン画を起こすようになった。今取り組んでいるのは二点。民宿の青年から頼まれた鯨と木のモチーフと、苦心している美子。青年からの依頼は、ややもすると波音に沈んでゆくことになるので、まだましだと美子を優先にしていた。

 今回のデザインはサチに一任されていた。彼は美子のことを考え、性格の特徴や好きなものや、外見の印象などを種に想像を膨らませる。そこに彼自身の願望も混ざる。男たちから離れて自由に生き、やけど痕に縛られず瑞瑞しく生きる未来の彼女の姿。だがそれは、今の彼女には呪いとしても機能してしまうのではという懸念が、彼の思考をふたたび止めた。


 小一時間ねばったところで音をあげ、キッチンからウイスキーを持ってくるとロックで一口のんだ。熱い塊が胃の中に流れて急速な酔いがおとずれる。少し身軽になった指先でスマートフォンを手に取り、SNSの更新をチェックする。自身があげた写真―サチは自ら入れた刺青を、肌主の許可を取ってSNSに載せていた―の反響を確認していると、ふと香澄のことを思い出した。あれから連絡をしていなかったことに思い至ったが、その前にまず、フェイスブックで彼女の名前を検索してみる。みつかった。

 ヘナ・タトゥーと動物愛護団体のロビイング。おしゃれなごはんと美しい景色、そして友人たちとのあれこれ。写真には時々ホシの姿もみえたが、ともかくそんな、初対面時の印象通りに色彩が強い日常をおくっているらしい。更新順に記事がアップされるのでスクロールすれば、必然的に過去へとむかってゆくことになる。そんな遡及的な彼女の日々の中には、やはり捕鯨に関するものも少なくなかった。

 ドキュメンタリー映画にて批判されたある捕鯨の町が再び商業捕鯨を再開したときや、二〇一八年の末に国際捕鯨委員会を脱退したときなどの反対運動。彼女の所属する団体はエコテロリズムに分類されるような過激な態度は採っていなかったが、プラカードを掲げてデモ活動をしている記事の中には、佳恩町の名前も認められた。それは好意的な文脈で、彼女の言葉を借りるならば「佳恩町は一つのロール・モデル」「有限である海産資源とのサステナブルな関係性を築いている」「ホエール・ウオッチングを目玉とした観光業への舵取りが、国内でも可能なことを証明した」云々…。

 写真の中の香澄は二十代中頃から三十代前半まで。いずれの彼女も生命力にみちていて、やわらかな笑みだったり時には厳しい眼差しでプラを掲げる姿は力強く、そこに菜食主義がどう結びついているのか気になってしまう。メッセンジャーアプリを立ち上げたのはヘナへの関心はもちろんだが、そんな人間的な関心もあった。


 逗子海岸は人であふれている。サチは海水浴客たちの隙間を縫うように砂浜をあるいて、海沿いに軒を連ねる木造の店を見て回った。足をつかむ砂浜の重たさに辟易し始めた頃、目的の海の家にたどり着く。テラス席の香澄と目があった。

「サチくん。いらっしゃい」

 細かい砂だらけの階段をのぼって彼女の斜めにすわった。海の家の屋内スペースは昼前だというのに多くの人で賑わっており、ソースの焦げる匂いと喧噪が充満していた。そんな片隅で営業中の香澄は、二十代前半らしき女性の肩に花を描いているところだった。花の名前はわからない。蜂のように尖っている花びらの一枚ごとを曼荼羅のようなツタがつなげ、筆を泳がせるたびに粘土色の文様がうまれてゆく。その足取りは彫りよりも速く、肌上にインクを乗せるだけあって立体的でもあった。

 この日のサチはシャツにハーフパンツにビーチサンダルといった露出の多い恰好ということもあり、全身をみた女性客はぎょっと肩を跳ねらせた。露骨に距離を取ろうとしたが、動かないでと香澄にがっしりと腕を掴まれていたのであきらめて、身を小さくするように香澄の表情を覗った。

「ごめんね、私の友達なのよ。ヘナを勉強したいってお願いされていてね」

 筆をとめて目線を上げた香澄は、女性客に微笑みかけた。

「初見だと怖いよねえ。だって人間じゃないもの、この身体」

 女性客は今度はサチの表情を覗った。そして怯えた表情のまま、

「痛くなかったんですか?」 

 面倒に思ったサチは適当に愛想笑いを浮かべてお茶をにごす。

 ヘナ・タトゥーはそれから十分ほどで仕上がった。出来栄えを喜んだ女性客は、立ち上がって礼を告げるとそのまま店の屋内スペースの方にゆき、仲間らしきグループの中に混ざっていった。その中から黄色い歓声が咲く。仲間うちからの評判も悪くないようだった。

「この海の家、お昼どきには行列ができたりするんだよね」

 道具の手入れをしながら香澄は説明を始めた。

「その待ち時間に十分ちょっとで入れられますよって声かけたりさ、あとはあんな感じで注文の待ち時間にもね。もちろん、ヘナ目当てに寄ってくれる人もいるんだけど、入れた後は少し乾かす必要があるから。その待ち時間は店内で注文してもらって、みたいなね。それで間借りさせてもらえているんだよね」


 次の客はまだいなかった。じゃあ今のうちに…と、細かい説明を続けてくれる。

 ヘナ・タトゥーはヘナの葉を原料として使用する。砕いて粉末状にしたヘナの葉に水を加えてペースト状にして、その染料で肌の上に模様を描く。小一時間ほど放置してから乾燥したヘナを落とすと、肌に染料が写っているという仕組みになっていた。染料はAMAZONでも売られている。趣味程度ならそれで充分だよ、ホイップクリームみたいになってて封を切ったらすぐに使えるようになってるから楽だしね、と香澄。彼女は粉末から染料をつくっていたが、それに対し、やっぱり面倒だからねえと歯をみせて笑っていた。

 正午ちかくになると海の家に行列ができはじめた。ちょっと客引きと言って立ち上がると、きみは怖いからそこにいてよと、看板片手に行列客に声をかけ始めた。まず一人。また若い女性から申し出があり、客を連れてテラスに戻ってくると、女性客はサチを見て目を丸くした。

「あ、これはヘナじゃないからね。彫り物の人です」と言って香澄は苦笑していた。

 ヘナを入れていると次の予約が入った。一人、そしてまた一人。一つにつき十分程度で終わるので、客が次々に入れ替わる。全員が女性だった。刺青では女性の割合の方が少ないので、少し新鮮な思いをサチは抱いていた。

「ちょっとほら、練習しておきなよ。せっかくだしきみもやってみなさい」

 そう言うので道具を借りて練習に励んだ。化物のような男が尻に敷かれている様子が可笑しいらしく、女性客は少しく目尻を下げた。サチは一回目で完成度の高いデザインを仕上げてみせる。

 ふうん上手いねえ。そう言った香澄は、じゃあ交代ねえと彼と席を替わった。すでにお約束のやりとりとなった女性客の反応後に、この人初めてだから半額でいいからねと同意を取りつける。結局のところ要領は一緒なのだ。ただ、染料を乗せた肌に触れないよう気をつけるだけ。仕上がった蓮の花も充分な出来栄えで、女性客も喜んで店内に消えていった。

 途中、海の家のオーナーが差し入れをくれた。あんた人間じゃないみたいだねえ、と言ってペプシコーラを二人分。ありがたく貰って香澄の接客中にいただく。香澄はサチの接客中に飲んだ。

 行列が途切れて予約分も終えた頃には、すでに十五時近くになっていた。

 じゃあ今日はこれまで。そう言って彼女は片づけを始めた。まだ夕暮れまでは時間があるのにと訊くと、

「乾燥するまで小一時間。見せられる頃にはもう帰る時間だなんて、お客さんが可哀そうでしょ」

 この国の刺青文化は『秘匿』に価値を見出してきた。衣服の下にある本当の装飾、それを隠すことによって美を内面化できる。それゆえ、あの人は他の人とはちがうというような羨望にもつながった。見せるためのヘナと見せないための刺青。否応なく美子のことを思い出した。


「だってヘナはインド文化だよ。違うのは当たり前でしょ」

 ふたりは海水浴場から歩いてこれるレストランにきていた。店主とは懇意な仲らしく、菜食にも対応してくれるのが有難いんだよね、それに腕が良い。オーガニック・スパークリングワイン片手に香澄はそう語った。

 料理は彼女に任せることにした。店員を呼び出すと、よく日焼けした若い男性店員に「いつもの」とつたえ、そしてサチの方に掌を広げてこの人にも、と言った。店員はサチを一瞥し、店奥に戻っていった。

「子供のお遊びみたいだって思った?」

 冷ややかな視線で問う香澄。彼女の左手はワイングラスのフットに添えられている。

「まさか。お客さん、みんな喜んでいたじゃないですか」

 彼女の視線は変わらない。途中、ウェイターが前菜のサラダを運んできたが、彼女は終日見せていた愛想の良さは振舞わなかった。緊張した指先だけが彼女の感情を雄弁に語っている。

 ――蔑視していた? 俺が?

 自問をする。けれども思い当たる節はない。疑問符を口にしようとしたが、やめた。代わりに、俺のお客さんで、とサチは言葉をさぐった。

「友達でもあるんですけど、男から暴力をふるわれている奴がいて。そいつ、消えない傷ができる度に俺のとこにきて、刺青で隠してって言うんです。刺青で傷を隠すんです。肌を隠すために彫るんです」

 そこまでを零すとワインを一杯飲んだ。口の中にさわやかな酸味と炭酸がひろがる。

「彼女が彫りではなくヘナを入れる日がくればいいなって。俺はそう思いました」

 炭酸が弾ける音さえ聴こえるような沈黙。そのあと、糸が張っていた彼女の表情がようやくに緩んだ。

「ごめんね」グラスから手を離した彼女が中空で手を切る。

「ちょっとね。意地悪を言ってみたくなっちゃった」


 さあさ食べよ。放置されていた大皿のサラダを取り分けようと皿をみると、そこには宝石のように華美な彩りを放つ野菜たちの姿があった。ちがう、野菜ではない。花だ。見慣れた野菜の中に主張を放つ極彩の花びらたち。初めての光景に驚いて顔をあげると、視線を受けた香澄が得意げに笑った。

「大丈夫。食べられる花だから」

 香澄はトングで花々をぐしゃっと掴むと小皿に移した。フォークで突き刺す、てらてらとドレッシングが光る花々を口に入れる。サチも続いた。もそもそとした触感。印象の強い色彩とは異なり、無味の中にじんわりとした苦みが口内にひろがるだけ。美味しい…のか。香澄をちらと見ると彼女は嬉しそうに口を動かしていた。

 明瞭に美味しいわけではないものをわざわざ食べる。なぜなら、美しいから。絵画を聴いたり音楽を嗅いだり、香水を撫でたりする。ひねった蛇口の水源をたどれば巨大な水たまりがあるように、俺たちの感覚だって元はひとつなのに五つに別れてしまった。目で見て鼻で嗅いで、口で味わう。ちがうよ、口で見てもいいんだよ。香澄はそう言っているかのように目をつむりながら食べている。ならったサチも目をつむった。

 次の皿はアラビアータ。先ほどのウェイターが音を立てずにやって来て、小盛になったペンネを二皿分提供してくれる。小麦由来のペンネは真っ赤に染まり、暖かな湯気をもうもうとあげていた。

「もちろんお肉なし」

 彼女は一口分を運んで咀嚼したのち、おかわりのオーガニック赤ワインを飲んだ。

 一口分をフォークで刺し、蛇口が広がった口内へと放る。細かく刻まれたニンニクと甘みのあるオリーブオイル、さわやかなバジルの香りがあたたかな身からあふれ、口いっぱいに広がった。溌剌とした酸味に丁度良い陰影を与えているまろやかさは、チーズか。肉がなくても充分に美味しい。あの、と聴く。

「あの、チーズは平気なんですか。乳製品ですけれど」

完全菜食主義ビーガンではないからね。乳製品は食べられるんだ」

 ぱらぱらと追加の客が入ってきていた。一席のあきを挟んで座っている若い恋人たちは、一日を遊びきったのだろう、赤く焼けた肌を互いに見せつけながらメニューに悩んでいた。イワシのカルパッチョが食べたいと女性の方が言って、男性は肯定といった素振りで相槌を打つ。サチは質問を続けた。

「…香澄さんは、なんで菜食主義ベジタリアンになったんですか?」

 話したくなかったら無視してください、そう添えた。彼女は少しく思案したのちに、

「うーん、隠すことでもないんだけどね。君には言いたくないかなあ」

 そう言って朗らかに笑った。やや面食らってしまったサチだったが、その様子を受けて、

「ごめんごめん」と言って。ほんのりと赤く染まった頬を傾けた。

「でもね、例えばの話。私がレズビアンだったとして、〈どんな風にセックスをしているの?〉だなんて聴かないよね? ペッティングだけなのか、ディルドを使用するのか、とか」

 場違いな言葉が耳に入って、こちらを一瞥する若い恋人たち。口元には苦笑が浮かんでいたが、一方で当の香澄に気にしている様子はまるでない。

「もちろん聴きません。けれどセックスと食事では条件がちょっと違うんじゃないですか」

「つまり、セックスは密室で行われるけれど、食事は違う。現に今がそうじゃないか、と」

「そういうことです」アラビアータを口に含む。これ見よがし、といった風に。

「まあ、そうだね。少なくとも今日ではその通りだね」

「それに、性的指向は変えられない。でも、菜食主義ってライフスタイルの問題ではないんですか。思想と言ってもいいです。つまり、選択的なものなのかなって」

「ふむ…。まあ、性的指向についてはさておいて…、それでも菜食主義ってのも一枚岩じゃないのよ。こっちにも色々な人たちがいる。生まれつきって人もいるんだ。菜食主義を脱搾取ビーガンと定義した思想や、それを政治運動として実践している人もいる。その中で私の話をするならば…って、結局私は語ろうとしているね。まいったな」

 アラビアータの皿が片付いて次の料理が運ばれて来るところだった。メインディッシュは赤かぶ。ソテーした赤かぶとこんがりと焼かれたパンを、なめらかなチーズが覆っている。ほそくうすく、バルサミコソースがかかっていた。

「ねえ、こんな風に考えたことってない?」香澄はナイフで一口大に切ってから口に運んだ。

「私たちには隠しごとがあって、それが世界に〈秘密〉をつくっているんだよ」

 とても肉厚な赤かぶはカリッと焼かれていながら、歯を身に入れるとぎゅわっと水気が弾ける。表面についた焦げ目はさながら黒コショウのような風味をかもし、汁けと混ざってパンと溶け合う。そういった素材のすべてを、チーズのほどよい酸味と口蓋を押すような生々しい重みがつつんだ。とてもおいしい。

「ちょっとわからないです。陰謀論か何かですか?」

「それはホシくん。彼が傾倒しているスピリチュアリズムって、要は世界に存在する〈秘密〉に非科学的なアプローチで以て近づくことでしょう。私が言っているのはそうじゃなくて。本来、世界には〈秘密〉なんてない。隠されるべきものなど何もない。けれども、私たちが何かを隠しているから世界に〈秘密〉ができる。世界に凹凸ができる。あなたたちの刺青文化だってそうでしょ。隠す美学があるじゃない」

 刺青に関しては指摘の通りだ。隠すことによって威厳と畏怖を持てる。平然とした気色で往来を歩いた職人たちだが、彫りの最中には苦痛から唇に歯を立てたはずだ。そうして、美を手に入れてきた。

「俺はそうは思えないですね。だとしたら、人間の存在そのものが〈秘密〉ってことになります」

「ん、どういうことかな?」

 きれいになった皿を片付けてドルチェがきた。小気味よい音とともに置かれた透明な器の上には、うすい緑色のグラニータが乗っている。酔いから熱を発する舌の上で溶けて、透き通ったスイカの香りが舞った。

「人間はみんな違う性格をしています。固有の人格があるんですよ。それなのに、俺たちの身体はこんなにも画一的です。同じ型番のなかに、異なる人格という〈秘密〉を隠している」

 サチの返答を受けて、香澄は珍しいものを見るように彼を眺めた。初対面だった渋谷でのときですら、そのような視線は向けられていない。

「へえ…。人格の多様性にくらべれば身体の差異なんて大したことないって?」

「はい、その通りです」

 ワインボトルもグラニータの器も空になっていた。香澄はそれを認めるとウェイターを呼んだ。そうして会計を済ませると、

「まだ飲み足りないでしょ。もう少し飲もうよ歩きながら」そう言った。ふたりは店を出る。


 コンビニで缶チューハイのロング缶を購入して来た道を戻った。海岸線に沿って続く車道には、ライトをつけた車が走っている。太陽はすでに沈んで夜まであと少し。濃度の強い藍色があたりを覆っていく中で、車のいなくなった隙を見計らって車道を駆けた。ふたりは砂浜におりた。

 あたりにはまばらに人がいる。が、観光客はすでに少ないようで、近隣住人が散歩していたり海の家の従業員などが片づけをしている風だった。海は藍色の空と同化するように深く暗い。

 昼よりも波の音が強い。その音によって、ここ最近の波音が今日は聴こえていないことに今更に気がつく。どこからだろう。ここに来た時にはまだ聴こえていた。では、海の家に着いてからか、それとも飲み始めてからか。酔いにまどろむ脳はまともに働いてくれないので、思い出すことをあきらめる。

「菜食は体験してみてどうだった?」前を歩く香澄が安酒を煽りながら訊く。

「美味しかったです。ごちそうさまでした」

 ならよかった。そう言って歩き続ける。サチは少し後ろから背中を追った。

 やがて、ふたりは腰を下ろした。しばらく黙って海を眺めた。

「さっき言ってたこと。きみはかなり人が好きだよね。自分でもそう思う?」

「人間愛は強いのかもしれません。実際の人付き合いは不得手ですが」

 少し悩んだ末にサチはそう答えた。それを受けて香澄は、

「その人間愛を、もう少し広げられたりしないのかな。ペットは飼っているの?」

「いえ、妻とふたりだけ。アパートがペット禁止なので」

「夫婦って次第に顔も似てくるっていうけど、ペットもそうだって言う人がたまにいるよね。私も飼っていないからわからないけど、まあそんなわけはない。でもさ、それってペットを家族とみなしているからだと思うんだよね。それはたぶん、情だよね。一緒に暮らす中で生まれた情。情が、愛する対象を動物にまで広げさせるんだよ」

 アニマルライツを訴える人の中にはペット廃絶の主張もあるから、ペットを出発点に話をするのはあまり丁寧ではないんだけどね、と彼女は補助線も引いた。

 論旨としては納得できたが、それでも残った違和感を隠さずに口にしてみる。

「なんで広げる必要が必要があるんだろう?」

 そんなの…と愚息をたしなめる母親のように、薄笑いを浮かべながら彼女は答えた。

「生命が誰にも搾取されないためにでしょう」

 夜がきた。海と空との境目が曖昧ないちめんの暗闇の中で香澄の表情を覗うと、酔いにまどろむ視線が絡みあった。彼女は挑むような視線を投げつけ、こうつけ足した。

「情を広げてゆくんだよ。最初は隣人。そして人類、哺乳類、やがてはすべての生き物にまで。わたしたちは命を尊重し合わないといけない。その必要性を学ばないといけない」 

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