第3話 妻の生まれ故郷は捕鯨の町
近畿地方の太平洋側にある佳恩町は古くからの捕鯨の町として知られている。その由来は縄文時代までさかのぼれ、近代捕鯨が始まってからだけでも四百年の伝統を持っていた。
「鯨一頭で七里がうるおう。昔からそう言い伝えられてきていてね、そんな鯨がよく獲れたから『すぐれて恩がある』って、この町名がつけられたって大人たちはよく言ってたなあ」
大阪駅から在来線を乗り継いで最寄り駅に着き、駅中に下がる薄汚れた「幸せを与えてくれる町」というキャッチコピーと鯨のイラストを指さしながら夏音は語った。
懐かしいなあ。この駅まで自転車で来て、そこから電車で隣の市の高校まで通っていたんだよね。昨日のおびえが嘘のように上気している夏音。
ふるびた駅舎を出るとさびれた広場には車が一台だけ停まっていた。少し前を歩いていた夏音が立ち止まって車を見つめる。背中に走る緊張に気がついたサチは彼女の肩に手を乗せた。 やがて、車から中年の男女が出てきた。ふたりの容姿には各々に夏音と似た部分がある。おかえり、と迎える夫婦。ただいま、十年かけて少女から大人の女性になった子が応答した。やがて両親は娘の隣に立つ男へと目線を向け、彼の手足に乗った模様が衣服ではないことに気がついて顔を曇らせたが、ふたりともすぐに視線をはずした。
夏音の両親の車で町まで向かった。県道を西に進むと左手側には雑木林が広がっていたが、『鯨隧道』と記されたトンネルを抜けたさきで初めて海がひらけた。
「この町には海しかないんです。東京の方からしたら退屈でしょう」
気づかうような調子で母親がサチに声をかけた。彼は首を横に振り、曖昧な言葉でお茶をにごす。
五分ほど走ると集落がみえてきた。県道を左に折れて、高台を中心に広がる集落の細い道をすすんでゆき、少しく中心部から離れた民家に車をとめた。車を降りた夏音は目をほそめる。
「なにも変わってないなあ」
五百坪ばかりの敷地に建つ一軒家。傍らには簡易的な屋根があって、その下には先ほどまで乗っていたものを含めて二台の車が停車している。庭には雑草が茂り、端には丈の低い木が数本生えていた。
家にあがって居間に通してもらうと、
「長旅でつかれたでしょう」
そう言って茶を出してくれる。礼を言って茶をすするサチ。卓を囲んで彼の左に座る父親は、湯飲みを持つ彼の掌に浮かぶ文様が気になって仕方ない様子だった。だが、何も問わない。代わりに娘へと、
「手紙ありがとうな。元気にしていたのか?」
十年間の空白が親子の間にたしかな溝をつくったような、ぎこちなさが残る質問。うん、と返してから続く父娘の会話に、茶菓子を用意した母も加わる。そんな様子に少しのいたたまれなさを覚えながら、サチは愛想笑いとともに茶をすすりつづけた。
三十分ほど話したのち、夏音からの提案をうけて町を少し散策することになった。
「じゃあその間に夕食の準備しておくから」
と母親。そして続けて、
「そうだ。町はずれに温泉があるから。よかったら帰りによってきたら?」
にぶい反応をしめしたふたり。それを認めた父親が、ところで、とサチの掌に視線を送りながら、重たい口火を切った。
「…きみのその身体。それは、どの程度まで入れているんだい?」
「全身にです」と答えて、ふたりは家を後にした。
「やっぱり時間はかかりそうねえ」
家を出た夏音がそう漏らした。
「まあ、わかっていたことだしね」
夏音の実家は岬の西側に建っていた。民家が続く細い路地をとぼとぼと北東に歩いてゆき、まずは門前町あたりまで向かう。風には潮の匂いがまじり、あまりに静かな生活音さえもかき消すようにさざめきだけが響いている。
「静か。ほんと、この町は変わらず静か」
門前町には民宿や飲食店が数件ならんでいた。古びた町に似つかわしくない洒落た外装の店舗もちらほらとあり、どこか落ち着かない雰囲気がある。
かおんちゃん。あら、かおんちゃんじゃないあんた。時折、通りすがる人が夏音に声かけた。その度に彼女は、あら何々さん家のおばさん。かおんじゃない? わかる、わたし。と同い年くらいの女性が訊ね、やだひさしぶり覚えてるよ、わあほんとなつかし。などと雑談にひたる。え、となりの人ってもしかして旦那さん、と訊ねられれば、サチも愛想よくわらった。
コンビニ前での長話が済んだのちに長い石段の前に着いた。百段ちかくはありそうな段を登るふたり、身重な彼女には危ないからと諫めたが、彼女は大丈夫と頑として聞かない。背後から支えるようにして登ってようやく頂上に着いたのは、全身からじっとりとした汗がにじみ始めた頃だった。
「ここが佳恩町の菩提寺」
息をあげながら夏音がそう漏らした。ごめん、ちょっと休ませて、と言って左手前にあったよく磨かれた石のベンチに夏音は座った。一方で少しく歩きながら周囲を見渡すサチ。
高台の寺には社殿と社務所、倉が一つ。倉の横には高さ四mほどの石碑が立っていた。そして何より、寺内のすみに生える巨大な杉の木。その木の下には女性の姿がみえ、彼女は、木に手を当てて俯いていた。
登ってきた石段を振り向けば、みなと町が一望できた。ひし形になった岬の先に紺碧の太平洋が広がる美しい眺望にしばし悦に浸っていると、
「あのひと、なにしてると思う?」
すっかり息を整えた夏音が隣にきていた。少し考えてから、わかんないなあと零すと、
「子宝祈願。ほら、私たちもいこ」
夏音が若干の危険を冒した理由もわかったが、それはむしろ逆効果ではと訝しく思うサチ。けれども結局はその真剣な様子に流されて、同様に杉の木に手を合わせることにした。
やがて眼をあけたサチは杉を見上げた。千年杉という呼び名が相応しいほどに幹は雄々しくねじれて溝をつくっていて、無数の枝葉は慈愛を拒むように鋭く空を裂いている。白く太いしめ縄が、威圧感をさらに強くしていた。途中、二度の「かおんちゃん」が聴こえた。が、サチは千年杉をしばし茫と見上げ続けていると、ふいに肩を揺らされ、我にかえった。
すでに女性はきえていて、代わりに作務衣を着た初老の男性が立っていた。
「こちら、このお寺の住職さん」
夏音の紹介を受けて剃髪頭を下げる住職。サチも慌てて、婚約者だと名乗り挨拶を交わした。
「あんなに小さかった子がね。こんなに美しい女性になられて」夏音に視線を向ける住職。
謙遜してみせる夏音に代わってサチが、
「十年ぶりだっていうのに彼女だってわかるんですね。なんだかすごいです」
「まあ、狭い町ですからね。それにかおんちゃんのご両親が『娘が帰省する』ってみんなに吹聴してたってのもありますし。あと、彼女は有名でしたから」
失踪事件のことに違いなかった。佳恩町に訪れてから初めてあがったこの話題に対して、昨晩の恋人の様子からも返答に迷ったサチだが、夏音の方はおくびにも出さずに質問する。
「あの、彼らは。三人はあれから?」
「見つかっていませんよ」住職は首を横に振った。
「二十年弱が経っても、ご家族の中には諦めきれない方もいて。ほら、君も仲良かった飯塚くん。彼のお母さんなどは、未だによく寺に来て、ご神木にお祈りをささげています。とても痛ましい」
飯塚君、という言葉に夏音は大きく肩をゆらした。サチは話題を変えようと思い、
「なぜ、木に祈りを。子宝のご神木だから?」
それもありますが…、住職はそう口火を切って言い伝えを披露する。
実際に調査をしたことはないらしいが、千年生きたと伝わってきたこのご神木。それは漁業で生計を立ててきた町にとって、陸を象徴するものだった。まだ灯台なんてものがなかった頃の話です、と前置きをして住職は語り出す。
ある日、漁師が遠海まで漁にでて網をかけていると、次第に濃霧がでて周囲がまったくみえなくなってしまった。やがて晴れることを祈ってその場で待ち続けた漁師だったが、次第にすっかり日が落ちてしまった。
今度は暗闇の中で往生する漁師。焦り、どうやって帰ったものか不安に思っていると、暗闇の中で光るものを見たという。町の灯りだと思った漁師は、ひたすらに漕いでそちらへ向かう。近づくにつれて光が薄ぼんやりと輪郭をともない、それが木だとわかった。高台に立つ杉の巨木だと。そして彼は、そのまま漕ぎつけて、何とか陸に帰ることができた、と住職は語った。
「こういった伝承が多く残っているんですよ、このご神木には。だからね、帰り道を失った子供たちがこの木を目印に帰ってきてくれますようにと、彼女は祈っているのでしょうね」
住職はそう語るとご神木を撫でた。長年この町の人間の生き死にを見つめ続けてきた初老のひとに対し、まばゆい気持ちを少しく抱くサチ。あ、そうだ。と住職は続けて言う。
「鯨墓は見ましたか?」
そう言って倉の横に立つ碑文を指す。じゃあちょっと…と先導をする彼についてゆき、苔むした四mほどの黒石に「南無阿弥陀仏」と書かれた碑文の前に立った。
「これは鯨のお墓です。この町では四百年前から鯨を捕り続けてきましたが、時に妊娠中の母鯨が捕れた場合もありました。これは、その胎児たちの墓ですね。百頭近くが眠っています」
風雨に長年さらされてきた石碑は、少しだけくたびれてみえた。
寺内をあとにする際、住職が声をかけた。
「胎児たちを弔う法会が九月にあるんですよ。よければおふたりで。かおんちゃんは知ってのとおり、お祭りのようなものですから」と言った後に続けて、
「かおんちゃんをよろしくお願いしますね」
住職はそう言って剃髪頭をサチに下げた。
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