第6話 深淵を覗く者は…

 翌週、大阪行きの東海道新幹線の車中でも香澄のことを話していた。

 中心に美子を据えて二人が座り、週末旅行さながらと言った風に駅弁を片手に缶チューハイを朝から飲む。ふたりの同行は夏音にも話していて、というよりも彼女からの誘いだった。失踪調査の件でホシと話したいらしい。

 美子の暴力痕は先週から少し和らいでいた。しかし十度ちかい度数の缶チューハイを飲んでいると、ぽってりと赤らむ表情の中で冷たい痕だけが浮いてみえた。化粧で隠していただけなのかとつまされる想いを抱き、「あ、ほら富士山」などと言って向かせた窓。それ以降、彼女は缶に手を伸ばすことを控えた。余ったチューハイは大阪駅で捨てた。


 佳恩町の駅には、この前の来訪で親しくなった実行委員の青年が迎えに来てくれていた。沿岸部にて民宿を両親と切り盛りする彼は、いかつい車を運転しながら、まずは夏音のここしばらくの様子などを話してくれる。そういった近況報告も終えたのちに、

「みなさんもサウナ好きなんですよね。ぼくも、サチさん伝いにハマってしまって」

 前回の来訪の際に入り江にて一緒にテントサウナをしたところ、大いに感じるところのあった青年は、今日も楽しみにしていますんでと言って、三人を夏音の実家まで運んでくれた。ホシと美子は青年の民宿に泊まる予定なので、二人の宿泊用荷物だけを持ったまま彼は民宿へと引き返して行った。

「まあまあ、上がってよ。親は仕事でいないからさ」

 ベルを鳴らすと夏音が迎えてくれた。初対面である夏音と美子は互いに恭しく挨拶をしあって、よくサチ君から聴いていますなどと互いに口する。みなが居間に座ると夏音は台所へと姿を消して、数分経った頃に赤いチェック柄の保温ポットと急須、三人分の湯飲みを盆に乗せて戻ってきた。その姿が彼女の母親と重なってみえる。

「今日はわざわざ来てくれてありがとうね」

 とくに美子に愛想を向けて夏音は謝意を告げた。美子は微笑みながら首を横に振る。夏音が保温ポットを押す度にプラスチックの擦りあう音が響き、そうして湯飲みに茶を注いで三人に配ると、彼女は一仕事終えたと言った風に片手で支えるように姿勢を直した。ほんの一ヶ月前まで一緒に暮らしていた都内のアパートでは、彼女の応対姿など見られたことはない。けれどもその姿に違和感をあまり感じられないのは何でだろうか、そんなことをサチはぼんやりと考えていた。


「じゃあそろそろ本題に移ろうか」

 十五年前に起きた失踪事件。法会の準備中に海辺で遊んでいた小学生三人が失踪し、未だに見つかっていない。目撃者は小学生だった夏音ただひとりで、彼女が少し目を離した隙に忽然と姿を消した。かつての少女は、入り江から遠洋を寂しそうに眺め、

「ここで三人がいなくなったの。神隠しにあったように」

 そう言って膨らんだ自らの腹を両手で撫でた。

 夏音の実家を後にした三人は入り江まできていた。波は穏やかで、両岸の茂みと眼前に広がる太平洋が陽光にきらめいている。あの時はああでこうで…夏音から説明を受けるホシは相槌を打ちながら、辺りを検分するように頻りに視線を動かしている。

 熱心なふたりとは対照的なサチと美子は、近くに打ち捨てられていた木船のへりに腰を下ろした。頭上から注がれる日射から逃れるために、美子の日傘に肩を寄せて入れてもらう。

「奥さんも大変だね。でもさ、なんで十五年前のことをいまさら掘り返すの?」

「出産前に向き合っておきたいんだって。自分の人生に起きた大事件について」

 暴力的な嵐が消し去った子供たちの行方を探そうと、夏音は当時のことを懸命に思い出しながら熱心に口を動かしている。妻には申し訳ないが、サチにはその様子が滑稽に思えてしまっていた。この問題が彼女の人生、そして今やふたりの関係性にまで影を落としていることは判っていた。出産前に片付けたい、なんで友だちが消えてしまったのかを知りたいのだと、別居を切りだした夜にも語っていた。だが裏を返せば、彼らの安否への気遣い、生の希求ではない。


 その日は穏やかな天気だったから波は低い。十数秒目を離した隙を図って人さらいができるはずもない。友達が自ら姿を隠して、今もずっと隠れたままだというのか?どこに、いつまで? 

 わかっていた。これまでも不透明な理由で多くの人が傷つき損なわれ続けてきた。けれども、それは晒された偶然性に納得できないだけで、事象の因果関係だけは明白なことが殆どだろう。それが不明で神秘的ですらあるあの事件が、この世界に穴をあけたことが夏音は許せないらしい。

 位置も形もわからない穴。ただ歩いているだけで落ちてしまうような穴がきっと無数に空いているこの世界に、子供を迎え入れることを彼女は認められない。そんな世界と格闘をするために、夏音は夫への斟酌も蔑ろに故郷へと奔走してしまっている。望んだ孤立での闘い。

 見送った側であるサチはそんな妻の姿を滑稽と思いながらも、自身の営為も同様であることはわかっていた。電動タトゥーマシンで人肌という穴を埋める。せっせと埋めてはまた次へ、そんな営為だって滑稽と言えるのに、そう思えるか。思えん。まったく思えんのだった。この職業に従事してから十年ほど、この穴埋めは彼にとって常に切実であり続けているのだった。

「すげえなあの木。いったい何年いきてんの」

 夕暮れ時、入り江にテントサウナを張って四人は蒸されていた。購入したばかりの品を披露できて満足気な民宿の青年は、Tシャツ下に水着が透ける美子を何度も一瞥しては鼻の穴を膨らませた。

「千年すよ。まあ、ほんとのことはわからないっすけど」

 早速、意気投合したらしいホシと青年。もう限界とホシが言うと青年も連れ立ってテントをでて、やがて海の方から歓声がきこえた。ややもすると私もと言って美子もきえた。ようやくサチが出ると三人は夕日に身体を赤くそめて砂浜に横たわり、頬をだらしなく弛緩させていた。彼らの横を通ってざぶざぶと海へ入る。潜って身体をひやして水面に顔をだす。大きく息を吸って目を見開く、「彼」がいた。

 二本脚で立った彼はいやに真丸な眼でサチを見つめている。サチは彼の視線を受け止めて、しばし茫と見つめ合っていた。やがて彼は腕を伸ばすとサチの手を取った。ゼラチン質のようなぶよぶよの掌がサチの掌を包み、やや力を込めて引きよせようとする。誘われてゆく。運ばれてゆく。海水は足取りを重くしないで抵抗なく前へ進めさせる、その度に深度は増して、やがて首までが海に浸かりだした。眼前にひらけた灰色のうみに沈んでゆこうとする、こころは茫としたままで、身体にはもはや冷たさもない。

「おい、大丈夫か」

 引き止めるように肩を掴んだのはホシだった。

 前には誰もいない。ただ自身の腕が力なく放りなげだされているだけだった。


 海からあがったサチは砂浜に腰をおろして茫然としていた。心配そうな視線を投げかけながらもホシと青年はふたたびテントサウナに戻ったが、美子は彼の肩にバスタオルを羽織らせると、そばに腰をおろした。

「ねえ、どんな刺青を入れてくれるの?」

 Tシャツの袖をめくるとやけど痕がみえた。なにがいい、と訊ねてみる。うーん…、唸りながら口をとがらせる美子、肩を左右に揺らしながら唸り声を出し続ける。たまに肩がふれた。

「美子ちゃんさ。もっとまともな男とつきあいなよ」そんな言葉が溢れでた。

 不意打ちされて豆鉄砲をくらったような美子。やがてゆるゆると表情をやわらげさせ、

「うーん。例えばどんなひと。ホシくんとか?」

 やだあいつまともじゃないし、と自分のことばに声をあげて笑う。

「じゃなくて。もっと美子ちゃんを大切に思ってくれる人をさ」

「じゃあサチくん」

 膝を抱きよせて上目づかいで彼を見上げていた。えっと驚きから声をあげると彼女は快活に破顔させて、

「あはは。私ももっかい入ってくるね」

 二人に続いてテントサウナに戻った。そうして一人で海を眺めていると、背後から肩をたたかれた。さきほどのこともあって大きく肩を跳ねさせると、果たして夏音だった。膨れた腹を抱えるようにして隣に腰をおろす。

「ねえ、今日の夕食みんなも誘えばって両親が。どうかな?」

「両親ってお義父さんも? 信じられない」

「お父さんなりに反省しているんだよ、もう認めてくれてるから大丈夫。人質司法みたいなやつだよ」

 ねえ。この海って何かいるの。そんな言葉がよほど喉元まで出かかったが、代わりに出てきたのは「人質司法ってなにそれ」といった、単なる受け答えだった。


 妻の腹はどんどん膨らんでゆく。それはあと二月もせずに頂点に達するはずで、そうすれば新しい生命がこの世界に生まれでる。そんなことを今さら不思議に思った。合意して性行為をする。受精した遺伝子たちが受精卵となり、十月十日をかけて成長する。生まれてへその尾がきられる。

 人間から遠くありたいと願っていた彼が夏音を愛して、ふたりだけの遺伝子でできた人間が欲しいと願った。妻の掌は腹に添えられている。サチは彼女の腹で膨らんでゆくものを、妻だけが占有していることに恐怖を覚え始めていた。それは一晩かけて話し合った一時的な別居の影響でもある。サチはこの海がこわかった。さざめきは呼び声に聴こえる、町人たちが呼ぶかおんかおんという呼び声は、町の名か妻の名か。かおんかおんかおんかおん、寄せては返す波のたびに響き渡る気がした、その音は、妻の腹からも発している気がした。

 その晩の両親の機嫌はずいぶんだった。なんだかんだで愛想良いホシと、少し派手ではあるが小動物のような愛らしさがある美子に好印象を持ったからだろうか、サチの社交的な部分を知れたからなのか。彼女の実家で食卓を囲みながら、ご機嫌な両親ふたりにも苛立ちはつのってしまった。夏音は周囲が酒を飲むことに何らの抵抗感を持たなくなっていた。飲みたくなっちゃうからとあれだけ言っていたのに。

 食卓にはクジラ肉がでていた。佳恩町ではクジラ肉を食する文化は薄れており、それはホエール・ウオッチングによる観光業へ舵を切ってから加速度的に進行していたのだが、完全に失われたわけではない。眼前の肉が、この町の両義性をあらわにしていた。そんな肉を食しながら香澄のことを思い出す。東京に戻ったら連絡しないとなと思いながら、噛む。馬肉のような繊維質の肉を臼歯で何度も噛んだ。

「良い友だちじゃないか。すこし安心したよ」

 ふたりが民宿にきえた後、赤ら顔の義父がそう漏らしていた。

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