第4話 奇妙な生物との邂逅

 彼女の杖代わりになって石段を降りきると、彼女はじっとり濡れたワンピースに風を通しながら、息も絶え絶えにコンビニを指さす。所望していたガリガリくん梨味を買ってくると、犬歯でシャーベット状の身をくだいて口いっぱいに頬張った。氷菓子に汗が抑えられたのち、ふたたび歩く。

 とは言えこの町の要所はもう終えていた。門前町を抜けて歩道を歩いてゆくと、夏蜜柑の木々が茂る。たわむれた葉のあちこちに浮かんだ黄色の星々を過ぎれば、町の北東端の岬に建つ小学校に出た。幼い夏音が通っていた学校。門を越えたふたりは、校庭でしばし茫とする。

 そうして道を戻って、今度は海沿いの道をゆく。防波堤が海への道を固く閉ざしていて姿は見えない。さざめきだけが聴こえていた。


 半島のようなこの町を小さく一周する道なりは、さながら彼女の過去への巡礼だった。彼には思い及ばぬ場所で目を開いて細めて、歩みを止めてまた歩き出す。震える小指、時折ゆるむ頬。そんな表情豊かな彼女だったが、石塀から海が顔を出した入り江まで辿りつくと、その顔を不安一色に塗りつぶした。

 その入り江の両岸には小高い丘がそびえ、ともに深い緑色がにぎやす。彼女は遠くを眺める。

――ここだよ。みんながいなくなったのは。

 ごくごく普通の入り江。ここで、大波にさらわれたかのように忽然と子どもたちが姿を消した。そばにいた夏音は何も気づかないまま。さざめきは足にまとわりつく流砂のように、アスファルトに戻ってからも中々消えてくれなかった。


 陽が暮れる頃に帰ったふたりを、すでに準備済みの食卓が出迎えた。卓上には近隣で獲れたであろう海鮮が賑やかで、卓に座ってぼうとテレビを見ていた父が、彼に瓶ビールを勧める。となりに座る夏音と視線がかち合い、そのしかめ面から赦しを察したサチは、グラスでビールを受けた。二か月ぶりの酒にのどが鳴った。

「わたしが食べられるものないじゃん」

 母が台所から運んできた料理を眺めて夏音が漏らす。

「なんだ、魚介好きだろう」

「じゃなくて。妊婦に生ものはだめでしょう」

 ノンアルコールビールに口をつけながら続けた。

「あと、サチ君。今日は特別だかんね」

「早速、尻に敷かれているなあサチくん」

 父は失態を取り返すようにだらしなく笑った。早速、とは言え夏音とはもう三年になるが、これからの十年幾十年を想えば、やはり早速に過ぎない。ようやく母も落ち着いたので、四人は乾杯した。


 四年前、医師免許を持たずに営業を行ったことが理由である彫り師が提訴された。彫りは医療行為であるという地方裁判所の訴えに対し、大半が無免許である彫り師は反対運動を採った。支援団体を発足し、駆け出しだったサチも師匠とともに原告を助けるべく奔走していた。

 もちろん、彼もこの主張には強い憤りを感じていた。風営法の改正に基づくクラブカルチャーへの圧力の波が我々にも寄せてきて、国家は逸脱を許さないような漂白社会を目指そうとしている。それは人間の自由に対する確かな冒涜だと考えていた。それを世論に訴えるため、渋谷のレンタルスペースで記者会見が開かれることになった。原告と弁護士が中心に、彼らを挟むように刺青だらけの支援団体員が座っていた。机の向こうには大勢の記者が構えている。

 サチは裏方にいた。そのとき取材に来ていた記者のうちの一人が、夏音だった。

 それから続く長い裁判のなかで彼女は何度も団体へと足を運ぶ。やがて顔見知りになったふたりは、酒を飲みにいって互いの酒好きを知って、気がつけば胸襟を開きあっていた。彼女が記者になったのは幼い頃の失踪事件に関係があること、熱心に取材に来るのは単に担当だからでとりわけ関心があるテーマではないこと、でもサチの刺青は好きだよとてもクールだと思う、彼の黒い胸に口づけた後に彼女がそう零したのは、出逢ってから一年ほど経った頃だった。


 かおんは夏の音って書くんだ。私の故郷、もう何年も帰ってないんだけど、そこは鯨が特産だったの。まあ、今はもう獲らないんだけど。鯨たちがうちの町に訪れるのがね、夏なの。知ってた、鯨って歌うんだよ。彼らの歌、それが私の名前の由来。町に福をもたらす哺乳類の歌。そしてね、そんな町の名前は佳恩町。ありがたいお名前よね、ほんと。

 俺だってそんなもんだよ。幸だから。これがね、幸男だったり幸一とかだったら違うんだろうけどね、これ一字の圧と言ったらないよ。

 いつかの晩に飲み屋でふたりは愚痴った。私たちふたりとも、幸せになれ、幸せになれって願われたんだね。ねえ、でもふたりとも、何だか幸せそうじゃあないね。

 幸せから遠い場所に行こうよ。とおく遠く。いつかの晩、夏音がそう呟いた。サチは手を強く握ることで約束をした。さらにいくつもの夜を重ねて、ふたりは子をなし夫婦になることをえらんでいた。


「君に…、夏音を幸せにできるのだろうか?」

 酔いから鬼灯のようになった父親が呟いた。卓上の魚介はおおよそ片づき、残った肉片たちは水気を失っている。焼酎の水割りを卓に置いた音が空間に浮き、母親はそっと目を伏せ、夏音は深いため息を吐いた。

「だってそうだろう。君は…なんだ?」

「なんだ、その身体は。これから家庭を守っていくべき主らしくない、趣味まみれの身体。仕事だって不安定じゃないか。そんなので、君は…」

「趣味じゃありません。これが、俺らしい身体なんです」そう言ってサチはシャツを脱ぐ。居間に黒雲が浮かんだ。

「俺らしい身体って…」

 意味がわからないという風に繰り言をした。諫めるように夏音が仲介に入ったが、

「そもそも、お前もだ。なんで十年も帰ってこなかったんだ。挙句の果てに、婚約者もいて妊娠もしていて、それがこんな、よくわからん奴で」

 母親が大声をあげた。その余韻は痛いほどの沈黙となって室内にいつまでも響いた。

「じゃあ、お父さんが東京に来ればよかったのに」

 沈黙を破ったのは夏音だった。ぽつり、とひとりごとのように呟いた。

「ここはお前の故郷だろう。帰る理由がきちんとあるじゃないか」

「ないよ。私は、この町から離れたかったから。ふたりには申し訳ないなってずっと思っていたけど、帰りたくなんかなかった。それがやっと、帰ってもいいかなって思えたのは、家族ができたからなんだよ?」

 その言葉を受けて父親は黙った。娘の心に傷がずっと残り続けていたことへの無知が恥ずかしさを呼び、酔い以上に顔を赤らしめる。

「ちょっと、外の風にあたってきます」

 そう言ったのはサチだった。

「出ていくのは私だ」

 父親はそう諫めたがサチは留まるように願い出た。話はすでにサチ云々ではなく、家族の問題だった。サチは隣室からバックパックを背負うと、家を出て、薄暗い歩道をいった。


 とはいえちがう。外に出た理由はそれだけではない。日中に散策したコースを逆に歩いて入り江についた。背から荷を下ろし、もう一つの理由であるテントサウナを設営する。

 薪が香花岩を暖めるのを待った。眼前に広がる暗闇では月のあかりを受けた波が白く光り、決してたえることのないさざなみが、ひたすらに押し寄せる。

 夏音の父親の言葉は尤もだと思った。身体のことだけではない。結婚への反対を受けて外に逃げ、しまいには夜の海辺で趣味のサウナを愉しむ情けなさ。けれども一方では、義父となる男の堪え性のない性格に対してうんざりとした気持ちを覚えてもいる。

「同じであること」を求める窮屈さ、人間一般は個別の存在であり独立した生命であるのに、共感能力の高さゆえなのか、他人が自分と同じであることを求めてしまう。

 サチの刺青は共感への防波堤として機能していた。アイヌや琉球の女たちが顔や掌に刺青を入れたこと、それを多くの和人は醜い意匠と捉えたが、それこそが子宮を守るための生存闘争だった。あえての醜さを身体に取り入れること、それは「同じであること」を求めない求められないための闘争であり、それはこの国での刺青の起源が墨刑にあったことからも等しく言えた。

 血に濡れた屠殺場から咲く美しい花。スティグマをあたえられた皮膚から芸術という果実がうまれたのは当然だった。それゆえにサチは自らの身体を誇りに、美しいと思っている。ほかの人とはちがう、俺らしい身体だと愛している。

 化物がいい。化物でありたい。俺は俺でしか有り得ないのになぜ他の人間と同じような身体なのか、そういった素朴な実存が生んだ影が彼を異形へと近づけた。

 人間から遠く離れたい。そんな異形に焦がれた彼にも、今では愛するひとがいた。愛はたしかに「同じであること」への紐帯として機能し続け、その最たる証明はまもなく産声をあげようとしている。もちろん、我が子に刺青は引き継がれない。つるんとした肌で生まれるはずだ、恋人と同じような大多数と同じような肌として。それは卵の黄白のように彼女と一つになりたい、硬い殻に覆われたふたりだけの場所で一つになりたい、いつかの夜に強くそう願った一つの結末だった。そのいつかの夜、きさまも所詮は人間なのだと指さされたような気配を感じ、悔しさが立ったのを強く覚えている。それは今でも残っていた。人間と化物の狭間で葛藤する繊細な小心者。異形になれた今でも、いや今だからこそ、小心者の身体を舞台にした峻厳たる綱引きはつよく行われ続けていた。


 一度目の蒸され。夜の海にもぐり、きりりとした冷たさが爽快さをあたえてくれたのち、視線を感じた。海のほうから。海面から身をおこしたサチは、半月が浮かぶ太平洋の彼方をにらむ。すでに夜も深く、当然ながら船の一艇もない。気のせいかと思ってふたたびテントサウナに戻って、二度目の蒸されを始めた。十分ほど汗をかいてからふたたび海水に身をひたす、やはり、気のせいではないと感じられるのは、ひたすらに広がる暗黒のせいなのだろうか。

 三度目の蒸されのときだった。暗闇の海から現れたそれは、テントサウナの扉をくぐり抜け、摂氏九〇℃近くの室内に入ってきた。びしょびしょに濡れた身体でそのまま砂の上に座り、中央に据えられたストーブをしげしげと眺めている。

 サチはうなだれていた。それの気配に気づいてからも姿勢は変えず、視界の隅に映るその姿を気づかれないように観察する。藍色に染まった全身のところどころにはヒレのようなものがあり、妙に目と目が離れた、半魚人のような身体。次第に乾いてゆく皮膚に耐えきれなくなったのか、何事も発さないまま、ものの数分で出て行った。サチはもう一度海に潜ろうと思ったが、やめた。先ほど見たはずの生物の姿はもう消えており、辺りにはさざ波だけが響いていた。

 余熱を残す香花岩もあるので翌朝に片付けようと思い、テントサウナをそのままに夏音の実家に戻る。両親はふたりとも既に寝ているようだったが、夏音は居間で待ってくれていた。シャワーを借りて海水と砂を洗い流してから寝自宅を整え、彼女が昔使っていた二階の部屋で床に就いた。彼女から夕食での顛末を謝られ、私からちゃんと言っておいたからね、大丈夫、時間は少しかかるかもだけど。夏音はそう零した。それより、両親とは大丈夫そう? うん、こっちはもう大丈夫だから。

 そんなやり取りをいくつか交わして眠った。結局、海で見た生物のことは何も話さなかった。


 翌日、東京へ帰る前に遊覧船に乗った。それはホエールウォッチングを目的としており、数人の観光客と一緒に乗船する。アナウンスの音とともに遠洋に出てしばし停泊した。

 客の中には外国人の姿もみえた。彼らからは調子はずれなイントネーションで、かおん、かおん、という言葉だけが聴きとれ、その響きは海のさざめきと混ざる。結局、鯨は姿を見せなかった。

 磯臭い服をそのままに夏音の実家を後にして、ふたりは母親の車で駅まで送ってもらう。途中、母親が昨晩のことを謝った。これに懲りずにまた遊びに来てね、わたしたち、家族になるのだから。バックミラー越しにサチに微笑みかける。かおんもね、と続ける。かおんかおん、この町に来て一体何度聞いただろうか。様々な人が彼女の名を呼ぶ、時にそれは町の名でもある。電車に揺られ、大阪駅で乗り換える。窓際に座った夏音はひたすらに窓外を眺めていた。


 夏音から一時的な別居を切り出されたのは一週間後のことだった。夕食後にリビングでくつろいでいる時に話を切り出され、サチはあまりの不意打ちに理解が追いつかなかった。

「勝手に決めてほんとにごめん」彼女はそう言って頭を下げた。

「わたしね、あの町でうみたいんだ。何でだかわかんない。けど、佳恩町でみんなから私の名前をよばれるたびに、帰っておいでって言われているような紐帯を感じたんだ」

 この時期に生活環境を一変させるなんて。ふたりの子供なのに君一人で産むだなんて。思いつく限りの疑念と非難を彼女に浴びせたが、彼女は辛抱強く頷く。かかりつけ医には相談を済ませていて既に紹介状も書いてもらっているし、両親からの承諾も取れている、そう答えた。

「本当に一人でぜんぶ決めてるんだ。ねえ、俺の立場って何なんだろうね」

 一緒に逃げようかと約束したあの手を払われたような気分だった。男親なんていらない、そう言いたいのだろうか。彼女と子供にとって、俺は一体何なのだろうかとサチは思う。

「本当にごめん。でも、子供の首が座ったら絶対に戻るから。それは絶対に約束する」

 話し合いは明け方まで続いた。幾ら止めても彼女は首を横に振り続け、結局はサチが折れるしかなかった。納得はできない。だが、尊重するほかの道はなかった。その後、彼女は荷造りをして、サチもそれを手伝った。夏音は午前中には大阪行きの新幹線に乗ってきえた。

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