第5話 ヒマワリの女、ヘナ・タトゥーの女

 今年の夏は例年以上の酷暑だった。

 盛夏を迎えて滝のような汗が流れる間、サチは予約の数だけ人々の身体に刺青を彫って、時折、ホシたちと遊んで二週に一度は佳恩町を訪れていた。

 美子から予約が入ったのは、品川行きの新幹線の車中だった。スマートフォン片手に駅弁とビールを口にしていると、彼女から新しい刺青を入れて欲しいというメッセージが届いた。嫌な予感を抱きながら当日を迎える。彼女は猛暑のなか薄手のカーディガンを羽織っていて、脱いでみてと言うと、彼女はためらった後にノースリーブ一枚になった。

 両肩に残る青あざと内出血の痕。その中には煙草のやけど痕もみえた。とても痛々しい。多少の日数が経ったようでありながらも消えてくれない様が、執拗な暴力のしるしであることは明らかだった。


「…また恋人から?」

 サチが訊ねると、彼女は今にも消えてなくなりそうな様子で首肯した。

「あざはすぐ消えるから。この前みたく、やけども何とかならないかなあ?」

 彼女の膝上で丸められたカーディガン。サチにはそれが、彼女が大事に育てる小動物のように見えた。

「なんとかなるよ。大丈夫。まずは、その怪我をばっちり治そう」

 サチの言葉に安堵すると美子はカーディガンを羽織った。そして、サチは表の看板をクローズに変えたのち、彼女にアイスコーヒーを煎れてやった。彼女は謝意を告げて、一口飲んだ。

「ごめんね。恥ずかしいなあ、こんな姿。いつものことなんだけどさ」

 美子の男はこんな輩ばかりだった。彼女は青白い光にさそわれる虫のように暴力男たちに近づき、いつもいつも派手な傷をつくる。本人もその傾向がわかっていながら、いいの私はいいのそれでいいのと、周囲から諫められても開き直って耳を貸さない。周囲の者も次第に彼女への説得をあきらめ、今ではこのようにただただ話を聴いてやり、彼女が必要としている実際的な支えになってやるだけだった。

「わたしもサチくんみたいになっちゃうね」

 自虐ぎみに美子はそう漏らした。ひとしきり話を聴くと、今日も友人の家に泊めてもらうと言って彼女はスタジオを出ていった。がらんとした待合室には鈍重な空気がただよっていて、ポスター一枚貼られていない飾り気のなさが、かえってうるさく感じられる。そんな重たさから逃れるように事務室に移った。


 穴のあいたジーンズに継ぎ接ぎをしてゆくように、消えない傷ができるたびに刺青で隠してゆく。お気に入りの一本ならばそこまで大事にすることにも納得だが、彼女はあの身体を気に入っているのだろうか。そして、継ぎ接ぎだらけのジーンズならば飽いたら捨てれば良い話だが、では身体は? そんなものは、単に自殺にすぎなかった。たしかに彼女は美人だった。だが、それを彼女が気に入っているのかと言えば、全く関係のない話だった。

 サチが彼女の為にしてやれること。それは、彼女が自分の身体に飽かないように丁寧な仕事をすることだけだった。抽斗からスケッチブックを取り出すと彼女の為に案を練る。いくらかの案がでて足取りが遅くなった思考は、軽さを求めて、みなと町で腹を膨らます妻の方に寄っていった。二人は別居前に、愛情の明確なしるしとして婚姻届を提出していた。

 丸い縁取りの右側にデフォルメされた杉を書く。その枝葉の伸びた先には家々が並び、その中には膨らんだ腹を慈しむように両手で抱える女性の姿がある。図面左側には波立つ海。一等の鯨が潮を吹き、中空に上がった飛沫は音符の形をしていた。この女性の身体から赤子がでてくるとき、その産声はたしかな喜びであって欲しいと思う。こんな傷や痛みなどを好んでしまうような世界であったとしても。でも今のおれは願うばかりで、その母親のそばにはいない。


「明日からはしばらく俺んちに泊まる予定。仕事手伝ってもらおうかなって」

 その晩、ホシを誘った。ふたりは奥渋谷のバルにきていた。

「うん…、それがいいのかもしれないね。店にも出られないだろうし」

「しっかりこき使ってやらなきゃな」と言って炭酸水を一口飲む。

「そういえば、夏音ちゃんからも依頼があったよ。聴いてる?」

 失踪事件のことだった。移住してからの夏音は佳恩町の旧友たちにも協力を仰ぎ、事件について調べていると聞いている。そして実績もあるホシにも助けを求めた。

「うん、聴いてる。調査はどう?」

 ホシはわざとらしく頭を掻いたのちに冷めたソーセージを口に放った。

「うーん。俺も興信所の人ってわけじゃないからさ。できることなんて限られているし、夏音ちゃんから頼まれていることも国会図書館での調べものとか、その程度なんだよね。まあ、やっぱり難しいよね。何しろ十五年も前のことで、目撃者が夏音ちゃん一人なわけでしょ。状況的に濃厚なのは、やっぱり波にさらわれたとかね」

 さらわれてから陸にあがったとして誰も故郷を口にしないなどありえない。もし生きているならば、記憶喪失にでもなっていないとおかしい話だが、三人ともが記憶喪失などそれこそありえないだろう。ならばかわいそうだけど、既に…、というのがホシの推論だった。サチも、それが妥当だと思う。

「ただし」と言ってホシは続けた。

「当事者たちが本当のことを言っているならば、というところだけど」

「なんで夏音が嘘を言うんだよ」

「知らんよ。可能性の一つってだけ。でもさ、心的外傷で記憶に蓋をするなんてさ、珍しいことだけど何処かであった話なんだよ。あとは、町ぐるみで隠蔽してるとかね」

 淡々とそう呟いたのちに再び炭酸水をオーダーするホシ。ついでにフードメニューも二、三追加注文をする横で、サチはその可能性について考える。妻か町かが嘘をついている。そんなものは荒唐無稽な陰謀論、スピっている友人の戯れ事だと一笑に付し、すべての原因をあの得体の知れぬ化物が潜む海と波に任せきって、もやもやとした胸のつっかえをアルコールですべて押し流す。

「夏音ちゃんが転居したことの良い面はあれだな」

 店員から受け取った炭酸水をそのまま口に運びんだホシ。

「こうして飲めるようになったことだよな。まあ、俺は飲まんけれども」

 一人の間はお酒飲んでもいいから。そんな提案をしたのは夏音だった。でも、また東京に戻ってきたら禁酒だからね禁酒、いっしょに禁酒だから。しつこく念押すのも彼女は忘れていない。


「そういえば、ホシの友だちでヘナ・タトゥーをやってる人っていない?」

「え、まあいるけど。てかそういうのって、お前の周りの方がいそうじゃん」

「直接的な知り合いにはいないんだよ。必要な道具とかは業者から仕入れられるんだけど」

「へえ。なに、始めたいの?」

「ほら、法会で。あれに出店しようかと思ってさ、習いたいんだよね」

 あれから佳恩町に通う中で知り合いもできた。挨拶のために法会の若い実行委員たちの集会を訪問した際には刺青を感嘆され、すげえ男前だなあなどともてはやされもしたが、それは外国人も多く訪れる観光町の寛容さか、かつての漁師町としての粋な態度なのか。義父もこうならばと脳裏によぎったが、よければ法会を手伝わないかとそのときに誘われて、彼らなりの歓待の禊なのだろうと思い、できる範囲ならばと承諾したのだった。そうして、せっかくならば職能で貢献できないか、という考えに至ったのだった。

「ああ、前誘ってくれたやつね…」

 そう呟きながらスマートフォンを操作するホシ。いくつかの雑談を交わしたのち、

「友だち、いいってさ。ちょうど渋谷で飲んでいたらしくて、少しだけ顔出してくれるって」

「え、いまから」と驚いて問い直したが、

「うん。まずは顔合わせってことで」

 ホシはそう言って涼しい顔をしている。


 その女性がやってきたのは、おかわりのグラスが半分ほどに減った頃だった。挨拶を交わし合ったホシは店員に声をかけて、円形の立ちテーブルへと移らせてもらう。三人は背の高いスツールに半分立ったような態勢で腰をかけた。 

 結構飲んできたん。や、そんなに。何飲もうかなあ。思案げにメニューを眺める彼女をぼんやりと眺めるサチ。ネイビーの無地Tシャツに細身のブルージーンズ、スニーカーというシンプルな服装。染めたというにはあまりに雑に毛先立った茶色の髪、よく日焼けした褐色の肌。意志の強そうな眼差しには三十代前半らしい自信が宿っている。この人にはどんな…と職業病が膨らみそうになったとき、悟られたかのように視線が合って、ふふ、と彼女は笑みをこぼした。

「香澄です。どうぞよろしく」

 彼女のモヒートが届いたので乾杯をする三人。

「ホシ。あんた、なに飲んでんの」

「炭酸水だけど」と言ってわざとらしく一口飲む。

「えーなんで飲んでないのさ。あんた無類の酒好きだったでしょ」

「やっぱりね、身体に悪いものは摂取しちゃあかんのよ。わかるでしょ?」

「いや、私のは多分あんたのと違うから」そう言うと香澄はサチへと視線を向けた。

「それで、きみは凄い身体だね。ここまでの人は私も初めてみたわ」

 香澄は感嘆しながらサチの身体をじっくりと眺めて感想をこぼした。

「お兄さんは…ホシのタトゥーを入れた方だよね?」

 問いかけに首肯すると、

「彼のミミズ、キュートで好きだよ。何でミミズなのかはよくわからんけど」

 彼女はこの時期には毎年、逗子で営業しているという。宿泊所は海の家のオーナーが用意してくれるらしく、ヘナ・タトゥーでの稼ぎの八割がその二ヶ月間に集中していた。期間中はほぼ休みなく働き、雨の日や日没後に休むのが殆どだという。

「きみはラッキーだったね。今日はたまたまこっちまで遊びに来てたからさ」

 残る十ヵ月は友人知人からの依頼やイベントへの誘いなどがあれば細々と営業をして、スナックなどでも週三程度働いて生活費を稼いでいると語ってくれた。兼業をしないと食べていけないのはサチも同様だったが、それでも夏季二ヶ月に忙しく働けば週三程度で良いのは、少しうらやましくも思う。


 香澄は明朗快活な性格の持ち主だった。これが消せる消せないという身体加工の精神性なのかと納得してしまうほどに、その性格はサチとは大よそかけ離れている。刺青が月夜に咲く花ならば、このヘナ・タトゥーというものは反対に、陽光の下でこそ輝く文様なのだろう。反復可能な文様は実に陽気な気性を持つらしい。

 彼女が菜食主義者だと語ってからも、その印象は変わらない。何か食べるかとメニューを手渡した際、彼女は首を横に振って、この店じゃあ食べられるものが少なそうだからと固辞した。

「肉とか卵は食べられんのよね」野菜スティックを塩で食べながら呟く。

「そうだったんですね…。すみません、店を変えましょうか」

「いいよ。さっきまでの店で充分食べてきたからさ」

「違う店にしようかとは、来る前に確認してたからな」

 言い訳をするようにホシは呟く。

「不躾な質問ですけど…肉を食べたいとかって思わないんですか?」

 ポリッと小気味良い音をたててニンジンを食べたのち、彼女はハッキリと、

「思わない。肉食なんてのは人肉食カニバリズムの変形だよ。きみは、人の肉を食べたいと思う?」

 予期せぬ返答に圧されて困惑から口を開閉させてしまう。ホシの友人だというのが納得できる、とても独特な思考をしているらしい。隣のホシは酩酊する瞳に爛とした光を湛えていた。

 菜食主義に変貌したのは二十代になってからだと、香澄は語ってくれた。それまでは肉も魚も食べていたのだが、以降は生理的な困難を感じるようになった。ならばと乳卵菜食主義ラクト・ベジタリアンとしての生活を実行してゆく中で、その頃には既に商売を始めていたヘナ・タトゥーの客として、動物愛護団体の人間と知り合った。

「それが今の彼氏。ホシは会ったことあったよね」

「あったねえ。香澄さんたちの活動手伝ったときね」

「それで今はそっちの活動もやってるんだよ。わかりやすいでしょ?」

 と言ってあっけらかんとした表情で笑った。なるほど、陽気さも一周すれば随分ひねくれた道に進むものだとサチは感心し、眼前のオプティミストに様々な質問をぶつけたくてしょうがない。

「でもさ、なんでヘナなの。君は彫り師でしょ?」

 そんな高揚が見抜かれたのか、逆に質問される。やや思案したのちに、妻の故郷の祭りに出店をしたいのだと理由を語った。彼女は納得したのか興味が湧かなかったのか、ふうん、と事なしげに相槌を打ったのち、

「じゃ、私そろそろ戻るね。きみ、本当に習いたいなら海の家においで」

 メッセンジャーのIDをサチに教えたのちに彼女は去っていった。

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